016
『まだちょっと帰れそうにないのー、祐ちゃん』
ごねるような声が、受話器から聞こえていた。
ちょうど夕食に味噌汁の仕上げをしていた時。
宣言通り、ロシアから国際電話をかけてきた母は、顔を見なくても分かるほど落胆していた。
出来ることなら夏休み中に帰って、冬ちゃんと存分に遊びたかったらしいが、それはもう残念としか言いようがない。
そもそもフリーの看板を上げているはずなのに、決して気の向くままに仕事が出来ないというのも困ったものだ。
社会は甘くないということなのだろうか。
『本当は山にも海にも出掛けて、いっぱーい写真撮ってしろちゃんと戯れるつもりだったのにぃ』
「はいはい、残念だったね。また夏はあるし、冬休みもあるから」
『あんたはいいわよ、しろちゃんと遊び放題だもん』
「別に一緒にいたからって、遊び回ってるわけでもないから」
一瞬電話の向こうが静かになって、それから驚愕の叫び声が上がった。
『なんでよ? 補習もないんでしょ? しろちゃんとあんなことやこんなこと、したい放題じゃない!』
どんなことだ、とツッコミたかったが、なんだか悪寒がしたのでやめておいた。
「まだ冬獅郎くんだって、ゆっくりしてこの家に馴染む時間があった方がいいでしょ。だいぶん慣れてくれたみたいだし」
『あら、そうなの?』
「少なくとも意思表示はしてくれるようになった」
『えーっ、祐ちゃんずるい!』
「ずるいってアナタ」
『私だって、しろちゃんとプール行こうと思って、しろちゃんと私の水着新しく買ったのに…』
ちょっと待て母上、しろちゃんのはともかく、なぜ貴方が水着を新調する必要があるのだ。
『ほらぁ、一昨年位に近くに出来た、大きい複合施設あるじゃない。私一日券も買ってたのに』
「うわぁ…マジですか」
『計画丸潰れよ。あのオヤジ、帰ったら酒奢らせてやるわ』
あのオヤジとは、昔から両親の取材テープを買い上げて、面倒を見てくれた大手出版会社の編集部長さんのことだ。
私もよく遊んでもらった、気さくな小父さん。
仕事回して貰ってんだから、そんなこと言ってたらいつか罰が当たるんだ。
『はぁ…仕方ないわね。一日券の期限今月一杯だから、あんた達二人で行ってきなさい』
「え?」
『電話乗ってるチェストの引き出しに入ってるでしょ』
言われるままに引き出しを開けると、綴りになった一日券四枚が出てきた。
それの日付を確認していると、リビングの扉が開いた。
「あ、お帰り。やっぱり濡れちゃったか…」
『え、しろちゃん帰ってきたの!?』
「うん」
料理の途中で焼き魚につける大根おろしの大根がないことに気付き、いい機会だと冬獅郎くんにお使いを頼んでいた。
そんなタイミングで母が電話をかけてきたものだから、最初冬獅郎くんがいないと聞いて随分くやしがっていたのだ。
しかし、不意の夕立にやはり襲われたらしく、冬獅郎くんは軽く濡れて帰ってきた。
電話を冬獅郎くんに変われとうるさい母に、ひとまず受話器を冬獅郎くんに渡し、私はタオルを取りに部屋を出る。
リビングに戻ってきた時、冬獅郎くんは黙したまま受話器を耳にあて、突っ立っていた。
その後ろに立って冬獅郎くんの頭を拭いていると、冬獅郎くんが振り返って私に受話器を差し出した。
「もしもし?」
冬獅郎くんに耳に受話器を当ててもらって、向かい合ったマイ弟の髪を両手で拭きながら呼び掛けると、いつのまにか電話は父に代わっていた。
話し続ける母から電話を奪ったのだろう。いい判断だ。
母と違って大事なことを簡潔に伝えると、二言三言話して電話は切れた。
「今日も一緒に寝ようか」
電話を切ってからニッコリ笑うと、受話器を置いていた冬獅郎くんの大きな瞳がこちらを見上げた。
まぁそこに否定の色は見えなかったからよし。
「プールの話、お母さんに聞いた?」
こくん。
「冬獅郎くん泳げる?」
こくん。
「そっか、じゃあせっかくだから、夏休みの間に遊びに行こうか。券もったいないし」
しーん。
冬獅郎くんの頷きが返ってこなかったが、その沈黙が拒否的なものではなかったので、プール行きを決定して。
長らく着ていない水着の在りかを脳内で探りつつ、買い物の礼を冬獅郎くんに言って、夕飯を早急に済ませて風呂に入れさせることにした。
.。.。.。.。.。.。.。
そういえば、前回の連載を携帯で執筆していた時、「し」だか「す」だかを打とうとして真上の電源ボタンを連打してしまい、データが消えてしま…いました………orz
寝ながら暗い中でケータイいじっててやってしまったことはありますが、明るい所でははじめてでした。
やっぱり小まめに保存すべきですよね………PCの時はするんですけどね。
07.12.27
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