ある寒い日の朝
存在感の有る無しというよりも、その子が現れた瞬間、空気が変わるのを感じた。
自然に流動する空気が、ふっと鎮まったような、心地いいようで胸のすくような奇妙な感覚を、今でも覚えています。
「院長先生、ただいま戻りました」
「あぁ、ご苦労様でした」
小さな子供達を幼稚園などに送り届けてきた増見先生が、職員室とでも言おうか、雑多な光景の広がる事務室に入ってきた。
「増見先生、こちらへ来て暖まりませんか?」
見るからに血色の悪い顔をした彼を、院長はやんわりとストーブの傍に誘った。増見はこけた顔に申し訳なさそうな笑みを浮かべ、ストーブ手前のソファへと腰を下ろした。
「冬将軍がもうそこまで来ているわね」
恐縮しながら院長の入れたコーヒーを口に運んでいた増見は、慌てて小さく顎を引き、それから詰まったような声で「そうですね」と言った。
彼の暖まっても顔色が悪いのと、挙動不振は元々だ。
院長が軽く笑んでコーヒーに再び口をつけた時、玄関で人の呼ぶ声がした。
「院長先生」
訪れたはずの客人の応対をしに出た女性職員が、少し眉を寄せて事務室に入ってきた。
「岸名先生?どうしました」
「入所希望者です」
岸名がそう告げると、院長の眉間にもシワが寄る。
隣で増見も眉をひそめていたが、同時に八の字に垂れ下がっていた。
「さぁて、困った話だわ」
億劫そうにソファから腰を上げた院長は、岸名を伴って玄関へと足を運んだ。
玄関に立っていたのは、30は越した金髪の男と、その一歩後方に立つ、小柄な白髪の少年だった。
「どうもはじめまして、この児童養護施設の施設長です」
おっとりと話しかけた院長に対し、少々肉付きのよい金髪男は、苛々とした様子で口元からタバコを離した。
「おぅ、施設長さん?この坊主そっちで育ててもらいてぇんだけど」
「…少し、中でお話をお伺いできますか?」
柔らかな笑みを、院長は男にというよりは、その後ろで無表情に立ち尽くす少年の為に絶やさなかった。
院長の言葉に、男は片眉をきつく持ち上げた。
「マジスカ。え、それって長くかかるんすか?俺すぐ仕事行かなきゃで、時間あんま取れねんだよ」
左腕のおおぶりの腕時計を見下ろし、いかにもだるそうに男は言う。
「では、取れる分の時間だけで構いませんから、その時間を全てお貸し下さい」
おっとりとした口調と微笑みはそのまま、しかし圧されるような気迫を感じて、男はもちろん、増見や岸名まで姿勢を正される心地だった。
「まずは、申し上げさせていただきますと、お子様を養護施設にお預けになる場合、児童相談所長の判断が必要になります」
「じ、児童相談所……?」
ストーブが火を揺らす前で、男と対面してソファに座った院長は、すでに微笑みをその面から消していた。
白髪の少年は、別室で岸名先生に見てもらっている。
「お伺い致しますが、冬獅郎くんは、どのような形でお預けになるおつもりですか?」
「どのようなって……預ける形にどんな種類があるんすか」
「例えば、保護者の経済的、健康上の理由などで、一時的に養護施設に預けたい、とか……」
「あぁムリムリ、あいつに親も親戚もいねぇから、大人んなるまで面倒見てもらわねぇと」
新たなタバコに火をつけた男は、タバコを指に挟んだ手を顔の前で振った。
院長は怪訝に顔をしかめた。
「失礼ですが、あなたと冬獅郎くんの関係は…?」
「関係もなにも、昔の女のガキだよ。つっても俺のガキじゃねぇけど」
灰が灰皿に落とされ、煙がストーブの熱気に煽られて、天井へと急上昇して行った。
「俺もひょんなことから昨日あいつを預けられて、困ってるんすよ」
「冬獅郎くんのお母様はどうなさいました?」
「さあな。警察は行方不明だとか言ってたらしいが、大方死んでる気がするけどな」
「お母様の血縁者は」
「あの女自身も孤児みたいなもんだった、いまさらあのガキ引き取ろうなんて奴いねぇすよ」
院長はそれから、冬獅郎が自分の元にいる前は、どうやら海外にいたらしいこと、永住権がないので強制送還をされたのではないのかという推測と、母親の名前を男から聞き出した。
男は運送業で、すぐにこの街を出なければならないと言い、半ば強引に施設に冬獅郎を置いたまま、足早に帰って行った。
結局、最後まで男は自分の名前を言うことは拒んだ。
「院長先生?」
ガラス一枚隔てた向こうで、岸名が白髪の少年に本を読んでやっているのを眺めていると、増見がおどおどとした様子で声をかけてきた。
「……多分、預かることになるわ」
「そう、ですか……」
増見に困ったような笑いを見せ、院長は岸名と白髪の少年のいる部屋へと入っていった。
「冬獅郎くん」
院長が声をかけると、絨毯の上に座っていた白髪の少年は、こちらに顔を向けた。
どこか生気を削がれたような顔。
まだこんな幼い少年に、こんな顔をさせるなど、彼が歩んだ過去に憂いを抱く。
ここに住む子供達のたいていも、はじめは似た空気を持っていたものだ。
しかし同時に、不安、怯えなどの感情も見せるのに、それまでも削がれたかのように少年―――冬獅郎にはそれさえない。
「冬獅郎くん、お腹は空いてない?朝ごはんは食べた?」
尋ねれば、間を置いて頷く。
岸名が補足するように、菓子パンを貰ったそうです、と言った。
「そう……じゃあ冬獅郎くんは今何歳?」
間を置いて、……今度は首が横に振られた。
白髪の少年は、彼自身が知るのはかろうじて己の名前のみで、自分の歳や誕生日はおろか、今までいた場所でさえ曖昧な答えしか得られなかった。
最後に、一緒に暮らしていた人は、と尋ねた時、
「………grandpa」
かなりの時間を要して紡がれたその祖父を示す単語に、後々になって実際の血縁者の祖父ではないことが窺い知れた。
その後、児童相談所と警察を回ったのち、この養護施設に入ることになった冬獅郎は、それから一年半をそこで過ごすことになった。
フリージャーナリストの夫妻に引き取られるまで、彼の中の時計は止まってしまったかのように、言葉を発さず、身体の成長までも完全に止めたまま…。
。.。.。.。.。.。.。.。.
申し訳ありません。
4000hit御礼という名の、管理人の自己満足です。
萌え?ヒロイン?なんだっけそれ(最低
すみません。現在を書くと本編になるので、ここはシロの過去シリーズにしようとした所、このような惨事になってしまいました……orz
霜月様、苦情、書き直し要請、管理人への怒り、なんでも受け付けますので、遠慮なく言ってやって下さい……
08.1.20
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