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怒りだけではなかったのだと、しばらくしてから気がついた。
腕に抱き込んだ彼は、確かに野生動物さながらに周囲を威嚇していたけれど、怒りなんかよりも怯えや恐怖、不安、そんな感情の方がよっぽど強いのだと、腕の中の小さな体から、シンクロするように伝わった。
冬獅郎くんは、道理の分からない獣ではない。
けれど、身の守り方はただ力で拒絶するしか知らない。
怯えているだけなのだと、少し落ち着く時間を与えてやってほしいと、未だ暴れる冬獅郎くんを抱き留めながら思ったが、周りに立つ大人達もまた、恐怖していて。
危険の対象である冬獅郎くんへの、力の行使に容赦はなかった。
そういう、手心を加えない自己防衛は、人も動物も大して変わらないんだ。
なんてあからさまな敵意。
あっけなく引きはがされた冬獅郎くんが拘束され、自らも抵抗しながらどこか冷静に悲しむ心の片隅が、そう泣いた。
私が強ければ。
怯えて暴れる冬獅郎くんに、差し出せる手もなくて、周り全てを拒絶して絶望したような彼の瞳を見て、雫があとからあとから頬を伝った。
ああ…そうだ。
彼は、はじめて会った時も、こんな目をしていた。
『どんな家だ』
壁の向こうから、ずっと低く響いていた話し声の、その一言だけ聞き取れた。
悪態をつく口調は、非難を丸ごと言葉にしたみたいに無味乾燥として、容赦がなかった。
親に親戚、友達。
暖かく接してくれる、確かな絆があるはずの人達を頭に思い描いて、もう何を言っているかは聞き取れないが、確かに冷たい言葉が連ねられている壁向こうの声に耐える。
大丈夫、私には話を聞いてくれる人もいるし、笑いかけてくれる人もいる。
ここでこんな扱いを受けても、こんな風に人を見る目とはとても思えないような目で見る、こんな人達だけの世界じゃない。
大丈夫。
大丈夫。
おしこめられるようにして案内された小さな応接室のような部屋には、レントゲンを写し出す光る板が壁に掛かっていて、側には白板が鎮座していた。
医師達が会議をする部屋か、家族に病状説明をする部屋か。
とにかくも、殺風景で白で統一されたこの部屋は、まるで自白室のように気持ちを圧迫する。
一人取り残されて、知らない大人の冷たい声を壁越しに聞いていれば、心も折れるというものだ。
誰もが親身のかけらもなく、救いようのない悪人を相手にしているような、冷たい態度。
警察の強い尋問に、やってもいない犯罪を自供する、冤罪者の心境を痛感した。
冬獅郎くんは、どうしただろうか。
診察室で引き離されてから、別々にされた彼は、ひどい扱いを受けていないだろうか。
医師に直接刃向かったわけではない私が、この冷遇だ。まだ暴れているかもしれない冬獅郎くんは…………
ああ、いてもたってもいられない。
第一、あの子は私の家族なのだから。
勝手に引きはがされて、ここまでされる覚えはない。
こんなにも冷たく、複数の人にこぞって接されたことのない私は、もう限界だった。
いきりたって立ち上がった私を、しかし出鼻をくじくように部屋の扉が開いた。
入ってきたのは診察室にいた看護師で、ソファを回り込んでいた私を見て、いらだたしげにため息をついた。
それに更に心がくじけそうになるが、どうにかこらえる。
私だけじゃない。私がしっかりしないと、冬獅郎くんはどうなる?
喋れないあの子は、抗議も弁解も出来ない。
「保護者と連絡が取れないんだけど!?」
恐らく相手側を苛立たせてる原因の一つだろう、看護師は泣きたくなるほどキツイ声音をたたき付けたが、でもそんなの八つ当たりだ。
私が悪いかのように言われたところで、あの親とは私だってなかなか連絡が取りづらい。
「嘘の携帯番号言ったって、親には絶対連絡取るんだからな」
「嘘なんかついてません」
「じゃあ何で繋がらないの? 二親とも? 大人なめてる!?」
理不尽だ。矢継ぎ早に責め立てられる、まるでこちらの言葉など通らない。
唇を噛み締めていたら、持っていたバックを無言で取り上げられた。
唖然として、バックに手を伸ばすが、こちらを見もせずに容赦なく手を振り払われた。
有り得ない行動に、もはや訳が分からない。
「なに、するんですか…!」
相手がどうしたいかも分からず、バックを取り返そうとしたが、男女の体格差か大人と未成年の差か、簡単にあしらわれてバックの中身を漁られる。
無造作にバラバラと中身を床に零しながら看護師が引っつかんだのは、私の携帯電話だった。
開かれ、無言のまま操作されるなんてことは、親にだってされたことはない。
いくら冬獅郎くんが暴れたからって、こんな仕打ちがあるだろうか?
看護師の目的は電話帳だったらしい。
本当に嘘をついてると思われていたのか、はたまた当て付けか。
看護師は親の番号を見つけると、そのまま電話をかけた。
………名前で登録しとけばよかった。グループ分けもしないで、どれが親か分からないように。
そんな器の小さいことを考えていたが、やっぱり繋がらなかったらしい電話を下ろして、看護師はひどく憎々しげな顔になった。
当たり前だ、電波の繋がらない場所はもちろん、飛行機に乗ったら最後、電源入れ忘れる常習犯。取材中、原稿の構成中でも絶対出ない。あげくバイブ無しの無音着信。着歴見るまで放置。
電話して出るなんて、流れ星を見る位の確率なのだ。
「今は私があの子の保護者なんです」
淡々とバックと携帯電話を取り返しながら、低く私は告げた。
同じ未成年の自分が保護者もなにもないと思ったが、頭なんてもうまともじゃなかった。
「返して下さい。口のきけない、大事な私の弟なんです」
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