還ることのない
パシャ、と水音が水面を揺らした。
温かいお湯が、雨で冷えた身体を芯から温めてゆらり、と伊月はお湯の浮力に身体を任せる。
「おい、寝るなよ」
伊月、と心地よい声が耳朶を打つ。
大丈夫ですよ、と伊月は後ろから腰の立たなくなった身体を捕まえるその人へと静かに囁いた。
「気持ちいいですね…」
部屋に備えられた小さな露店の大きな窓から見えるのは生憎の雨に濡れて白い飛沫を散らしてうねる海で、冷たい雨に混じって海の匂いが色濃く香る。
大学でもバスケを続けている笠松の、休みの合間を縫って1泊だけという強硬日程で組んだ旅行は、久しぶりだからと海を恋しがった笠松と、都会の真ん中で育ち、気軽に海に行った経験のない伊月、ふたりの意見で海の近くの旅館を行先にしたが、夕方から雨に降られて結局いつもと同じように部屋で二人、のんびり濃密な時間を過ごすことになった。
「…海の匂い…」
海の独特の香りに思考が揺れる。それを、懐かしいという人がいるが、それはいったいどんな感覚だろう。今日一日、潮風に当たっただけだというのになんだか、酔っぱらったみたいに思考がまとまらない。
「これってなんの匂いなんですかね…」
どうして、こんなに切ないのだろうかと。
あとがき
だいぶなSSになりました。
傍目からみたら旅行、なんだけど、ちょっと海の臭いにひっかけてみたやつです。
これから暫くSSの更新が増えるかも。
因みに、海の臭いは既にご存知の人もいらっしゃるかと思われますが、死骸の臭いらしいです。
気になる方は調べてみては。