お前が好きなのは俺自身だろう? 久しぶりに晴れた日。何と言うか、自分でも恥ずかしい位に浮かれながらレッスン室に向かった。 レッスン開始から小一時間後、歌声が聞こえてきた時には、不覚にも、ポン!と音が勢い良く飛び出してしまい、ついでに「あっ!」と声まで出してしまった。どれだけ自分が今か今かと待っていたのかバレてしまった気がする。 歌声は忍び笑いをするように、何とも愉快そうに歌う。対して私のピアノは……ああ、バレた。恥ずかしいな……。と音を紡ぐしかなかった。 あれから随分時間が過ぎ、いつもだったらとっくの昔に歌声さんはいなくなっているのに、今日はまだ歌ってくれていた。まるで、雨の日を埋めるように。繰り返し、繰り返し。 その行動に、背中を押された。 「あの、」 「!」 弾き終わった直後、そろりと話しかけた。 「まずはクッキー有難うございます」 コン、と一回窓が叩かれた。どういたしまして、という所だろうか。 「実は、来週の日曜日が発表会なんです。それで、前日の土曜日も練習に来るので、付き合ってくれますか?」 コン。 良いぞ。と言ってくれた、と思う。 「有難う!」 コン、とまた音。コン、と窓を叩く音が、これ程優しい音を出すということを私はこの時初めて知った。 天気は見事に空気を読んでくれた。歌声は、ピアノにのって朗々といつも以上に伸びやかに、穏やかに歌詞を紡いでいく。私がここまで弾けるようになったのは、彼のお陰以外の何ものでもないだろう。最後、ピアニッシモの音と声が、静かに葉擦れに消えていった。 明日は、きっと大丈夫。そう思って、ひとり笑う。 明日に迫った発表会。でも、自宅で練習を重ねてきたもう一曲は、今日が本番だった。 課題曲と比べると、とても簡単な曲。それなのに、ともすれば、明日より緊張しているかもしれなかった。ぎゅっと一回手を握ってから鍵盤にのせる。すうっと息を吸い込んで、肺を6月の空気で満たした。 「Happy birthday to you」 歌う。彼と比べるとうんと下手だけれど、一生懸命。いろんな気持ちを、ぱんぱんに、目いっぱい詰め込んで。 「Happy birthday to you Happy birthday dear」 小さく開いていた窓が、外側からガタン!と大きく開かれた。そこには、吃驚したような―― 「柳君」 その表情を見ながら、笑顔で最後まで歌う。 「Happy birthday to you ――お誕生日おめでとう、柳君」 最後の一音も消えて、静寂が訪れた。長い長い一拍の後。 「なぜ、」 「分かったか、って?これでも、耳は良い方なんだよ。それに、柳君って生徒会役員でしょう?たまに、全校放送するから。……その度に、良い声だなぁ、この声好きだなぁって。後、決定打だったのが、飴を渡した時に」 「――リストバンドか」 「そう」 自分の手首を見て、ふ、と彼は微笑した。 「そうか」 もう一度何か吹っ切れたように笑うと、突然ひょいと桟に乗った。今度はこちらが吃驚する番だ。小さな窓を窮屈そうにくぐり抜けて、部屋に侵入する。靴は、はいていない。外で脱いできたのか。 呆気に取られる程にあっさりと、およそ2ヶ月もの間、ずっと部屋の外と中で顔すら合わせなかった2人の物理的距離が縮まってしまった。 ポカン、と見上げると意地悪そうに笑って横に立った。 「もう一度」 間近で耳にするその声に思考が奪われ、とっさに「はぁ、」と間の抜けた声しか出なかった。 「もう一度、歌って。隣で聞かせてくれ」 柳君は、鞄が置いてある椅子を連弾する位近くまで引き寄せ、浅く座った。そして、じいっ、と見つめてくる。余りの近さに、体を若干のけぞらせた上で、「あ、え、う、うん」と凄まじくどもりながら、何とか返事をする。 えっと、柳君がさっき何かを吹っ切ったように感じたけれど、彼は一体何を吹っ切ったんだ?と現実から逃避するようなことを一瞬考えた。しかし、じいっと何やら楽しそうに、嬉しそうに見つめてくるその視線からは逃れられない。 と、とにかく、歌わねば!と変に焦りながら鍵盤に指を乗せ、息を吸い込み、まさに歌い出そうとしたその時。 「歌い終わったら、聞いて欲しい言葉があるんだ。宙」 ふぅ、と耳に直接流し込まれた音――声に、鍵盤の上で指が盛大に踊った。唖然とする私に、彼は笑う。 「宙、歌って」 名前で呼ばれた時点で、彼が何を言うのか、殆ど分かってしまった。名前で呼んだ時点で、それに私が何と答えるのか、彼は完全に分かっていた。 結局、歌い終わるや否や、腰を引き寄せられて、再び耳に直接流し込まれた予想外の台詞に、私は赤面を返すしか出来なかった。 ****** 柳、誕生日おめでとう! 去年より少しは誕生日らしいものになったかな……と思います。 お題詐欺をやらかしてすみません。お題を埋めるってなんでこんなに難しいのだろう(苦笑)。 さて、去年もやったので、残念な上に短いおまけをば。 ** ピアノの音がホールを満たしている。一番緊張したのは前の人が弾いている時で、いざ自分の名前と曲名が放送されると、ここで完全に肝は据わった。 今日は、歌声がない。でも、あの声がどこからか聞こえてくる気がした。大丈夫。楽しんで弾くよ。 最後の一音が静かに吸い込まれていく。 ――終った。緊張したけれど、楽しんで弾けた。そして、今までで一番上手く弾けた気がする。指を膝の上に戻し、にっこりした。 拍手の中、ステージ上の目印まで歩いて行きゆっくりとお辞儀をする。すると、目の前に小さくてかわいらしい花束が。きょとん、と視線を更に上げると花束を持った柳君で、思わずステージ上で飛び上がりかけた。 何でここに!? 「お前の友人から場所を聞いたんだ。……正装もまた可愛いな、宙」 イタズラが成功したような表情。そして、その口から飛び出した台詞に、なっ、と完全に飛び上がった。奪うように花束を貰い、そそくさと袖にひっこむ。袖ではピアノの先生がにやにやしていて、これまた飛び上がった。うわあああ! 居た堪れなくて、先生の褒め言葉にちょっと笑いかけると後は直ぐに逃げるように廊下に出て、息をついた。そして、改めて手の中の花束を見る。恥ずかしいけれど、どうしたって浮かんでくる笑顔は止められなかった。と、「パシャッ」と廊下に響いた軽い音。 何という素早さだろうか! 既に廊下にいた柳君の手の中の携帯と、その表情を見た途端、何をしたか悟った私は、彼から携帯を奪うべく飛び掛ったが、 「飛んで火に入るなんとやら、だな」 と見事捕獲されたのだった。 お粗末さまでした! |