074
「おはよーう」
「おー!今日はセーフじゃないのー! やるう」
翌日。朝の死闘を乗り越えて、どうにか朝のSHRが始まる前に学校に辿りつけた。
友人の本気の称えを受けて教室に入ることができて、まさに気分は勝者である。
一日目は一時間目を逃すという、盛大な遅刻をかました。
前日の自転車タイムトライアルがたたったのか、筋肉痛はずいぶんひどかったが、なせばなるのである。
自分の机になだれ込んだが、いかんせん体がギクシャクしている観は否めない。座り方が不自然にもなる。
「がんばるねー。隣町の小学校まで行ってるんでしょう?」
「うんまあ…家から見れば高校と方角一緒だから、まだマシね」
「いやー、私なら即断でバス一択だわ! 一人で行かせる!」
小学校高学年くらいなら、喜んでそうするんだけどねぇ。
それでも、明日を乗り切り、週が明ければ終業式で、この任務も終わる。
そこまで勤めあげれば、このぷよぷよの太ももも、ちょっとはメリハリボディになるだろうか?
筋肉痛で張っている大腿筋をもみほぐしてみるが、脂肪の層が厚さから言って、あまり望めそうになかった。
「内田、それえろい」
「は、」
筋肉の違和感が一番ひどい筋を指先で探っていると、通りがかった崎守くんが、通りがかりざまにつぶやきを投げ込んでいった。
顔をあげたときには、彼はすでに机二つ前まで歩き去っていて、教卓前の友人の席まで辿りついくと、小さく振り向いて片方の口角を引き上げた。
……そんな小爆弾いらない。
顔でも赤くなってたらどうしようかと、頬っぺたをつまみ、崎守くんから視線を外す。
膝まで覆い隠すように、裾が少し上がっていたスカートを、丁寧に伸ばした。
告白の返事は、いまだ出来ないでいる。
千尋也くんを迎えに行く道は、比較的アップダウンの少ないルートを見つけていた。
放課後になれば、あの日からちゃんと校門そばの鉄棒で遊びながら待っている千尋也くんを拾って、家にUターン。
千尋也くんは自転車の後ろに座って、子供らしい小さくて柔らかい手で腰にしっかり掴まりながら、今日あったことから夏休みの思い出まで、思いつく限り片っ端からマシンガントークで話してくれる。
自分の思うがままに話すので、たまに月日がいつの間にか飛んでいたり、登場人物が行方不明になったりして、話の全容が掴めないのは御愛嬌。
「慶都のやつがさあ、下敷きがグランドムラジオンでさ! あっ、翆は元々メガザニールだったのを兄貴からもらったんだって、ずりぃよ。ボルゾンが最後にやられる時のサイオンも翆なんだぜー。だからさ、だからさ、カードステージでいっつもプラギニオン出されてオレ負けるの、当たり前なんだって! クラス替えってやっぱ必要だよな!」
とまあ、こんな具合である。
そもそも何のキャラクターの話か、下敷きとカードステージとやらがどう繋がっているのか、なぜ結論がクラス替えについてなのか、全く把握できない。
それでも千尋也くんは非常に楽しそうで、私は私で冬ちゃんからは聞けない小学生の日常は、新鮮である。
冬獅郎くんもこんな風にして、毎日を過ごしているのだろうか。
…いや、バキレンジャーごっこの配役でもめてる姿なんて、どんなにひねっても想像できない。
そもそもアニメとか戦隊モノに、彼が興味を持っているようにも見えない。
「ねえ、千尋也くん。明日、冬獅郎くんの誕生日なんだよ」
「あー?」
「た、ん、じょ、う、び」
「へー」
「明日お祝いするから、手伝ってね」
「ふーん」
「ケーキ食べれるよ」
「もうすぐクリスマスじゃん。どっちみち食べれるっつーの」
「ふうん、じゃあ千尋也くんはクリスマスのショートケーキだけでいいと」
「言ってねーよっ!」
千尋也くんが盛大に憤慨したところで、マンションの駐輪場で狭い自転車の隙間に滑り込むように己の自転車をとめた。
もう勝手の分かっている千尋也くんが、マンションに走り込んで行くのを追って、ようよう辿りついたわが家の玄関は、最近やけに重く感じられる。
鍵を開くのを待って飛び込んだ、相変わらず疲れるということを知らない悪ガキは、ゲーム機一直線だ。
「くぅらっ、だから先に手洗いうがいしなさいって言ってるでしょうが!」
「また怒った! 妖怪プリプリ女! 顔のシワ増えんぞ!」
「怒らす前に手を洗えーっ」
何が楽しいのか、千尋也くんは笑いながらどたどたとリビングを駆け出ていく。ああ、下の階の大倉さん、連日うるさいだろうな。申し訳ない。
ものすごく邪魔なところに投げうたれたランドセルを拾って、自分のかばんと一緒に部屋に運ぶ。
自室の扉を開けて、ローテーブルの横に鞄を落として、そこでふっと固まった。
あれ…?
部屋を見渡す。
「あっ、姉ちゃん、オレのランドセルどこ!?」
「部屋に持ってったよー…」
部屋を出て廊下をひたひたと戻る最中に、洗面所から弾丸で飛び出してきた千尋也くんを避けて、玄関へ向かう。
……ない。
チャコールグレーの床の狭い玄関には、あるべきものが無かい。
濃い緑と白の、冬獅郎くんのキャンパスシューズが見当たらない。
家じゅう回ってみても、やはり冬獅郎くんの姿がなかった。
空手少年団は昨日で、今日は何もないはず。
高学年だし、委員会活動か?
でももうすぐ終業式だし。
お友達でもできて、寄り道でもしているのだろうか?
千尋也くんと段違いにしっかりした冬獅郎くんが、しょうもない理由でフラフラはしないだろうに?
二つしか靴の無い玄関を見て、思考を巡らせるのにその場でしばらくフリーズ。
「姉ちゃん、ちょっとこれ見てよ! こないだの理科の授業で描いたんだけどさ!!」
「ね、千尋也くん。冬獅郎くんが帰ってきてないみたい」
「は?」
「どうしたのかな。私達と同じ午前授業だから、先に帰ってるはずなんだけど」
時刻は3時をとっくに回っている。
高校が終わってから千尋也くんの小学校まで迎えに行って家に帰ってきた私達より、冬獅郎くんが遅いのはおかしい。
千尋也くんがその時、なんと返事をしたのかは分からなかった。
しなかったのかもしれない。
部屋に引き返して財布を持って玄関に戻ってきたとき、リビングの扉を出たところに千尋也くんがそのまま立っていた。
「探しに行くの?」
さっきまで限界知らずのハイテンションだったのに、今は妙な真顔で千尋也くんがそう聞いた。
その顔が、不意に冬獅郎くんとかぶった。
「うん」
なぜ、かぶるのだろうか?
「一緒に行く?」
「うん」
やっぱり真顔で、千尋也くんが答えて靴を履いた。
はっきり言って自転車はもうお腹いっぱいだったので、千尋也くんととぼとぼ歩きで通学路をたどった。
どこの家の子供たちもすでにランドセルを置いて、遊びに行くのにぼろぼろとあらわれては自転車で軽快に道を駆けて行った。
家に帰ってくるまではあんなにかしましかった千尋也くんが、今はなんともふてぶてしい顔でポケットに手を突っ込み、横をずかずか歩いている。
視線はなげやりといった具合で、前方の投げられて、人探しをする様相ではなかった。
家に帰るまで、あれだけの回転数を誇っていた口も、今はぴったりくっついている。
無言の少年という生物には、我ながらひと一倍免疫があると思うのだが、どうにも引っかかった。
「千尋也くん」
「んー」
「お腹すいた?」
「べつに」
「…冬ちゃん見つけたら、、おばさんが持たせてくれたイチゴ、みんなで食べようね」
「減ってないってば」
「――もうすぐ冬ちゃんの小学校だよ」
通学路マークの標識のある角を曲がって、校庭のフェンスが見えて来る。
あれだよ、と言っても、千尋也くんから返ってきたのは相変わらずの生返事だった。
まっすぐ歩いて小学校まで来たが、結局道中にはマイ弟の影も気配もありはしなかった。
ベージュの色をした校門まで歩を進め、立ち止まる。
校舎には生徒の気配はまるでなく、グランドの端のコンクリート道を用務員のおじさんが歩いているっきりだった。
「いねーじゃん」
全く同意見なコメントが、千尋也くんの口から洩れる。
しかし、情けないことに、ここの他に心当たりなど一つもないのだ。
いつぞやのことを思い出して振り返る。
フォルクスワーゲンのジェッタがそこに止まって、葛畑先生が腕組みしてこちらを見ているような錯覚を覚えて、めまいがした。
「探さなきゃね」
「どこを?」
ふてたような声で千尋也くんに聞き返されても、答えを返せない。
白けたような空気を割ったのは、千尋也くんでも私でもない、小さな第三者の声だった。
「――、ああっ、きみ!」
「こ、こんにちは」
気の弱そうな、四年生ぐらいの男の子。
鉢の字眉の瓜実顔は、いつか小学校の玄関口で傘を貸した男の子だった。
彼はすでにランドセル類の荷物はなくて、ブルーのマウンテンバイクにまたがっていた。そんな少年は、まさに私が求めていた話題を、的確に衝いた。
「あの、もしかして内田くんですか…?」
「もしかして、どこにいるか知ってる?」
「知っているというか……知らないかもしれないんですけど。僕もちょっと気になってて」
しどろもどろに口を開いた少年は、ちらと校舎を見上げる。それを千尋也くんと私が視線で追った。
「昨日はクラブ活動の日だったんですけど、僕、新聞クラブで、体育館に話題を探しに行ったら、他の学校の子がいて…」
ごくり、と喉を鳴らした少年が言うにはこうだ。
体育館では空手のメンバーが活動をしていた。その中には冬獅郎くんもいたが、それを、先日試合に来た他校の生徒(葛畑先生が小学校に来た、あの日の試合の生徒だ)が、覗きに来たらしい。
当時のちょっとした騒動を知っている顧問の先生が、彼らに帰るように促したところ、その生徒は冬獅郎くんに素早く駆けよって何事か囁いた後、今日、もう一度勝負するようにふっかけたそうだ。
そして、驚くことに、
「冬ちゃんがそれに応じたぁあ!?」
「うっわ、ぜってーリンチだな!」
あんぐり見事に口が開いた。千尋也くんの感想も、右から左に流れた。
信じられない。殴りかかられれば応戦しても、わざわざ出向いてまで喧嘩するような性格だったろうか?
戸惑うような表情をした四年生少年は、しかし頷く動作にためらいはなかった。
そもそもの『突き飛ばし事件』について、そういえばあの問題は解決していなかった。
葛畑先生のことでいっぱいいっぱいで、正直忘れていたが、あの騒動はまた別件だったのだ。
もしかして、先週に追いかけまわされていたのも、それが原因だったのだろうか?
バカだ……ぜんぜん気にかけてなかった。
「どこで勝負するか、分かる?」
「ううん、僕、ここでやるんだと思ってて。でも誰もいなくって」
途方に暮れたように四年生少年が下を向く。
「じゃあ、相手の学校じゃねーの?」
頭の後ろで手を組んだ千尋也くんが、自然導き出される答えを口にする。
「でも、相手の子だって、先生の目につくところで喧嘩なんてやりたくはないでしょー…」
ごく道理を述べたつもりの私の意見は、まさかの大間違いでひっくり返される。
「うっそだろ……」
元々ぱっちりした二重の瞳をまんまるくして、千尋也くんはそうもらした。
私の方は言葉も出ない。
四年生少年に聞いて、とりあえず相手の小学校に赴いてみれば。グランドの端にあった珍しい相撲の土俵の上で冬獅郎くんが仁王立ちしていた。
同じ土俵の上には冬獅郎くんよりすらっと背の高い少年が、「痛い痛い」と呻いてうずくまっていた。
土俵の下には、鼻血を出した男の子がひとり、土まみれの男の子が一人いた。
少しの返り血を浴びた冬獅郎くんが、わずかに息を切らせて唯一立っているところを見ると、まさしく返り討ちの決まり手だった。
恐ろしげに冬獅郎くんを見上げる千尋也くんはともかく、私が一番驚いたのは、冬獅郎くん本人でも、怪我をした相手の子でも、土俵の周りをぐるりに取り囲んだギャラリーの小学生の群れでもなく、何か判別できないスポーツの記念Tシャツを着た、間違いなく教諭らしき男性がその様子を見守っていたことだ。
止めに入ったというわけではなさそうだ。明らかに最初からこの場にいた様子である。
「情けねえ! 自分でリベンジけしかけといて、このザマか!」
信じられない言葉が、大塚先生を上回るガタイの男性教諭の口から発せられた。
「そんな程度の実力なら、ハナっから粋がってんな! プライドってのぁな、積み重ねた実力に対しての誇りのことを言うんだよ。お前らのはただの見栄っ張りだドアホウ!」
痛いとぐずる少年や、半泣きで鼻血を押さえる少年や、土まみれで悄然とした少年に向かって、ほとんど暴言であるそのセリフを、躊躇いなく吹っ掛ける。
いったいこの男性は、なんなのか?
「その前に病院つれていきましょうよ!」
異様な状況に思わず叫んで突っ込んでしまった私に、その場にいるのすべての視線が集結した。
でもその時は、ただただおかしな現状に対して常識やらがマヒしてしまったのか、普段なら怯むところを勢いで乗り切ってしまったのだった。
------アトガキ------
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