077
「姉ちゃ、うわっ」
「うわって言わないで、自分でも思ってるから」
下校した千尋也くんを迎えに来たら、蔑みさえ含んだような目で見られた。
今日は冬獅郎くんの誕生日であり、私の終業式の日である。
終業式なので午前中で下校だったのだが、マイ弟の誕生日の準備をするため、そのままお店を回っていて、結局制服のまま千尋也くんのお迎えとなった。
その戦利品たちが、自転車かごにわんさかあふれ、ハンドルにぶらさがり、居場所を追いやられた通学バックは私の背中に無理矢理背負われている。
ついでと安かった大きなネギ束やトイレットペーパーのせいで、見た目が大変なことになっている。
あまりクラスメイトとすれ違いたくない位のボリュームだ。
「姉ちゃんって、サンザイヘキあるの?」
「ええっ、ないよ! たぶん」
うっかり安いとか、セールとかにつられて、必要以上のストックはしてしまうけど、散財癖ではないよね。
というか千尋也くん、よく散財癖なんて言葉、知ってたね?
「父ちゃんが、よく母さんに言ってるから」
なるほど。泰代おばさんも結構ミーハーでセールにも弱いけどブランドにもちょっと弱いからな……
「で、今日は何すんの?」
「まずケーキ作るでしょう? ごちそう作って、ゲーム用意してー」
「俺あのRPGみたいな格ゲーやりたい! 隠しキャラが全然出せねーんだよなー!」
「そんな2コンまでしかプレイできないのはやりません、もっとアナログなやつやります」
「えーっ、姉ちゃんのけち! ばか!」
「もー、また罵るー」
いつにもまして重いペダルをこぐが、今日はかごの重みのせいで前輪がふらふらと進路がぶれる。
しまった、調子に乗って醤油の1.5リットルボトル買ったからか。
ハンドルを握る手に必要以上の力が入って異常なまでに疲れるが、ここで力を抜くと一気に転ける羽目になるのは間違いない。
うっすら冷や汗をかいて操縦していることなどみじんも知らないであろう千尋也くんは、どのゲームをクリアしてどのゲームがまだかということを教えてくれているが、全く頭にも耳にすらも入ってこない。
ごめん千尋也くん、姉ちゃんは今すごく必死なの。わかって!
「姉ちゃん、なあ」
「ごめん、今忙しいの」
「ぶつかるよ」
「えっ」
千尋也くんの不意の指摘に、あわよくば横にそれようとする前輪を見つめていた目を、前に戻した。
歩道もない細い住宅街の道路の先から、中学生くらいの自転車が走ってくる。
自転車の後ろには、新聞配達用の青い大きなトレイが積まれていて、その上に部活用の大きなバッグと紙袋なんかが私の荷物を上回るボリュームで積まれている。
くそう、それ終業式まで学校に私物ため込んでたパターンだろう!
後ろに積んでるからか体力の違いか、自転車に乗っている本人は余裕そうで悠々とこちらに向かって走ってくる。
その後ろからは車が一台。
ちょうど三人が同時にすれ違うタイミングが、もうすぐそこまで迫っていた。
「わ、わ、わ!」
これはだめだと、千尋也くんも思ったのかもしれない。
沈没するタイタニック号を見捨てるように、もしくは負担を減らそうとの善意で、千尋也くんが後ろからぴょんと飛び降りた。
「にゃーっ、降りちゃだめーっ!」
かろうじて限界のところで保っていたバランスが、一気に崩壊する。
前輪など、もう言うことは聞かなくて暴れるし、中学生は自分の後ろから来た自動車にやっと気づいて私の横すれすれまで寄ってスピードを上げて走り去っていったし、車に乗ってた男の人は、助手席の彼女と楽しそうにおしゃべりしながら通り過ぎていった。
余裕がないのは私だけか…!
せめて飛散するのは守ろうと、かごの中のスーパーの袋を上から押さえ込みながら地面に倒れる自転車から離脱したところで、声がかかった。
「大丈夫か?」
千尋也くんの声ではない。
大股開きでしゃがんで、かごの中身を押さえたまま振り返ると、ぽかんと口を開けた崎守くんが自転車にのって止まっていた。
ああ……羞恥で死ねる。
「いやあ、今のはそうなるな。相当ふらふらだったもん。あんなトリプルブッキングなくても、いずれ転んだって」
俺でも無理だわ、と慰めるというほどには愛のこもっていない口調で崎守くんはカカッと笑う。
いやまあ、自業自得ですけど。調子こいて買いすぎた私が悪いんですけど。
やさぐれながら自転車を立て直すのを、崎守くんが手伝ってくれる。ありがとう。でもいたたまれないから見なかったことにしてくれた方がうれしいかな。
「いつから見てたの?」
「さっきの大通りから、よろよろで角曲がるの見たから、ちょっと追っかけてきてみたんだけどさ。ひっでえ運転なんだもん、やっと自転車の補助輪外した小学生みたいな」
わ、私だって、千尋也くんが飛び降りさえしなければなんとか乗り越えられた……かもしれないじゃない、万に一でも!
……いや、どうせ坂や段差でいずれ転んだよね、わかってる。わかってるよ。
「……どうもご心配おかけしまして、ここからはおとなしく自転車押して帰りますので」
「えーっ、歩くのやだよ!!」
くぉらっ、おだまり!
我関せずだった千尋也くんが、とたんに抗議の声を上げる。
本当にどこまでも自分に正直なやつめ。
「まあまあ、家までだろ? 手伝うよ」
「いえどうぞおきづかいナク」
「あからさまに片言だなー」
警戒しなくても、なんもしないってー。と快活に冗談を飛ばしながらトイレットペーパーが崎守くんの自転車のハンドルにかかる。
ああぁ……一番申し訳ない奴が人質に………。
「こっちの道より、距離はあるけどこっちのがいいぞ。公園のサイクリングロード通れば段差もないし、信号ないし」
醤油の入った袋もとられて、問答無用で主導権が委譲する。
人畜無害そうな顔して、相変わらずマイペースというかフリーダムというか……
「なあ、この人だれ?」
のんきな千尋也くんが、空いた私の自転車のかごに自分の荷物を放り込んで問う。
崎守くんが振り返って、顔に笑みを浮かべた。いやな予感が……
「なあ、坊主。お前も##name-2##の弟か?」
「は?」
「いや違うよ、親戚の子。期間限定で預かってるの」
「あー、そうなの? 俺は崎守。よろしくな親戚の坊主。ついでに親戚の姉ちゃん口説くの手伝ってくれていいんだぞ」
うーわーー。
盛大なめまいがした。
千尋也くんが珍しく子供っぽい顔でキョトンとしていたが、じわじわとその顔に悪い笑みを浮かべて私に視線を移してくる。
この坊主にだけは、この坊主にだけは知らせてほしくなかった…!
「へーえ! 姉ちゃんもちゃんとちょっかいかけてもらったりするんだな!」
ちょっかいってなんだ。そしてどういう意味だ。告白なんかされたのはじめてだけどどういう意味だ。
「サキモリさん? なんでこんなクソババアがいいわけ?」
「クソババアってなによ!」
「お前、なめられてんなー」
「この子はバキレンジャーのブラックしかあがめないの!」
「ああ、あれのフィギュア付きの菓子知ってるか? すーげえ確率悪くってさあ。弟が箱買いして、馬鹿だよなー」
「はこがい……?」
「崎守くん、そういう類いの知識をこの子に入れてはいけません」
「なあ、箱買いってなに?」
「世の中、知らない方が幸せなこともたーくさんあるの、千尋也くん」
「それって大人が都合悪いときに使う言葉だろー、ごまかすなよ姉ちゃんのくせにー」
「お前の親戚、面白れぇなー」
はたで見てる分にはそうでしょうとも!
意地で自転車のペダルを押しこぎながら、早く家につけ!と念じる。
千尋也くん、足ばたばたしないで走りにくいから!
「で、姉ちゃんこの人と付き合うの?」
ペダルを踏み外しかけた。
うまく流せるところだったのに!
崎守くんも崎守くんで、「いいぞー、親戚ー」とあおる。やめてくださいほんと今日までずるずる伸ばしてて申し訳なかったです謝るから許して!
「千尋也くん。世の中には」「知らない方がなんちゃらはさっき聞いたから却下ー」「世の中にはね、人の恋路に口出す者は、馬に蹴られて死んじまえって過激な言葉があってね」「馬なんかどこにいるんだよ」「現代は車にその職務が引き継がれました」
くっくっく、と崎守くんが堪える気もなさそうに笑いをもらす。
同じ当事者なのにこの余裕の違いはどういうこと…!
普通、告白した側の方が冷やかされるのって嫌なものじゃないのか。
「ほんとおもしれえな」
「崎守くん。千尋也くんが数日以内におうちに帰るので、その後でお話しましょうか」
「おー。ついにそのときが来るのか?」
「姉ちゃん、放置プレイって言うんだぜ、そういうの」
「変な言葉ばっかり覚えないの!」
「坊主、いつ家に帰るんだ?」
崎守くんがそう聞いたのは、会話の流れから言って、全く不自然ではなかったように思う。
不意に背中の荷台が、誰も乗っていないんじゃないかと思うくらい静かになった。思わず振り返って確かめると、間違いなく千尋也くんの綺麗なつむじが見えた。
「…べつに、兄ちゃんらがうまく行ったらじゃねーの」
「兄ちゃん?」
「千尋也くんの上にいる男の子が、今年受験するんだって、中学」
「はあーっ。俺、高校受験だけでもうんざりだったのに、すげえなあ。じゃあお前も何年後かに中学お受験するのか?」
「しねえよ! 俺頭悪いもん!」
おー、俺と一緒だ。と崎守くんがあっけらかんと笑った。
やや遠回りになったものの、崎守くんが最初に言ったとおり、比較的平坦で走りやすい道のおかげで見慣れたマンションの前まで戻ってきた。
いつぞやは夏休みの宿題をひっさげてうちに来たことがある崎守くんは、私が言うまでもなくしっかりとうちのマンションの前に自転車を止めて荷物を下ろしてくれた。
「ありがとう……助かった」
「気にすんな、ポイント稼ぎ込みだから」
本気かどうか、そう嘯いた崎守くんは、私の遠慮の制止も全く耳に入っていない様子でエレベーターに荷物を持って乗り込み、結局家の玄関まで運んでくれた。
「あ、ただいま…」
「おー、##name-2##弟! 元気だったか?」
先に帰っていたらしい冬獅郎くんが、奥の部屋から姿を現した。
私、崎守くんと視線を移し、ひたり、と彼を見据える。
対客人にしては、ずいぶん鋭い視線ではないかね? 冬獅郎くんや。
ずかずかと私の隣を通って中に入っていった千尋也くんを尻目に、「じゃあ、またそこの坊主が帰った後でな!」なんて晴れやかな笑顔を残し、崎守くんはドアの向こうへ消えた。
ああ、そうか。終業式終わったから、崎守くんに会おうと思ったら、意図してそういう日を設けなければならないのか。
うわああああ、わざわざそのために会う日を作るのすごくいやだなあ! 冬休み明けまで待っちゃダメかな……だめだよねぇ、さすがにそれは人間としてひどいよねぇ。
千尋也くんは、クリスマスにはおうちに帰るんだし、とリビングの扉を開けた瞬間、
「オレ、もう家に帰らねえから!!」
と顔を真っ赤にして、千尋也くんがダイニングテーブルの横に仁王立ち、喚くように怒鳴った。
ぽかんと口が開いて、自分の体の筋肉という筋肉が一時停止するのが分かった。
千尋也くんと目を合わせるうち、もりもりと彼の瞳には涙が盛り上がって、嗚咽ごとはき出すように、もう一度彼は「帰らねえからな!」と声を上げたのだった。
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