071
「姉ちゃーん!」
まだ距離のある駅の階段のうえから、飛びそうな勢いで右腕を振る小さな男の子に、負けないくらい手を振って応えた。
泰代おばさんの電話の翌々日。
急な話でごめんなさいねぇ、と何度も繰り返したおばさんの声が、まだ頭のどこかでリフレインしている気がする。
電車には乗せるというので、学校帰りに駅に寄って改札口で待っていれば、黒光りしているランドセルと、戦隊ヒーローが描かれたハンドメイドの手提げ袋、それから見覚えのあるスーパーのビニール袋を手にした千尋也くんが、転げ落ちんばかりに階段を駆け下りてきた。
それがあんまり、肝を冷やすドタバタぶりだったので、思わず金切り声一歩手前の高音ボイスで叫んでしまった。
「危ないから、ゆっくり下りて!」
「姉ちゃん久しぶり!!」
聞いちゃいない千尋也くんは、勢いを殺すなどという救済措置もなく、どんっと体当たりして飛びついてきた。
愛情表現というより、戦隊ごっこで悪者役になったような容赦ないスキンシップだ。
「下りる改札、迷わなかった?」
「大丈夫に決まってんだろ、オレもう二年生なんだぜ!」
ぶ、“オレ”だって。
この間まで、自分のことを名前か僕って言ってたのに。
可愛いなあと思いながら、にこにこ頭を撫でていると、子供扱いすんなよな!と怒られた。これは失敬。
しかし頭を撫でたら怒ったわりに、私の左手を取って手をつなぎ、ぐいぐい引っ張っていくところはどう見ても子供っぽい。かっこつけたいお年頃か。
「早く家行こうぜ。姉ちゃん家のあの古いゲームやりたい! 今度こそ全面クリアすんだからな」
「はいはい、ちゃんと宿題して、就寝時間守るんだったら貸してあげます」
「えーっ、徹夜でやるつもりだったのにぃー」
「それはダメー」
「姉ちゃんのケチ!!バカ!!」
全力で罵られてしまった。これで手を振り払われでもしていたら、しばらく凹んで立ち直れなかったかもしれない。
けれども、ころっと機嫌を直した千尋也くんは、うちにあるゲームの名前をつらつら並べて、楽しそうに話を再開する。
よくもまあ、そんなに細かく覚えているものだ。私でも忘れてたゲームのタイトルを、どの箱に入ってるか、難易度のレベルが何個あるかまで知っている。
「でも、あんな古くっさいゲーム機なのに、なんか最近のソフトもあるよな」
なんのこと?
感心したようにそう言った千尋也くんの話を聞いてみれば、先日、自分の誕生日に買ってもらった最新のポータブルゲーム機と同じソフトが、私の家にあるという。
それはおかしい。うちの眞知子さんが、どこで見つけて来るのかマニアックなパソコンゲームをやる以外は、ここ何年もゲームなんて買っていない。
しかし、よくよく聞けば、思わず笑ってしまった。
「あのね、千尋也くんの持ってる方はリメイクって言って、古いゲームを今のゲーム機向けに作り直したやつなんだよ。だから、うちにあるのが初代」
「ええー、だってあのゲーム、発売したの去年だぜ! 嘘つき!!」
「いや、だからね…」
昔から勢いのある子だったけど、なんだか輪をかけて猪突猛進に成長してるな……お姉さん、ついていけるかしら。
駅からの帰り道、私は始終、千尋也くんに手をぐいぐいひかれて辿ることになり、千尋也くんはその間中、機関銃のように喋りっぱなしだった。
ふと、電話越しに最後に言った、泰代おばさんの言葉が脳裏をよぎった。
『上の子が、年明けすぐにお受験することになってね。千尋也は手がかかる子だし、構いきれなくてね…』
「はやくはやく!」
「ちょっと待っ……鍵回せないから」
そんなに家に入りたいかというほど、千尋也くんに腕に絡みつかれながらせっつかれて、逆にいつもより時間がかかりながらようやく開いた扉の向こうに、黒のランドセルを背負った背中が飛び込んで行った。
脱ぎ散らかされた運動靴はばらばらに着地し、スーパーの袋は廊下に投げられた。無事だったのは私が持っている手提げ袋だけか。
後から家に入って鍵を閉め、靴を揃えて家に上がり、スーパーの袋を持ちあげてみたら、泰代おばさんが持たせたのだろう、中身は大粒のイチゴのパックだった。しまった、これも私が持つべきだった。
それを冷蔵庫にしまってから廊下に戻り、部屋へ向かうと、自室の入口でランドセルを半端にずり下げた状態の千尋也くんが、仁王立ちに立ち尽くしていた。
彼の頭越しに部屋をのぞくと、ぱちりと翡翠と目が合う。
ローテーブルに向って、宿題の真っ最中だったらしい。冬獅郎くんが鉛筆を持った状態でこちらを見上げていた。
千尋也くんの相手をした後だと、仮にも同じ小学生とは思えない落ち着きっぷりだ。足して二で割ったら、さぞかし丁度いいことだろう。
白髪の前髪の間からこちらを見つめ、ああ、冬獅郎くんの髪、散髪しないとなあ、とずれたことを思った。
「姉ちゃん、こいつがトーシロー?」
「そう、私の弟。仲良くしてね」
「……ふうん」
なんだか千尋也くんの視線が冷たいのは気のせいだろうか。
少しの間冬獅郎くんを見下ろしていたかと思うと、おもむろにランドセルを床に放り投げ、ずかずか部屋を横切ったかと思えば向かったのは押入れの下段の収納ボックス。
ほんと、よく覚えてることだ。そこから出てくるのは、ひと世代といわず、三世代も前の懐かしのゲーム機。
「こーら、その前に手洗いうがい!」
「母ちゃんみたいなこと言うなよなー、小じわ出来んぞ姉ちゃん」
「その前に千尋也くんがばい菌にくっちゃくちゃにされるんだから。ほらほら、早くしないと晩御飯がニンジンまみれになるよー」
「うげー!! やめろバカ! アホ!!」
「罵らないの!」
まったく、この子はバカとかアホとかすぐ口走っちゃって。口はもとからキレイな方ではなかったが、ひとをバカにするような子じゃなかったのになー。
いい加減な手洗いうがいを阻止するべく、洗面所へ後を追いながら、当分の間は大変な目にあいそうだと溜息をついた。
そのうち疲れておとなしくなるだろう、という私の予想は、見事に外れた。
夕食の時間になれば、出された料理にあれこれと文句をつけ、結局野菜を半分食べさせるので精一杯。母ちゃんはドレッシング手作りだ! というのは千尋也くんの弁だが、泰代おばさんは手の込んだことが得意な人だ。私みたいな間に合わせ主婦が、到底およぶところではない。
ご飯を食べ終わってからはテレビに間近でかじりつき、お風呂に入らせるのも一苦労。今朝までは、あわよくば冬獅郎くんと入らせようと思っていたが、記憶以上の腕白ぶりに冬獅郎くんに任せきるわけにもいかず、せがまれて結局わたしが一緒に入った。
一息つけるか、という目算は木っ端みじんに吹っ飛ばされたわけだが、お風呂の勝手もわからないだろうし、まあこれは仕方ない。しかし、小学生の男の子というのは、こうも手がかかったものだったろうか?
ちらり、と我が家の小学生の男の子を横目で見るが、大学生が図書室にでもいるかのごとく、静かに読書するマイ弟の姿。三歳の年の差を考慮しても、やっぱり個人差ってすごい。
ゲームに夢中の千尋也くんの髪を後ろから拭きながら、ぼんやりそんなことを考える。
明日は千尋也くんを小学校まで自転車で送っていくというのに、その元気まで前借したような疲労を感じる。
千尋也くんの小学校は、わたしの高校と千尋也くんの自宅の、ちょうど中間地点にあるが、近いとは言い難い距離だ。明日は早起きしないとなぁ、と思いながら、はたして千尋也くんがちゃんと起きてくれるものか、大変心配になる。
ふあぁ、と漏れ出たあくびを半端に噛み殺し、時計を見上げればもういい時間。あぁ、一日早かった。すっごく早かった。
「千尋也くん、布団敷くから机退けるよ。ゲーム、それゲームオーバーになったら終わりだからね」
「んー………、あ゛―っ、姉ちゃんが余計なこと言うから死んだじゃんかー!!」
「勇者とは、追い込まれてこそ真価を発揮するものだよ。ほらほら、ゲームしまって」
「もう一回ぃー!」
「ダメですー」
すかさずコンティニューをAボタンしようとしている千尋也くんから、コントローラーを取り上げて、大批判を受けながらも布団を敷く。
めざとく見つけた枕で、一人まくら投げをするのはやめてくれ。そして私を標的にしないでほしい。
「なー…。姉ちゃんはどこで寝んの?」
「私の部屋だけど?」
「……オレだけこっち?」
「うちに来た時は、いっつもここで寝るじゃない」
「だけど、いつもは母ちゃんとか兄ちゃんとか……」
あれ、一人ははじめてだったか。
でも、私の部屋は布団を二枚敷いたらいっぱいいっぱいだ。
考えていると、姉ちゃんもこっちで寝ようぜー、と駄々をこねられ、断りきれないまま一緒に自室に戻ると、寝る準備をしていた冬獅郎くんがいた。
布団は私の分もそこに敷かれ、パジャマは掛け布団の上に置かれている。
うわー、もうなんていい子。お姉ちゃん涙出そう。
通学バックに教科書を詰める白髪の後ろ姿に、私あっちで寝るから、とは言いづらい。
しかし千尋也くんは、私の布団の端っこをつかむと、早々に引きずり始めた。
「えっ、千尋也くん、タンマタンマ!」
「えー、姉ちゃん向こうで寝るって言ったじゃん!」
言ってない! まだ返事はしていない!
ふっと振り返った冬獅郎くんと目があう。賑やかな千尋也くんが横にいながらも、翡翠との視線の間だけは妙な静けさが漂った。
…なんだろう。この、この上ない居心地の悪さ。いっつも一緒にいる友達に、「あ、今日あの子と一緒に帰るから」って言わなくちゃならないような、中途半端な罪悪感。しかも、だから一緒に帰ろうよ!とも誘い難い、この二者の微妙な不仲具合。
でもここは年長者として、どっちかに偏るようなことがあってはならん…!
「えーーっと。みんなで寝ようか千尋也くん!」
「えぇーっ!」
嫌そう、というより、完全にふてくされた顔。あーあ、機嫌損なった。
「ああそう、じゃあ千尋也くんはここで冬ちゃんと一緒に寝なさい。姉ちゃん向こうで一人で寝るから」
「な、ん、で、そうなるんだよー!」
「いっつも兄ちゃんと寝てるんでしょー? それとおんなじでしょ。もー姉ちゃん疲れた。明日は早いんだから寝なさい。わがままは何回も通りません」
おやすみーとパジャマを持って、退室。
ちょっと冬獅郎くんに押し付ける形になって、申し訳ないかな、とは思う。
だが多分、私は一緒に寝ない方がいい。どうやらお泊まり会の子供定番の、テンションあがってなかなか寝ないパターンに入ってる千尋也くんは、私が一緒にいると、また喋りっぱなしで寝ようとしないだろう。
冬獅郎くんといれば、良くも悪くも落ち着くだろうし、ふてくされてもなんでも寝てくれる、はず。
仮に千尋也くんがつっかかっても、さすがに二年生からの喧嘩を買うほど冬獅郎くんはバカな子ではない。
というわけで冬獅郎くん、よろしく。
でもやっぱりちょっと気になったので、進みかけていた廊下を戻り、部屋の扉を薄く開いて。
「千尋也くんがおとなしく寝るかどうかで、明日の晩御飯の内容が左右されまーす」
ちいさく牽制を投げ込んだ。
うげ、という千尋也くんの声が聞こえたので、ひとまず大丈夫だろう。
あぁ、やっと寝れる! とあくびをもらしたときには結局、いつもより遅い時刻を時計の短針が散歩していた。
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