耳元で言ってやろうか?

 私のピアノの鍵盤は、大層重い。いや、正確には我が家のピアノの鍵盤は、と言うべきなのかもしれない。母が若かりし頃に祖父――母にとっては父親――に買って貰ったもので、今では年に一回あるかないか程度にしかピアノを弾かない母の代わりに、私がそのピアノの主になっている。
 話を戻そう。我が家のピアノの鍵盤は重い。何故かと問われれば、それは指のレッスンの為だ。しかし、発表会会場のグランドピアノの鍵盤は、経験上、恐らくとても軽いだろう。以前、その軽さに戸惑って、ただでさえ緊張していた私は物の見事に間違えた経験があった。だから今回は、その軽さに慣れる為に自宅以外の学校のピアノでも練習することを決めた。



「ケホッ」

 ここではじめて「歌声さん」の歌声以外の声を聞いたのがこの時だった。
 昨日、いつも通り学校のピアノで練習していると、いつものようにそっと歌声が聞こえてきた。その声を聞いた瞬間、「あれっ?」と違和感を覚えた。けれど、淀みなく紡がれる声。そのまま、二度最初から最後まで歌うと、静かにいなくなった。

 そして今日。歌声に導かれるように、最近では随分と聞けるようになったと思う曲の中盤。
 ケホッ、と小さく咳をしたと思ったら、続けざまに二度、三度。思わず指を止める。
 やっぱり、と思う。昨日聞いた時、声が少しかすれているように聞こえた。そして今日も。風邪だろうか、と心配になる。また、かすれても、なお低くて美しい歌声だったことに内心舌を巻いていた。そして、そんな体調でも休む事なく付き合ってくれる事が嬉しく、それ以上に無理をして欲しくなかった。

 「歌声さん」の歌声以外の声をここで聞いた今日、私も「はじめて」を実行してみようと決心する。
 鞄からぱんぱんに膨らんだ小さな巾着を取り出し、そっと窓辺に近寄る。そして、姿を確認することなく、ただ巾着を窓辺から下ろした。窓の外で、一瞬空気が揺れた。

「……いつも本当に有難う御座います。でも、無理はしないで下さい。全部治って、それでまた歌ってくれるのなら、練習に付き合ってくれるのなら、待ってます。これ、のど飴なんですが、その、良かったらどうぞ」

 果たして受け取ってくれるのか、どきどきしながら手の先の巾着を見つめる。
 少しの間があって、スッと窓の左側から右手だけが現れた。指が細くて、でもとても大きな手。ピアノをやる人間には羨ましくなるような手だった。
 そのまま、飴ではちきれんばかりの巾着をそっと受け取ってくれた。

「ありがとう」

 吐息だけで囁かれたみたいにかすかな声。そして何より、恐らくぱんぱんになっている巾着に苦笑を落としたのだろう、かすれてもなお優し気な声。こんな間近で聞いたのは初めてで、どきどきしてしまった。



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