どうしてこうなった。


ぼんやりとそんなことを考えながら机から教科書を取り出そうとすれば、指先がべちゃりと濡れた。想定外の感触に一瞬目を見開くも、またかとため息をついた。眉根を寄せつつ濡れたそれを取り出せば、びしょびしょになった教科書から滴る水が床に落ちた。ぽたぽたぽた。水滴のリズムに合わせるように、クスクスと笑い声が聞こえる。楽しげなその声のする方へちらと目を向ければ、思った通り、隣のクラスの女子グループが敵意の篭った視線を此方へ向けていた。
此方としてはそんな敵意は丁重にお断り、というよりも熨斗を付けてお返ししたい次第なのだが、彼女達としてはそういうわけにはいかないらしい。私を目の敵にする彼女とその取り巻きから目を移すと、クラスメイトの憐憫に満ちた視線に胸がつきりと傷んだ。とは言っても、大して仲の良く無いクラスメイトの為に首を突っ込むような奇特な人物がいるわけでもなしに、誰かが味方してくれるのではないかなどといった淡い期待は持たないようにした。

次の授業は移動教室だからか、教室から人がいなくなっていく。しかし、教科書やノートがこんな状況のまま授業を受けるわけにもいかないだろう。仕方がないがこのまま教室で時間を潰そう、あ、どうせなら寝よう。そう決めて机に突っ伏せば、私が泣いているとでも思ったのだろうか、けらけらと響く甲高い笑い声が酷く耳障りだ。あーあ泣いちゃったー、かわいそー、そんな言葉が耳に入り、本当に泣いてしまいそうになったが、唇を噛んで我慢した。






「どうしたの?」


誰もいないと思っていた教室でいきなり声がしたものだから、驚いて顔を上げたその瞬間、狸寝入りをするという選択肢を選ばなかったことを後悔した。静まり返り、かちかちと時を刻む音が響く教室の、私の机の前にはクラスメイト――折原臨也が立っていた。驚きの色を見せる私を見下ろす彼の瞳がすう、と細められる。

「今の時間、移動教室だよね。それなのに君はどうして教室にいるのかな。」

「…そっちこそ。」

「ああ、俺はサボろうと思っていたから。しかし、真面目な君が授業をサボるなんてことは考えにくい。それなら授業に出れない何かしらの理由がある。違う?」

随分と回りくどい言い方をする男だ。私が黙ってびしょ濡れの教科書を見せれば、折原は驚いたような表情を造る。それはもう、わざとらしいくらいに綺麗に造った。


「酷いねぇ、誰がこんなことを…。」

「知ってるくせに、白々しいよ。」

「はは、そうだね。キミは今、苛められている。隣のクラスの女に。その原因は……






俺、だね。」


にんまりと笑顔を浮かべる彼に、腸が煮えくり返る心地がした。


私が陰湿な嫌がらせを受けるようになった原因はすべて、目の前の男にあった。
思春期真っ盛りな高校生だ、眉目秀麗な彼に思いを寄せる人は少なくないだろう。それは私を嫌う彼女だって例外ではなかったし、彼女が折原の事を好いているという噂は学年中が周知していた。そこに置いて、もう一つの噂が流れた。それは、折原臨也が私を好いている、という噂だった。

無論、人に好かれる事が嫌いなわけではない。だがそんな噂に尾鰭が付き、何故か私が折原にアプローチをしたことになっていた。私の名誉の為に言わせてもらうが、私は彼とロクに話したことだってない。故にそんな噂が流れた事自体が有り得ない事だし、否定をした。だが、折原を好きな彼女はそれが気に食わなかったらしい。そんな経緯があり、私は気付けば折原の事を好きな女子の大半を敵に回すこととなってしまった。

しかしながら。事の次第を彼は知っている筈なのだが、特にフォローをするわけでもなく、ただ事態を傍観している。寧ろ楽しんですらいるように見える姿からは、彼がそう仕向けたのではないかとさえ考えさせられる底意地の悪さが滲み出ていた。



「人の噂も七十五日とはよく言ったものだよ。」


くすくすと笑う彼に怪訝な表情を向ければ、その口元はますます弧を描く。



「ああでも、百聞は一見に如かず、とも言うんだけどねえ。」

「……何を、考えてるの?」

「さあ?当ててみなよ。」


ますます深まる彼の笑みに比例して、私の眉間の皺も深くなる。


「ねえ、なまえさん。」

「何?」

「俺はね、人間が好きだ。単純で複雑で予想がつかない、小さく汚い愚かな人間が好きだ。いや、これは愛なんだ、うん。ああでも、俺は人間そのものが好きなのであって特定の個体を好きな訳じゃないから、ココ重要。」


一息で言い切ったかと思うと、折原の手が私の顔に近づいてきたものだから、思わず身を引く。けれど気にした風も無く私の頬を撫でた指先は、つい、と顎に添えられた。人差し指と親指で折原へと顔を向けさせられたかと思えば、目と鼻の先に整った顔が迫っていた。


「でもね、」

抵抗しようと思えば、彼の手を振り払う事は容易であった。けれど、彼の真紅の瞳を前にすると、何故だかそんな気が起きなかった。



「初めてなんだ。俺が個体としての人間に興味を持ったのは。」

「え、」

「いや、これは執着と言った方が正しいかもしれない。個体の周りに群がる俺以外のものを排除したくなるんだ、独占欲ってやつは特定の個体に向けられた愛に付随するものだろう?だからね、排除したんだ。」

鼻先が触れてしまいそうな距離で囁かれる言葉の意味が分からず、目を白黒させていれば、彼が声を上げて笑い始めた。



彼の言う特定の個体が私だとしたら。

彼が私を独占したかったとしたら。

それは、つまり。



私がいま予想してしまった事実は、できれば外れであってほしい。だが、この予想が当たっているとすれば、すべて辻褄が合うのだ。


ごくりと唾を飲み込む。気付いてしまった私を見て、にんまりとする彼に、確信した。間違いない。私が虐められるように仕組んだのは――





「俺だよ。」

「――っ、」

「噂を流したのは、俺。」

「なん、で、」

「みんなバカだよねぇ、何処の誰が言ったかも分からない情報簡単に信じちゃってさ。また彼らにとっては真偽なんて大した問題じゃないんだよ、大切なのは、話の種になるかどうかだけ。君が虐められているのも、暇潰しに過ぎないんだ。」


さらさらと流れるように紡がれる言葉は残酷に、私の胸を締め付ける。同時に、こんな男のお陰で自分は酷い目にあっていたのかと思うと、言い知れぬ悔しさが込み上げてきた。



「あははっ、泣いちゃった。」


ほろり、気付けば頬を涙が伝っていた。怒りからか、悲しみから、悔しさからか、様々な感情が綯いませになった液体を彼の指先が拭う。




「ひ、う…」

「安心してよ。」

「っ、」

「これで君には、俺しか居ないんだからさ。」


酷く嬉しそうに、甘い毒を吐き出す男の笑顔を掻き消してやりたくなった。



ふたりぼっち


120222

キミもぼっちの仲間入り!



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