13.
「飲むか?」
病院中庭の低い花壇に腰掛け、女の子らしくもなく足を開いてうなだれていた私に、視界の端からにょきっと缶コーヒーが生えてきた。
思わず受け取れば、隣にちらちら白髪の混じった頭の医者が、腰も重そうに横に腰掛けた。「低いな」という呟きが聞こえる。
知ったことじゃない。花壇に座ってきたのはあんただ。
言葉は返さず、缶コーヒーのプルトップ上げて口に運ぶ。
苦い。
口元から離した缶を掲げて見れば、ブラック無糖の文字だ。この医者、女子高生にブラック無糖って何だ。
「あれとは、前から知り合いか」
まるで話の続きをするように、宙を眺めがら医者が言った。
ティエリアが発作を起こして倒れてから、もうすぐ二時間が経とうとしている。
彼は今は落ち着いて眠っているが、私は早々に病室から追い出されたためにその姿を見ていない。
私の記憶は、声もなく苦しむティエリアの姿どまりだ。
「春休みに入ってからです」
そんな経ってません。
口の中で少しずつブラックコーヒーを消化するように飲み込む。
「ただの友達か」
「………ただの宅急便です」
ふっ、と医者が笑ったが、鼻で笑いやがったので何も和まない。
いらっとしながら、缶コーヒーをぐびりと飲んだ。ちくしょう苦い。
「ホントにただの宅急便か。本を運ぶだけの」
「ティエリアくんに聞いてるなら、わざわざ私に確認しなくたっていいじゃないですか」
「あいつは何も言うものか。市民図書館の本が毎日毎日入れ替わって部屋にあるのは、そういう訳だろ」
同じ缶コーヒーを飲み終えた医者は、今度はタバコに火をつけて呑み始める。
「………医者の不養生」
「そのことわざは耳たこだ。いいんだよ、長生きしたから幸せってことはない」
「医者のお言葉とは思えないですね」
ふんっ、とまた鼻で笑う音が聞こえた。
木々の隙間から見える夕日は、もう眩しさも覚えないほど沈んでいる。
「だからティエリアくんを怒らせたんですか。発作起こすの、分かってて」
「……あいつが何の病気か、知ってるか?」
「………知りません」
医者につられてか、私のテンションの問題か、声のトーンはどこまでも低いまま、言葉のラリーが続く。
夕焼け空は日が完全に沈んで、みるみる青い夜空に変わっていく。
ティエリアの青ざめたのと同じくらい、早く変わっていく。
「足が悪いんだと思ってました。発作を起こすような病気だとは、思いませんでした」
「あいつが病んでるのはな、足でもなんでもない。心の方だよ」
「………なんか臭い、そのセリフ」
「悪かったな、表現力に乏しくて」
「ティエリアくんは―――」
ぎっ、と缶を握り込む。テニスで鍛えた握力も、スチール缶には歯が立たなかった。
一つも変形せずに、中身をチャポチャポ鳴らしている。
「死ぬんですか?」
ふわっと白い煙が目の前を広がる。
横を見れば、赤いタバコのパッケージが目に入る。
マールボロ13mg。こんなキツいの吸ってる人、はじめて見た。
「死ぬさ、いつかは」
「…………」
「悪いな、医者には秘匿義務ってのがあるんだ、お嬢さん」
「そうですね。聞いてごめんなさい」
缶コーヒーの底を空に向けて、中身を全部口の中に流し込んだ。
ご馳走さまでした、という言葉を地面にぶつけて、反動で立ち上がる。結局、何のために横に座ったんだこの医者。
「タバコ、せめて6mg位にした方がいいですよ。相当元気になりますから」
「経験者か?」
「父親の観察結果です!」
「なるほどな」
それでもタバコを口に運ぶ医者は、聞いているのかいないのか。
ティエリアもティエリアなら、この医者だって似たようなものだ。人の勧めなんて、分かってるとばかりに聞きやしない。
立ち去ろうとした私の背に、低調な声が届いた。
「あいつが、足のリハビリでもしだしたら、1mgにしてもいい」
空になったコーヒーの缶に吸い殻をねじ込み、医者が言った。
「手術を受けると言ったら、やめてもいいな」
「そんなしょーもない……」
「それ位下らない話さ。私のタバコも、ティエリアの意地っ張りも、下らない固執だ。大したものを守ろうとしている訳じゃない」
また重そうに腰を上げて、医者は私の手から缶を取り、酷薄に笑った。
「あいつは心理セラピーは嫌いだそうだ。本気で人の心配が出来るなら、あれを説得してごらん。それと、これは一般論だが、心臓を悪くしていて発作を繰り返せば、心臓に負担がかかって長生きは出来ない」
遠くで、『道野辺先生、外科二番までお越しください』のアナウンスが聞こえていた。
面会謝絶は明日一杯までだ、の声が、あまり意味を伴わずに頭の中に入ってくる。
「まぁ、あれを見舞いに来る珍客は、君くらいなものだがね」
その言葉も、私が正確に読みとったのは、しばらく経ったあと、脳内で幾度もリフレインさせてからだった。
何が出来るか分からないまま、ティエリアに会いたいな、とポツリ思った。
100907
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