緑眼の怪物

これほど容易く、恐ろしい怪物になれるのだ。



 現在、俺はすこぶる機嫌が悪い。
 日曜日の昼下がりの喫茶店。オフィスビル街にありながら、半数の席が埋まった店内では、各々が自由に時間を消費していた。手頃な価格で茶請けの焼き菓子が付いて来るという事で、このチェーン店は人気があった。パステルカラーで統一された店内。テーブルや椅子も少々凝ったデザインで、目に清々しさを与えてくれる。こうしたサービスが、競争が激しい飲食業界の中において生き残っている理由なのだろう。――こうして、他愛も無い事を考えていなければ、今すぐにでも飛び出して、その腕を掴んでしまいそうだ。
 飲みたくも無い二杯目の珈琲をスプーンでかき混ぜる。ひたすら、かき混ぜ続ける。
 これも、職人技と分かる美しい細工が施してある白いしきり一枚隔てた向こうには、はにかみながらも、とても幸せそうな笑顔を浮かべる宙がいた。
 そんな宙と、先程から人好きのする笑顔を絶やす事なく浮かべながら和やかに談笑しているのは、業腹な事に俺ではない。三十路手前の男だ。

「しつこいって言われそうですけれど、まさか一緒にお仕事出来るなんて思いもよりませんでしたからね。お話を頂いた時、何度も電話口で聞き返しましたよ。しまいには、それこそ担当から「しつこい!」って電話口で叱られてしまって」
「それは私も一緒です!私、葛木先生の作品も文体も好きで堪らなくて。同じ出版社で小説を書いているというだけで、とても幸せだったんです。ですから、お話を頂いた時は舞い上がってしまって、数日間上の空だったんですから」

 くすっ、と小さく笑う声が聞こえた。

「青海先生にそこまで言って頂けるなんて、光栄の至りですね。それにしても、「枕詞シリーズ」の作者が、まさかこんなにお若くて魅力的な女性だと知った時の私の驚きも察して欲しいものですよ」
「!?」

 ごほっ、と宙がむせた。
 俺の手元では、ガチャ、と不快な音と共に、ひたすらかき混ぜていた珈琲がカップから零れ落ちる。堪忍袋の緒が引き千切れる、秒読みが始まった。



 事の発端は、約7ヶ月前。
 宙が興奮冷めやらぬ態で俺に告げたのだ。「尊敬する作家さんと、一緒に仕事をする事になった!」と。
 その時の宙は、俺が呆気に取られるほどに嬉しそうだった。何度も電話口で確認しちゃった、と見たことも無いような、まさに飛び跳ねんばかりの喜びよう。何でも、ひとつの「家」を描く企画なのだそうだ。その「家」の江戸時代を上巻という形で宙が執筆し、下巻では明治に時代を移して宙が好きだという作家――「葛木さん」という名前だそうだ――が執筆する。話を聞くだけでも、俺自身非常に興味をそそられる企画だった。
 「良かったな」と頭を撫でると、本当に幸せそうな笑顔を向けてくれた。「俺も、読むのを楽しみにしている」そう笑うと、何故か少し吃驚したような表情をして、すぐに「頑張る!」と宙が応えてくれたのだった。

 だが、それは宙と都合が合わない日々の始まりでもあった。
 上巻と下巻を別の人物が執筆するというスタイル。研究書の類なら掃いて捨てるほどある形でも、文学となると勝手が違う。ひとつひとつ、微に入り細を穿つように打ち合わせをしている、と宙が進捗状況を教えてくれた。どこを舞台とするか、から始まった打ち合わせも随分煮詰まってきたらしく、執筆も始まっていた。
 そんな中でも、時間を捻出してくれる宙と、同じく俺は俺で外部の大学に進学希望であった為、本格化していた試験勉強の合間を縫って、短い時間ながらもなんとか2人で過ごす事も出来ていた。しかし、かなりの高確率で邪魔が入るのも確かだった。
 電話が鳴るのだ。上巻を書く宙よりも、下巻を書く「葛木さん」の負担が大きい事は、すぐに理解できた。上巻と矛盾しないように、細かな確認や摺り合わせ、また江戸期の知識を請う電話が引きも切らない状況。すまなそうな宙に「気にするな」と言いながら、共に資料をひっくり返す事も度々だった。
 そんな事くらい、構わないのだ。問題にならない。――そう、俺が最も気にしているのは、「葛木さん」その人だった。
 無事、第一志望の大学に合格した後も、宙は打ち合わせがあると出かける事が多かった。午前中から出かけ、帰宅は夜という事も少なくないらしい。昼も夜も食事を共にしている、と聞いた。最初は、宙が大変尊敬している作家であると分かっていた為、多くの話が聞けるだろうし、刺激にもなるのだろうと楽天的に考えていた。良かったな、と言った事もある。しかし、担当が席を同じくする事は殆どなく、ずっと2人で話しているらしい、と分かった時の、あの感情。
 朝から晩まで、喫茶店で話し、図書館で共に調べ物をする。
 それではまるで……。

「まるで――恋人同士ではないか」

 己の部屋に、ぽとり、と落ちた言の葉。「葛木さん」に関する種々のデータ。小説の評価、受賞歴。これらは、宙から企画の話を聞いた直後、宙の蔵書から「葛木さん」の小説を借りて一通り読んだ際に、既に調査済みだった。小説は大変面白く、ぐいぐいと惹き込まれる魅力に溢れた作品ばかりだった。宙が好きだというのも頷ける。実際、俺自身も好きになった程だった。だが、それとこれとは話が違う。何より、現在の俺の目を釘付けにするのは、あの時には気にも留めなかった彼自身の情報だ。29歳。しかも、ネット検索した写真で笑うその顔は、女が好みそうな端正な顔立ち。……彼と、時間を共有しているのか。……宙が悪い訳では無い。無いのは、分かっている。
 先ほど部屋に落とした言葉から、じわじわとシミが広がるように醜い感情が蔓延しそうになって、俺は手を握り、データから背けるように目を伏せた。



 日曜日の朝一に「今日は空いているか?」と送信したメール。しかし数分後、「ごめん、今日は一日中打ち合わせの予定です……。本当にごめんなさいm(_ _)m」と返信が到来した。もう幾度目か分らないその文言を見た瞬間、俺の中で何かが弾けた。図書館で調べる事が多い。そして、喫茶店。この二つの言葉から即座に場所を割り出した俺は、気付けば喫茶店に向かっていた。
 何をやっているんだ?そう、頭の中から自分の呆れ果てた声が聞こえる反面、どうしようも無い焦燥が己を駆り立てる。来なかったら、来なかったで良い。そんな言い訳じみた事まで考えて、喫茶店の中でも奥まった席に陣取り、両の手で額を押さえ目を瞑った瞬間、「いらっしゃいませ」と店員が新たな客の訪れを告げた。微かに顔を上げて窺うと、件の2人。心臓が不規則な音を立てる。何も知らない2人は、皮肉にも仕切りを隔てた隣に座り話を始めた。

「……なるほど。じゃあ、ここで私が伏線を入れれば良い訳ですね」
「ああ、少し入れ難い情報かもしれないけれど、大丈夫?」
「大丈夫です。三章に入れられるように調整しますね」
「ありがとう」

 俺の焦燥を他所に、隣で繰り広げられるのはひたすら作家としての会話だった。真剣に打ち合わせが進み、次々と問題点が解決しお互いの成すべき事が明確化していく。何を心配していたのだろう?安堵のため息は、同時に自嘲のため息でもあった。恥ずかしい。
 だが、2人に気付かれない内にそっと席を立とう、そう思った矢先だった。小休止を入れた2人の会話が、見る間に己が危惧していた方向に流れていく。遂には、歯の浮くような台詞を吐かれた宙が羞恥に染まった。打って変わり、蹴立てるように席を立とうとした瞬間、苦笑するような声が耳に届く。

「……魅力的だからこそ、ホント、残念ですよ。最近の青海さんの作品は、変わりました」
「……?」
「ああ、誤解しないで下さいね。悪い意味でなく、良い意味で変わったように感じます。ヒロインの描写。恋をしている、人を想う――その描写が、とてもいじらしい。花が綻ぶように想いが膨らんでいくのが、染み渡るように描写されています。主人公にしても、ヒロインを見る、愛しい、という視線が堪らなく良いんですよね……。読んでいるこちらが恥ずかしくなる位だ」
「あ、えっと、ありがとうございます……」
「……そういう人がいらっしゃるんですよね?」
「!」

 宙が息を呑んだ。同時に、先程より酷い音を立てて、俺の手元で珈琲がカップから零れる。最早、ソーサーは珈琲の海だ。そして、鼓動が早鐘を打ち始める。半鐘よりもけたたましい、酷い打ち方だが、俺の中では、それだけ非常事態だった。じわり、と変な汗も出て来る。
 ……待ってくれ、それは、つまり。

「素敵な恋愛を、していらっしゃる」
「……っ」
「是非、お話を聞かせて欲しいですね。10歳以上も年上のオジサンと所謂“コイバナ”も、アレかもしれませんが」
「う、その、葛木先生は、オジサンでは、ないですよ……。あの、ホント恥ずかしいので、あんまり、その、勘弁して欲しいのですが……」
「ふふ、ありがとうございます。……が?」
「………その、凄く、大切にしてくれます。同い年なんですが……、こういう特殊な事情も全部、当然みたいな顔して受け入れてくれて、文句も言わないんです。ずっと、優しく笑ってくれます。だから、……私で良いのかなぁとか、考える事もあるんです。その、自分からは恥ずかしくて言えないんですが、それでも、そばにずっといたいし、いて欲しいなって思います。こんなに、好きになれる人が出来るなんて、信じられないと言うか……幸せだなぁと、思います。……今回の企画も一緒に喜んでくれて、「楽しみにしている」って言ってくれました。だから、最近一緒にいられなくて、寂しいんですけれど、その分少しでも楽しんでくれる良い話が書きたいって思っています。……あの、この位で、勘弁して下さい……」
「なるほど。本当にその方がお好きなんですね。……だ、そうですよ?彼氏さん?」

 えっ、と宙が小さく声を漏らした。何故ばれている、と俺も思ったが、思わず立ち上がると、呆気に取られた表情の宙と目が合う。えっ、まって、なんで、と繰り返した後、みるみる真っ赤になった宙は此方が止める間もなく、脱兎の如く店を飛び出してしまった。

「お金は私が払っておきますから、追いかけた方が良いですよ。ああ、青海先生、荷物全部忘れてますね。よっぽど焦ったんでしょうね……。持って行ってあげて下さいね。後、打ち合わせの続きは、また来週にでも、とお伝え願えますか?」
「……は、い。すみません、また改めてお詫びに伺います!」

 お待ちしております、と微笑った葛木さんは、大人の男性の魅力に溢れていた。一礼をして、俺も喫茶店を飛び出した。

「全く……。あんな、絞め殺してやりたい!みたいな視線を仕切り越しとはいえ隣から送られると、嫌でも気付くだろ……。それにしても彼氏さん、かなりの美形で驚いたな。しかし、あの様子じゃ、フ、青海先生が想う以上に想われていそうで……羨ましい限りだね。……来週、思う存分からかってやりましょう」

 クスリ、と笑って紅茶に口をつけた葛木さんから、一週間後、お詫びを言う為に同行した俺と宙が、打ち合わせもそこそこに嫌と言うほどからかわれるのは、また別の話だ。



 逃走を謀った宙だったが、彼女は持久力が無いので案外すぐに捕まえる事が出来た。問答無用で裏通りに引っ張り込む。幸いな事に、ただでさえ人通りの少ない日曜日のオフィス街は、裏通りともなると、更に人がいない。やだやだ、と顔を背けかぶりを振り続ける宙を、後ろから抱きすくめる。

「何でいるの……っ。離して……っ」
「嫌だ。離せばまた逃げるだろう?……たとえどれだけ逃げても必ず捕まえてやるが、今は離したくない」

 後ろからしっかりと宙を腕の中に納める。後ろから見た宙の耳もうなじも赤くなっていたが、断言できる。今は俺の方が真っ赤になっている。恋人にあんな事を言われて、平然としていられる訳がない。嬉しすぎて、幸せすぎて、おかしくなりそうだというのはこういう事を言うのだろう。否、実際既におかしくなっている。人通りが無いとは言え、こんな野外で白昼堂々宙を抱きしめているのが、平時の俺では到底考えられない行動だ。

「今、凄く幸せなんだが……」
「っ……。もう、やだぁ……っ!」
「……当然みたいな顔で受け入れてくれる、と宙は言ったが、俺は実際そんな器の大きい男じゃない。なんで俺があそこにいたのか?簡単な事だ。あまりに宙が葛木さんと一緒にいるから、勘ぐったんだよ。……最低だろう?お前を信用してなかった訳ではないが、心配だった」

 首筋に顔を埋めるように、白状する。嫉妬に狂った、憐れな男の話を。

「……えっ」
「緑の目をした、怪物になっていた……」
「蓮二君が……嫉妬したって、言う事……?」
「ああ、杞憂だった訳だが。……どうしようか、宙」
「?」
「今日一日、何があっても離れたくない……」
「!!?!」

 宙の体温がどんどん上昇していくのが分かった。それでも、ゆっくりと身体を預けてくれたその重みに、心が震える。

「俺も、ずっと一緒にいたい。宙が想ってくれるずっと前から、そう思っていた。……宙」
「……うん、私も蓮二君と一緒にいたい」

 そしてその日一日、久しぶりに誰にも何にも邪魔をされず、思う存分宙と共に過ごす事が出来た。しかし、その詳細は秘密にしておこう。本当に久方ぶりの独占だったのだ。このまま独占し続けても、罰はあたるまい。



 *the green-eyed monster:嫉妬、ねたみ、やきもち
*******
夜宵様のリクエストでした!
リクエスト内容を簡潔にまとめると
・鵺番外。夢主と同じ出版社で、夢主が大好きな若い男性作家さんとコラボ企画が持ち上がる→夢主が舞い上がって、最初は気にしてなかった柳さんも嫉妬してしまう。
という、素敵過ぎるリクエスト内容でした!

 あまりに素敵だったので、話もやたら長くなってしまって、大変申し訳御座いません。
 久しぶりに鵺設定で書いたので、夢主の口調やら何やらが、ひたすら犬キミに引きずられていました。何とか直したつもりなのですが、ちょっと違う、と言われてしまいそうです(苦笑)
 しかも、これほど長い割には、嫉妬する柳さんを上手く描写出来なかった感が否めないのですが……。といいますか、リクエスト内容そのものに添えているか不安で仕方がありません。こんなお話で宜しかったでしょうか……?

 とにもかくにも、夜宵様が少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。
 夜宵様、フリリク企画に参加していただいて、本当に有難う御座いました!

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