君と始める初めて




 手を繋ぐ、抱きしめる、キスをする…。
 部活の後は一緒に並んで家に帰って、休日にはデート。もちろんふたりきり。
 少女マンガの中では当然のように繰り広げられるそれ。
 ドラマで見るキスシーンは家族がいるとなんとなく気恥ずかしくて目を逸らしたし、1人で見るときには憧れていたそれに思わず夢中になって見入ってしまった。
 私もこんな恋愛をしてみたい。
 大好きな人で頭の中がいっぱいになるみたいな、そんな恋愛をしたい。

 そんな風に、幸せな恋を夢見る時期もあったものです。

 あれは、こんな感覚なのだろうか。こんなに、他のものなんて見えなくなるくらいに。見える景色が、全部違うものみたいに。
 
 私は、その人に手を引かれて、狭くて入り組んだそこを、歩いた。



 バレー部に入部して、何とかマネージャーの仕事にも対応できるようになった初めの合宿で一応の面識はあったけれど、実際に話したのはその2週間後、2回目の合宿。
 初めてくる学校で右も左も分からずに歩き回っていた私を捕まえたのは彼だった。学校というのはそれぞれ外見が違っていても、方角が分からなくなりやすい、今、自分がどこにいるのかも分からなくなることが多いというのは変わらないらしい。
 烏野という田舎で育った私は、烏野の校舎に比べてその規模にも驚いたし、
 初めは言葉数は決して多くはないし、クールな人で何を考えているのかわからなくて怖かった。けど、優しい人だな、という印象だった。だって、とにかく言葉が、行動が、声が、優しい。元から恐縮しがちな私なのに、そういうのもあまりない。低い声はなんだか落ち着く。合宿の間も何度か助けてもらい、暫くして、ドリンクを作ってる時に丁度居合わせたその時にやっと名前を知った。赤葦京冶。ぴったりだ、なんて思ったのには理由はないけど、優しい人だなぁと思った。
 こういう人がもてるって言うんだろうなぁ、なんて漠然と思っていた。

「谷地さん!」
 合宿も5日が過ぎて、少し疲れが見え始める頃。日向がこそっと柱の影から手招きしているのに、なんとなく自分も忍ばないといけない気がして、きょろ、と周りを見回して、見ている人がいないことを確認した。
「…あれ?」
 日向に忍び足で近づいてみると、そこにいたのは日向だけではなく影に隠れて見えなかったけど、赤葦さんもいた。
「どうかされたんですか?」
 いやー、とかなんとか。赤葦さんが困ったように視線を逸らすと、その先には音駒と梟谷の主将さんがにやにやとどこか胡散臭い笑顔を浮かべている。
 何かいいことでもあったのかな?と首をかしげると、日向が内緒話をするみたいに口元に手を当てたから、思わずつられて耳を寄せた。
「えっと、」
 いつもよりも日向の体温を近くに感じる。
「今晩さ、消灯の前に時間ある?」
 え、と顔を上げると、赤葦さんが無理なら断っていいから、と先手を打って進言した。
 曰く、消灯後に集まって裏の山に探検に行こう、ということらしい。
 日向はともかく、赤葦さんがそれをいうということは、おそらく何かしらの弱みでも握られているのかもしれない。日向はもともとこういうことは好きな性質であるし、爛々と目を輝かせている。赤葦さんは落ち着かな気にしきりに主将たちへと視線を投げており、諸手を上げて、という雰囲気ではない。
「花火もあるんだって!」
「え、花火!?」
 日向の言葉にどこからそんなの、と赤葦を見上げると木兎さんが、と大きなため息と一緒に吐き出された。
「どう?」
 日向がわくわくしているのがその目だけで分かる。でも、と頭を過るのは先輩の清水をはじめ、この合宿でお世話になっているマネージャーの先輩方の顔だ。きっと、夜の外出となれば優しい先輩たちに心配をかけてしまうことだろう。ただでさえ実力の至らない自分のせいで足を引っ張っているのだからそれは避けなければ。
「あ、あの…っ」



 結論として。
 私は今、広い背中の後ろを歩いている。
 部長も頭を抱えるような黒尾さんと木兎さんの押しに勝とうなんて私が悪かったんです。
 この山道を歩いているのは、私と、私の前を歩いてくださっている赤葦さん、月島くん、日向、それから、黒尾さんと木兎さん。黒尾さんは研磨さんも呼びはしたそうだけど、「いかない」と突っぱねられたらしい。私にそれだけはっきり断ることのできる勇気があれば。なんて悔やんでも仕方ない。赤葦さんは半分私が行くなら、という形でついてきてくれたらしい。あの人たちと一緒だと危ないし、ってどういうことだろう。
 ごめんね、と何度も何度も赤葦さんが謝るから、私も申し訳ない気持ちになる。私がちゃんと断れていれば、赤葦さんもこんなに謝らずに楽しめたかもしれないのに。ああ、私はホントに足を引っ張る天才だ。

 夜の山道は危ない。
 元々烏野が山の中にあるから、あんまり気にしていなかったけど、赤葦さんは出発してからずっと私の様子を見ながら進んでくれる。時々、歩きづらい道なんかがあると手を貸してくれながら。
 日向や木兎さんは元々運動能力が高いからずんずん進んで、それを黒尾さんが追う。夏だとはいえ日も沈んでしまったし、視界も悪いけどもう随分と遠くの方を歩いているのは分かる。
 息を整えるのに立ち止まると、もう少しで着くよ、と優しい声が返ってきた。谷地さん、と呼ばれて反射ですいません、と呟くと見て、と。促されるのに逆らわずに顔を上げれば、鬱蒼と茂っているかのように見えていた木々の奥に、明るく照らす光が見えた。
 それだけなのに、暗く足元も見えないどこに何があるかも携帯のライトなしでは見えない不安に満ちた道を歩いてきたこともあって、その光景に妙にほっとした。
 行ける?とかけられた声に頷いて、差し出された手を取る。ここまでの急斜面を登ってきた掌は風呂上りで冷えているかと思ったけど少し暖かく、それに安心する。
「わぁ」
 暗闇の中に、煌々と照らされる学校。近くに寄れば気にも留めないような平凡な光景が、森の中にあることや夜の闇の中に浮かび上がることで目を惹く。光が照らしていたのは今まで私たちがいた学校だった。
 今まで進んできた道は、学校の裏の土手に繋がっていたらしい。学校を真上から眺めるなんて貴重な体験をした。
「谷地さん、こっち」
「はい!」
 ここでは明るすぎる、そう言った黒尾さんを追って学校を見下ろす土手に背を向け、また少し歩くと小さな公園についた。
「ふぉおおおお」
「…おお」
 少し学校から離れた寂れた公園。おそらくもう遊ぶ人間はいないのであろうそこは小さいながらも遊具などがぱらぱらとある。夜目で醜いとはいえほとんどが錆びてしまっていて、もう手入れをする人も遊ぶ人もいないのであろうことがよく分かった。そんな公園なのだから、もちろん街灯なんかもなく、そこを照らすのは数分歩いた先にある学校に設置された光と、月明かりだけ。
 そして。
「……すごい」
 隣で、ぽつりと声が落ちた。
 見上げれば満天の星空。濃紺の海に広がる星明り。
「……綺麗ですね」
 空を見上げて感嘆の声を零す赤葦さんの邪魔にならないように囁く。確かに、思わずぽっかり口を開けて眺めてしまいそうな空だ。
「前の合宿ん時も、コイツと抜け出して見つけたんだ」
「な?着いてきてよかっただろ?」
 黒尾さんと木兎さんが得意げに笑う。
「……俺、こんな星がたくさんある空、初めてみました…」
「梟谷のあたりは明るいからな」
 そうですね、と赤葦さんには珍しく木兎さんへの返事が空に消えた。よほどこの空が気に入ったらしい。
「さ、やるぞ!」
「おー!!」


「……なぁ、木兎くん」
「…………なんだい黒尾くん」
「お前、花火持ってるって言ったな?」
「イイマシタネ」
「…………」
「………………」
「……これ湿気ってんじゃねぇか!」
 いつんだよ!と、黒尾さんの鉄拳が飛ぶ。それを誰も止めようとはしないから、多分それぞれがそれなりに楽しみにしてたんだと思う。
 日向だけがしょぼんと俯いて、花火ぃ、と無惨にも濡れてしまっているそれを弄った。どこかいつもぴょこぴょこと元気のいい髪までも萎んで見える。
「オォウ…」
「……あの人のことだから、濡れたタオルなんかと一緒に鞄に入れてたんでしょうね」
 怒鳴る黒尾さんと、焦りつつも楽しそうな木兎さんと、凹んだ日向と。そんな中、赤葦さんが冷静に状況を語った。
「仕方ないですね」
「ホントにあの人は」
 当初の予定からは外れたけれど、みんなはそれぞれ帰る様子は見せない。
 どきどきする。
 とくとくと、少し冷静になったことで感じるようになった自分の心臓の脈打つのが早い。
 ここは、烏野からほど遠い埼玉の学校で、ここにいるのは烏野でいつも一緒に過ごす仲間たちだけじゃない、他校の人ばかりで、合宿を抜け出した夜も更けつつある森の奥の小さな公園で。空には視界いっばいに広がる満天の星。
「谷地さん、大丈夫?座ろうか」
 胸元を抑える私を気にしてか、赤葦さんが提案してくれたそれも、どこか他人事みたいに聞こえた。
 赤葦さんが触れるか触れないか、微妙な距離を取ってあそこにベンチがあるから、と案内してくれる。
 それに座って、ふう、と大きく息を吐いたら、もう一度大丈夫、と聞かれた。
「大丈夫です。こんなこと初めてで、ちょっとどきどきしちゃって」
 合宿中に抜け出すなんて、と笑うと、赤葦さんも横に座りながら小さく「ああ」と呟いた。
「そうですね。見たことないものとか、初めて経験することとか、なんかどきどきしますね」
 ぎゃあぎゃあと日向や音駒と梟谷の主将さんたちが騒いでいるのを眺める。それから、赤葦さんはもう一度星が広がる夜空を仰いだ。
 私が、合宿所を抜け出すのが初めてだったのと同じように、赤葦さんもこんなふうに夜空を眺めるのは初めてだったのかもしれない。そう思ったら、なんだか赤葦さんを急に身近に感じた。大変恐れ多いことではあるのだけども。
「……星、好きなんですか?」
「……人並みに昔は宇宙に憧れたクチ…です」
「へぇ、宇宙飛行士ですか?はっ!私なんかが軽々しく聞いていいことじゃないですね申し訳アリマセン死んでお詫びを」
「いや、いらないけど。……落ち着いて」
 飛び上がって土下座しようとしたところを手首をつかまれ再びベンチに戻される。
「じゃ、じゃあわたくしめも代わりに昔の夢をば」
「無理する必要ないですよ」
 わたたっと赤葦さんの声も話半分でぐるぐると思考が回った。私ってばなんてことを!何か代わりに、なんて頭を抱えていると、頭上からこらえるような笑い声が降ってきた。
 顔を上げれば、手の甲で口元を押さえる赤葦さんがいる。
「……谷地さんて面白いですね」
「え、あの……」
「ごめんね、笑って」
 謝ってはいるけど、まだ笑いが治まらないご様子。いつもは冷静沈着にゲームを組み立てる赤葦さんになんだかどきどきした。
 初めては、どきどきする。赤葦さんの言葉。
 初めて見た赤葦さんの表情にどきどきした。
「あ、あの!」
 やっと赤葦さんの笑いが治まってきた頃、口を開く。初めては、どきどきする。
「み、宮城で、星がきれいなところ、あるんです。ここよりも、もっといっぱい」
 こんな簡単なことなのに、なんで、こんなにどきどきするんだろう。赤葦さんは、うん、としっかりと頷く。
「よかったら、もし宮城にくることがあれば…」
 案内します、といった語尾はあたりの騒然とした声にかき消された。
「お前らぁー!!そこで何してる!」
「やっべ、烏野の監督」
 それを言ったのは黒尾さん。そして、それは確かに聞き覚えのある声。
「ど、どうしよう!?」
「と、とにかく逃げ」
「どどどどどうしましょう、とにかくここはおとなしくですね」
「谷地さん、こっち」
 テンパって言葉にならないし足が動かなくなっていると赤葦さんに手首をつかまれて、さっきまでより少し強い力で引かれる。
「赤葦さん!?」
「ついてきて」
 それだけ言って、ベンチのすぐ後ろの茂みの隙間へと引っ張りこまれた。



 騒動のあった公園から少し歩いて、ふたりの間に会話はない。枯れた落ち葉が敷き詰められた山道を歩くふたりの足音と、少し遠くから聞こえる怒鳴り声。それから少しうるさい蝉の鳴き声。赤葦さんは無言のまま坂を下っていく。
 私から見えるのは、少し癖があるのかはねた黒髪と、広くて華奢のようで大きな背中。セッターの人はスパイカーの人のようにパワー型じゃない人が多くて赤葦さんだけじゃなく影山くんも音駒の人も華奢にみえがちだけど、やっぱり細かいコントロールや不安定な体勢でトスを上げる分、違う筋肉がつくからそれなりの筋肉がついているらしい。
 そうやって赤葦さんの背中を眺めているうちに、不意につないだままの手の存在に気が付いた。さっきまで何度もつないだはずなのに、それがなんだか無性に恥ずかしくなった。
「あ、あかあしひゃん!」
「あ、ごめん。谷地さん。早いですか?」
 赤葦さんは立ち止まって後ろを振り向いてくれたけど、ごめんなさいそういうことじゃないんです!
「あ、あの…っ」
「?」
 みなまで言わせないでほしい。振り向いた時に放してくれればよかったのに、赤葦さんの右手は相変わらず私の左手を握ったまま。さっきまで同じように手を繋いだりしてたのに、今、この時、それを気にしてることに気づかないでほしい。
「そ、の…」
 手を繋ぐのは初めてじゃない。なのにどきどきする。その事実がなぜか痛いくらいに心臓を揺らした。
「お、オソレオオイコトナノデスガ」
「なんで片言」
 お願いだからあんまり私の様子を口にしないでください。耳まで熱くなってるのだから赤くなっていることなんてもうとっくに気が付いてます。
「……その、手…」
「……手…?」
 私の言葉に目をしばたいて、ゆっくりと自分の右手に視線を落とす。
「あ、ごめん」
 ゆっくりとつないだ手が離れていって、ほう、と安堵する。心臓が壊れるかと思った。手を放した赤葦さんはぐっぱーと何かしら考えているみたいに掌を見つめる。
 やっと解放された掌を、胸元へと引き寄せる、その途中で、もう一度同じ手につかまった。
「あ、赤葦さん…?」
「……ごめん、足場悪いからもう少し我慢して」
 え、と抗議する前に赤葦さんは私の手を引いて歩き始める。その様子に呆然としたまま、振り返らない後ろ姿を追った。


 また、しばらく歩いた。
 入り組んだ道ともいえないような道を歩いていると、遠くに明かりが見える。合宿で借りている森然高校だ。急斜面を駆け下りるようにくだってきた足元がやっと少し道になって、まっすぐ行ったところに見慣れない小さな門が建っている。そこが、おそらく森然高校の裏門、になるのだろう。
 足元を照らす淡い光にほっとしていると、突然止まった背中にぶつかりそうになって思わず変な声が出た。
「……谷地さん」
 左手がつながったまま、赤葦さんがこちらを振り向く。
 仄かに照らす光の下で見る赤葦さんの表情は、記憶の中のそれよりもずっと柔らかい。
「宮城に行ったときには、星がきれいなところ、よかったら案内してください」
「へ?」
「約束ですよ」
 赤葦さんが言っていることを理解していると、ゆっくりその右手が離れていく。
 赤葦さん、と呼ぼうとしたところでこの場にいない筈の人の声が赤葦さんを呼んだ。
「あっれ、赤葦?」
 いつもの練習で聞きなれた柔らかい雰囲気のあるその声といっしょに、門の中からひょこりと出てきたのはやっぱり優しい表情の菅原さんで、「鵜養さんは」という言葉に合宿を抜け出したことがばれていることを悟る。
「たぶん、まだ上じゃないかと。もし、ばれたときには谷地さんは気づかれないようにしよう、ってことになってたんで」
 菅原さんからは赤葦さんの影に隠れて見えなかったらしく、赤葦さんが少し体をずらして示すと、なるほど、と菅原さんは頷いた。
「彼女はほとんど木兎さんのわがままに付き合わされたようなものなので」
 まるで何事もなかったかのように、話を進める赤葦さんに、私は自分はどうしたらいいのかわからなくなった。これは口をはさんでもいいのだろうか。ついていくことを決めたのは私だし…。
「……なるほど。やっちゃん、清水のとこいっといで。心配してたから」
「えあっ!?し、清水しぇんぱいが!?」
「うん。こっちは大丈夫だから」
「え、えと……っ」
 どうしよう。
 菅原さんと赤葦さんの間で何か言うべきかどうか迷ってふたりの顔を見比べて足踏みする。清水先輩が待っているし、早く去りたいところだけど、それもあんまりだ。
「……谷地さん、また明日ね。…おやすみ」
「あ、赤葦さん…!失礼します…!!おやすみなさい!」
 去り際をつかめずにいて困っていたところに助け舟が出された。赤葦さんには勢いよく頭を振り下ろして、それから菅原さんにも。「お先に失礼シマス!」と叫んで清水先輩と、他校のマネージャーたちも集まっているだろうマネージャーの部屋として借りている教室へと走った。


 翌日。
 昨夜、学校を抜け出したメンバーには、時間が惜しいということもあってフライング一周という案外軽い罰となった。だけど、音駒の主将をはじめ、梟谷の主将、副主将とそうそうたるメンバーが練習試合で負けたわけでもないのにフライングをしている光景はかなり異質で、その罰の理由を、各校の選手が知るまでに時間はかからず、どちらかというと「羞恥」が罰となったらしい。
 私がそれを知ったのは当然その日の練習で皆さんがフライングをしているのを見た時で、私も、と参加しようとしたところを菅原さんに止められた。
「それじゃあ、やっちゃんがいたこと隠そうとした意味ないべ」
 そんな、というとじゃあさ、と菅原さんが笑う。仕方ないな、と。
「やっちゃんはいつもより頑張ってマネージャーの仕事やったらいんじゃない?自分への罰のつもりで」
 菅原さんはもちろん体調管理しっかりな、と気遣いを忘れない。「ハイ!」と敬礼を返すと、頑張れ、と頭をなでられた。


 マネージャーの仕事は楽ではない。前の仕事が終わったら、さっきまでやっていた試合が終わり、また仕事ができる。その繰り返し。
 あれやって、これやって、とまだマネージャーの仕事に慣れていない私は部活の間はだいたい次の仕事のことで頭がいっぱいになっている。
 だから、完全に油断してた。
「谷地さん」
 赤葦さんに声をかけられたのは、前の試合が終わって空になったドリンクを再び作るために水道にいた時だった。水を入れるだけでスポーツ飲料になる粉に、だいぶびっくりし慣れて、冷静に手順も分量も間違えないでドリンクを作れるようになった。でも、完璧というわけではない。
「赤葦さん!昨夜はありがとうございました!!」
 水道を止めようとしたら作りながらでいいよ、と言われて、一応時間に追われる身なのでそれに甘える。
「谷地さん、あのですね」
 はい、と相槌を打つ。そのあとに少し迷うような間があいた。一瞬聞こえていないのかと顔を上げる。一瞬のつもりで。
「赤葦さん?」
「……よかったら、LINE、教えてくれませんか。一応メールアドレスも」
 その瞬間、空耳かと思った。でも、一瞬のつもりで上げた視界に、少し気まずそうに視線を逸らす赤葦さんが入って。空耳なんかじゃない。
 ドリンクのボトルから出しっぱなしにしていた水があふれて手を濡らす。その時になって初めてドリンクを作っている途中だったのを思い出した。
「あ、うひゃああ」
「水!水止めて!!」
「はひぃ」
 ふたりして焦って水道のコルクに縋り付いて水を止める。ボトルを持っていた手はもうひじのあたりまで濡れて、シャツにも割と大きめの水にぬれたシミができた。
 お互いに顔を見合わせて、思い出したように顔が熱くなった。気まずくなって視線を逸らす。先に口を開いたのは赤葦さんだった。
「星を、見に連れて行ってくれるなら、連絡先、聞いても」
 半分言い訳みたいで、でも、それは昨日私が提案したもので。…なんだか。
「は、はひぃ!わ、わたしなんかのものでよいのでしたらああ」
「うん、落ち着いて」
 なんだか昨日もこんなやり取りした気がする。そんなことを思いながら、熱くなった頬を覚まそうと両手で覆った。
「……じゃあ、練習のあとに」
 仕事の邪魔しちゃってごめん、と一言言い置いて、赤葦さんは体育館へと戻っていく。きっと試合と試合の合間の時間だったのだろう。それだけなのに、「連絡先教えて」とそんなことを伝えに、来てくれたことがこんなにもうれしい。
「……夢じゃないよね」

 プライベートな理由で連絡先を男の子に聞かれたことはない。
 全部、全部が初めてのことでどきどきする。これが恋なのかもわからない。恋をするのも、初めて。



あとがき

はい、長いですね。失礼しましたー!






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