062
「まず、冬獅郎くんは、ちゃんと行って帰ってくるってことが無かったわねぇ」
そう言った院長先生は、小さく笑った。
院長先生自ら運転する白いバンに乗って、私の住む街へと向かっている最中。広い空間に二人っきりの車内で、院長先生は冬獅郎くんがまだ施設で暮らしていた頃の様子を少し話してくれた。
最初の頃はまだ、言葉も話していたんだけれど、と言った時は、院長先生は眉をひそめて、はじめて哀しげな表示を浮かべた。
「だから、いい里親さんに引き取られたと、涙が出るほど嬉しいの。確かな彼の居場所が出来たんだものねぇ。脱走もしないで、自分の意見が言えて」
「…そう、なんでしょうか」
「自信がない?」
胸を横断するシートベルトをいじりながら、多分無いのだ、と思った。
元から自信満々だったわけじゃないけど、私を否定するのは、決定的に批判した葛畑先生の言葉だった。
それがグッサリ刺さって抜けないのは、確かにその言葉が間違いじゃなく、言い返す部分などわずかにも見つからないからに他ならなかった。
「正解なんてなくてね、本当に困った話なんだけれど」
ふふっ、と笑った院長先生は、「道はこっちでよかった?」と言いながらウインカーを出した。
ずいぶん年季の入ったバンは、耳障りなほど喧しくエンジン音を響かせて、自然声も大きくなる。
けれどその分、肩の力が抜けてありがたかった。
「色んな子供たちが集まるでしょう。生まれて何ヶ月から、あなたと変わらないような年の子まで。それぞれ今日までの過去があって、その子がいて、施設にいるのよね」
あの子には楽しくても、この子には嫌なこと。心についた傷が、普通の子よりずいぶん多くて、多種多様で、普通では考えられないような部分だったりする。
触れて治せるものや、無闇に触れて更に悪化させてしまう場合もある。子供によっても全く違う。
「地雷みたいだといつも思うわ。短くて長い人生の間に、いくつも埋められていって、その場所は本人でも全部分かってなくってね。でも知ってる場所は爆発させないように、人が踏み込もうとすると、暴力だったり喋らなくなったりして不器用に守るの」
それでも下手に踏み込んで、爆発させて、それが周囲の地雷も巻き込んで大爆発を起こした時には、そう簡単に取り返しのつくものではない。
「本当にね、全く予想も付かないのよ。飲み物一つ地雷だったり、ティッシュ一枚が地雷だったり」
「ティッシュ…?」
「お母さんがね、とっても怒ったって。ティッシュを遊んで取っていて怒られたのか。育児ノイローゼのお母さんなんかは、些細な事でも我慢出来なくなってしまうから」
だから分からない。
地雷を爆発させずに取り除くのは容易ではない。そのまま成長すれば、地中深くに埋まって、本人をいつまでも苦しめるかもしれない。
ふと、施設で会った風邪の女の子を思い出した。
あの子もそうだったのだろうか。
冬獅郎くんの名前が、何か嫌な過去を思い出させたのだろうか。
もしそうなら、確かにカメラが嫌なんて地雷は、予想も付かない。
「何が本人にとっていいのか、分かったものではないわ。いつの間にか地雷が消えていることもあってね。冬獅郎くんみたいに」
「え…」
「喋らないことで守らなくちゃならなかった地雷は、多分消えつつあるんじゃないかしらね」
院長先生の視線は、フロントガラスを越えて、ずっと遠くへ向けられていた。
「夏休みから今日まで過ごした中に、彼の傷薬があったのね」
あなたが薬を持っていたのじゃない?
かけられた言葉に、どういう感情なのかも分からないまま、鼻の奥がツンとした。
まだ葛畑先生と院長先生の言葉、両方を持て余していたが、おそらく自分の答えを見つけなければならないのだ。
無性に冬獅郎くんに会いたいと思った。
この場に不似合いな、明るい女性ボーカルの着うたが鳴ったのは、四時になろうかという頃だった。
院長先生とバンで街中を走りながら冬獅郎くんを探していて、困惑しながらも懐の深い院長先生に助けられながら、行きそうな場所を考えていた時。
背面ディスプレイに表示されたのは、見覚えのない番号だった。
「もしもし?」
『弟は預かった。返してほしかったらお姉ちゃん、うちに嫁にきぃな?』
「えっ!?」
『だから嫁に、…って、なにすんのこん子は』
『くだらねぇこと言ってねぇでちゃんと話せ!』
『イヤやなぁ、シャレやんシャレ。お洒落と書いて、シャ・レっ』
『シャレになんねぇんだよ!』
「一護くん!?」
『あっもしもしお姉さんっスか? 実は今ごふぁっ』
『あっ、お姉さぁん? とりあえず弟はん保護したあるから、取りにおいでぇな。場所は駅裏のミラクル☆パラスってパチンコ屋の駐車場やからね』
『こんの狐、てっめぇなにしやがる…!!』
『ホンマやっかましいで、このミカン頭は。ちょっとこっち来てみぃな、お兄さんが躾たろ』
『ちょ、何すんだこのっ、ぁ゛あ〜……っ!!?』
プッ、ツーッ、ツーッツーッ…
「……………」
「冬獅郎くん、見つかった?」
「あっ、はい…。駅のパチンコ屋の駐車場で、知り合いが一緒にいるみたいです……」
「そう! よかったわ」
にっこり笑って純粋に喜んでくれた院長先生の隣で、私はひたすらに混乱したまま、ぼけっと携帯電話を見下ろしていた。
ーーーーーーーーアトガキーーーーーーー
やっとシリアス半ばを過ぎたかなという感じ。
誰のせいかしらないけど、なんか後半いっきにシリアス吹き飛んだね誰のせいかしらないけど。
もっと最後、ギャグキャグしい会話がありましたが、踏みとどまって、そっとクリアボタンを高速連打しておきました。
阿部さんネタはさすがにまずいと思った。
100512
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