見晴るかす

『鵺の正体』の夢主が書いている時代小説、という設定です。よって名前変換はありません。
名古屋城下町の地名、江戸時代の用語や言葉が頻出しております。ですが、史実と虚構が入り乱れていますので、ご注意下さい。



 延宝六(1678)年如月、尾張名古屋。二人連れの若侍が天守を右手に見つつ、諸町から京町、そして両替町と城下を西進していた。一人は名古屋で見ない顔であったために、行きかう商人や藩士達が一瞬怪訝な表情をするものの、共に歩く人物を見ると皆得心した様子で会釈をする。そして、通り過ぎたその背を微かに羨望が籠もる眼差しで見送っていた。
 見慣れぬ青年は、精悍で均整のとれた身体と、どこか飼い慣らされぬ獣を思わせる顔付きをしている。それでいて粗暴な印象を微塵も感じさせないのは、その屈せぬ誇りが、不思議と品としか言いようのない雰囲気を醸しているからだった。ただ歩いている姿を目にするだけでも、凜とした空気が辺りを包む。
 一見して大身の武家の若様と分かる青年は、友を連れ立ったそぞろ歩きという態だ。

「うむ。やはり噂に違わぬ、否、それ以上に素晴らしいお方だな」
「ああ、そうだな」

 一方、柔和な笑顔で答えた友たる青年。この界隈で知らぬ者はいない。
 侍というより、役者。そんな美丈夫が浮かべる笑顔は穏やかな中にも艶が含まれ、女達が思わず色めき立つものだ。しかし、両替町そして本町と続く、清洲越し以来の大店(おおだな)が軒を連ねるこの往来で箒を持つ小僧達には苦笑しかもたらさない。「今尾の若様の微笑みは、見料はいらぬが読みはいる」と囁かれているその笑顔。遠くない未来、政を司る者として、藩や幕府に巣くう大狸や古狸を相手に渡り歩く者の笑みだった。相手を煙に巻く。
 ただ今回は、友を前にした年相応のどこか困ったような笑みで、読みも何もない。またその話か、と聞こえぬようにぼやいた。ここ最近その話題ばかりで、少々辟易していたのだ。

「おや、竹腰(たけのこし)出雲守様。相変わらずの男振りでいらっしゃる。道場の帰りでございますか?……そちらの方も大層な二枚目ですが、中山様とお見受け致しました」

 二人が両替町を北に曲がり、名古屋城下大手筋となる本町に入ろうとしたその時、背後からふいに声がかかった。振り返ると、商家のご隠居然とした老人が面白いものを見付けたとでもいうように目を輝かせている。小柄な体躯に、丸みを帯びた顔。笑う目尻にはシワが幾筋も刻まれ、人懐っこさが前面に押し出されている。そこに白髪の髷がちょこんと乗っている様は、まさに縁側で猫を膝に日向ぼっこをしている姿がお似合いだ――、彼の正体を知らぬものはそう考えるだろう。

「これは中島殿。確かに道場の帰りだ。友が連也斎様にいたく心酔してしまってな。当の連也斎様も友を気に入ってしまい、最近その話題ばかりで少々辟易しておったのだ」
「な、竹腰。おぬし」
「……と、戯言はここまでだ。流石、と申しましょうか。中島殿は耳がお早い」
「中島――、あの尾州茶屋か!では、そなたが二代目の中島新四郎殿」

 だが老人の正体を知っている、竹腰様と呼ばれた美丈夫――竹腰出雲守正睦(まさちか)は、苦笑の中に薄っすらと皮肉を忍ばせて答えた。そして、中山様と呼ばれた偉丈夫――中山信弦(のぶつる)がその答えを拾って、思わず老人の背後にそびえる商家に視線をやった。南北七十三間(約123m)、本町通二十一間三尺五寸(約38m)の威容。
 尾州茶屋。京都の豪商であり神君家康公の側近御用達として絶大な力を振るった、初代茶屋四郎次郎。その三男である新四郎長吉は「尾州茶屋」と称して、尾張藩初代藩主徳川義直につかえる。表向きには呉服御用達という立場だが、実態は主に上方に関する尾張藩の情報・外交活動を担う、単なる御用商人としての枠を大きく逸脱した一種の公的機関であった。中島はその本姓であり、尾州茶屋の当主は代々新四郎を名乗っている。
 現在の当主は、二代目となる茶屋新四郎。若い頃は新六郎と呼ばれ、朱印船貿易に情熱を燃やし、実際に交趾(コーチ。ベトナム北部)に渡って貿易も行っている。
 その当人が、にこにこと笑いながら声をかけて来たのである。

「お初にお目にかかります。当代茶屋新四郎、中島良延と申します。実は、かねがね中山様のご高名を耳にしておりまして、こうして御意を得る機会を伺っていたのでございます」
「抜け目無い、と言うべきか尾州茶屋。中山さんの事をすでに存じておるか」

 正睦の皮肉をこめた言葉を受けて、人懐っこい表情が一瞬で商人のそれへと変わる。

「江戸表にて竹腰様と親交を深められたこと、また新田宮流居合の達人でいらっしゃる事。何より――水戸藩御附家老、中山備前守様のご子息でございますから」

 中山備前。その名を出された事で、信弦の空気が僅かに硬質になる。
 当時、慶安の変も最早二十有余年前の出来事となり、過去となりつつある。無論、信弦と正睦は生まれてもいない。戦国の世は、まさに太平の世になろうとしていた。そのような中で、信弦はその苛烈さから、産まれて来る時代を誤った、そう囁かれる事が多い。性、烈にしてまた勇なり、と評される己を過不足なく自覚している。
 その上、幸か不幸か生まれた家は水戸藩御附家老の中山家二万五〇〇〇石。水戸藩の藩士でありながら、性格上幕臣に近い家でもある。しかも、次男。将来、跡目を継ぐ可能性が充分残っている。どこか腫れ物を触るかの如く敬遠されていた信弦に、それでもあっさりと馴染んだのが正睦だった。出会った当初は、なんだこの軟弱者は――と侮蔑に近い感情を抱いていた信弦も、今では人生で最高の友を得たと考えている。
 それは、正睦が同じく尾張藩御附家老の竹腰家三万石の三男として生まれ、今では跡目を継ぐ立場にありながらも、どこか異端であるからかもしれない。似たもの同士なのだ。

「私は尾州茶屋の当主でございます。尾張はもとより上方も江戸表も――特に御公儀と御三家、そして朝廷には常に明るくなくてはなりません。中山様にはご不快かも存じませんが、中山家、ひいては水戸様にまたと無い繋がりを持てるこの機会を、逃すわけにはまいりませんので」
「……確かにそうだな。そなたは尾張藩の商人。それがしは中山家。繋がっておいて、互いに損にはなるまい」

 苦笑を返す信弦に、正睦は苦々しい表情で茶屋を見た。否が上にも、政に巻き込まれる。それが互いの運命だ。

「すまぬが、これから正睦が「良い所」とやらに連れて行ってくれるそうでな。その帰りに、必ず茶屋に顔を出そう。それでいかぬか?」
「勿論、それで結構でございます。お待ち申し上げておりますよ」
「相分かった。それでは、後ほど」

 さあ、行くか。と信弦が笑った。この邂逅が、後々に京都・大坂にまで波及する大騒動に、正睦のみならず信弦を巻き込んで発展して行く事を、さしもの大商人尾州茶屋はもとより、二人は知る由も無かった。



 正睦は、友と二人で眼下に広がる景色を眺めていた。
 暦の上では春とはいえ、吐いた息はいったん白く色を変えてから消えていく。だが、吹き込む風は冷たさと同時に、確かに春の気配も運んできていた。天守閣から遥かに見える御岳山や伊吹山が装いを変えはじめ、眠る山が少しずつ笑みを見せ始める、そんな目覚めの時を迎えつつあった。

「美しいな」

 信弦が思わずと言った態で呟いた。正睦の言った「良い所」とは名古屋城の天守で、そこからの眺めは見事とほか言いようが無い。返答を求めていないと知りつつ、ああ、と正睦が肯定する。すると、信弦は常日頃から引き締まった表情をふと弛ませた。

「ここからは、班雪も見事な木曾の山々もさる事ながら、はるか伊勢の海を越えて伊勢国まで見えるのだな。近隣諸国が一望できる」
「快晴の日の出以前、卯の方角(東)に富士の峰が見える時もある。そうだな、全体の七分程かな」
「ほう、尾張からも富士の山は見えるのか」
「信弦のたっての所望と言うのならば、この正睦。明け方に再び天守に登る事もやぶさかではない」
「ああ、それは良いな。では、たっての所望と致そうかな」

 二人で笑いあった後、正睦が指差した方角に信弦は目を凝らした。今は昼八ツ過ぎ(午後二時過ぎ)なので見える筈が無いが、富士の方角は水戸の方角でもある。国許を離れ、遥か遠くに来たものだ、と感慨に耽った。
 藩主が定府である水戸藩は、中山家も基本的に江戸に詰めており、信弦自身も旅と言えば水戸と江戸を数度行き来したのみだ。今回の尾張行きも、正睦が信弦の父中山備前守信治や水戸藩主徳川光圀を説き伏せて、半ば無理やり連れ出している。
 慣れぬ信弦は時にからかわれつつ、東海道を尾張国まで旅した。しかも、本陣や脇本陣に宿泊する事はなく、旅籠や時には木賃宿に泊まりながらの旅だった。道中では、友がいなければ生涯知りえなかった世界を見ていた。

「……尾張藩六一万九五〇〇石が一望出来る。遠くない未来、正睦――お前が背負うものが」
「それは間違いだ。私ではなく藩主光友様がすでに背負っておられる。私はせいぜい、その重みを少しでも軽くする事しか出来ぬ。……全く以って寝耳に水だったが、こうなる運命だったのならやるしかあるまいよ」
「お主なら出来よう、竹腰出雲守。従五位下諸大夫の官位を受領した時から、覚悟は決まっているのだろう?」「買いかぶりだ、それは」

 正睦は、雑じり気のない友の真っ直ぐな言葉に苦笑を返した。先ほどの茶屋家とのやり取りを思い浮かべる。同じ立場になれば、お前の方がよほど優秀な「御附家老」になるだろう、その言葉は胸中に止めながら。



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 竹腰正睦、中山信弦は存在しません。勝手に作った人物となります。

用語解説




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