37 興味はあるけれど、無理なものは無理である。 汗を流し終えて、服も元通りに着替えた。下着が汗でベタベタなのだが、流石にこれはどうしようもない。家を出る時に言ってくれたら持って来たのにと考えて、結局それはないな、という結論に到った。家を出る前に「弦一郎と試合をしてくれ」と言われていたら、なんとしても家から出なかったに違いない。柳君もだからこそ笑って誤魔化すばかりで詳しく言わなかったのだ。 策士め……! 道場に戻ろうと廊下を歩いていると、その途中で策士柳君が待っていた。 「流石は、『参謀』だよ柳君」 「何のことか分からないな」 なんとも意地悪そうな笑顔は、私がみなまで言わずとも全て分かっている表情だ。 ここで更に文句を言うことは出来るのだが、意味が無いことは明白。だが、「着替えがね……」とボソリと呟くと、う、と若干言葉に詰まったようなので少し溜飲が下がった。この位にしといてやるか。 「……こちらだ」 「うん」 道場とは方向が違ったので、柳君に導かれるままに後ろをついていく。何というか、本当に広いお家だ。迷いそう。そして、かくれんぼのやりがいがありそう。柳君はスタスタと歩いていくので、何度も来た事があるのだろう。 「夏休み」 「ん?」 くるり、と柳君は振り向き立ち止まった。 「夏休みなのだが、青海は忙しいよな」 「う〜ん、忙しいかな……」 出版社が手ぐすね引いて待ち構えているだろうし。うわ、そう考えると嫌だ。 でも、柳君と少しでも会えるなら会いたいな、と思う。その位なら構わないだろう。自分の思考の現金さに笑ってしまいそうだし、なんとも恥ずかしい考えだけれど。 「……小説も書くのだろう?」 「え、あ、うん。書くよ」 作家志望、そう柳君は思っている。そう思い込んでいた私は、この時柳君が探るような表情で私を見つめていたのに全く気付かなかった。 「やあ、こんにちは」 通された部屋に足を踏み入れると、真田君と何とも穏やかそうな人物が座っていた。 「幸村君!こんにちは」 立海が誇る(らしい)、三強の内2人までもが揃っている2年E組。幸村君がやって来ないはずがない。挨拶位しか交わしたことはないのだけれど。 こう考えると、いつの間にかテニス部について詳しくなっているし、知り合いばかりになってしまっている。たった数ヶ月、されど数ヶ月。数ヶ月前までは全くもってお互いに眼中外だったのだから、不思議なものだ。 「こんにちは、青海さん。名前、覚えてくれてたんだ?」 「確かに名前を覚えるのは苦手だけど、幸村君は直ぐに覚えたよ」 「へえ?」 「真田幸村。見事だよね」 ああ、成る程。幸村君はにっこり笑った。多分、色々な人に言われている話だろう。 「じゃあ、俺の名前――名字じゃなくて、下の名前、覚えてる?」 「え、っとですね」 にこにこしながら聞いているけれど、間違えちゃいけない雰囲気が漂っている。 「幸村、精市君」 「よくできました」 良かった!お風呂から出たばかりなのだが、何故か嫌な汗をかいた気がする。部長さん、しかも一年生ながら去年インターハイで優勝したお方ともなると、雰囲気から違うものだろうか。 しかし、わざわざここにいると言うことは、私に用があると考えて良いのか。 幸村君の向かいに座り、柳君は私の右隣に座る。真田君が麦茶を出してくれたので、お礼を言って早速喉を潤した。 夏の蒸し暑さもあるが、日本家屋の素晴らしさで、どこかそよそよとした風が入り込んで来て、涼しい。 カラン、と氷が鳴った。 「真田との試合、こっそり見せて貰ったよ」 「それは、また。お恥ずかしい限りで……」 「そうかな。俺にはそうは見えなかったけど。どちらかと言えば、最後に見事一本とられた真田が不甲斐ない」 厳しい! にこやかに笑いながらも、幸村君は身内には随分厳しいひとのようだ。ちらっと真田君を見たが、気にしたふうでもないので、これが日常なのだろうか。 「うむ。俺もまだまだ鍛錬が足らん」 「剣の道は一生ものだから。一生、鍛錬が足りないだろうね」 「ああ、無論だ」 にこっとお互いに笑って視線を交わす。すると、今度は幸村君が麦茶が注がれたグラスをいじりながら話しかけてきた。 「真田は家に道場があるからね。居合いをやっていても不思議じゃないんだけれど。青海さんは、どうして、その――」 「尾張柳生流?」 「そう。それを習っているのかな?」 幸村君の疑問も最もだ。 しかし、これは、本当に縁としか言いようが無い。 「う〜ん。小学生の頃にですね、時代劇を見て「格好良いな〜」と思ったんです。それで、父親にこういうものをやってみたいな、とぽろっともらしたら父が本気にしまして。そうしたら、ちょうど父の同僚に尾張柳生を学んでいる人がいたので、ならばやってみよう、と」 「なるほどね。しかし、なかなか時代劇を見て「格好良い」なんて思う女の子は少ないんじゃないかな」 「確かに、それはそうかもしれませんね」 言われてみればそうかもしれない。しかし、格好良く映ったのは確かだ。 「……で、青海は時代劇が好きなのか?」 「うん?ああ、時代劇大好きだよ?」 「そうか」 柳君の質問にも機嫌良く答える。時代劇好きが高じて時代小説書きになった訳だし、とは言えないが、それ位好きなのである。 「……変、かな?」 「いや、そんなことはないだろう」 穏やかに柳君は笑ってくれた。その笑顔を思わずじっ、と見ていると幸村君がハァ、とため息をついたので再び幸村君を見つめる。 「なんか、悔しいんだよね」 「え、私何かしました?」 「ああ、別に。でも、確かに文句はないか。真田も柳も文句はない。柳生も赤也も仁王もだろう?丸井……も大丈夫だろう」 「?」 話がさっぱり見えてこない。文句がない、大丈夫、とはこれいかに。 「精市」 「何?」 「確かにあの時は是と言ったが、すまない。意見を翻す」 「蓮二?」 「どういうこと?」 「青海は忙しい。夏休みにまとまった時間はとれないだろう」 「……そうなの?」 突然話の矛先がこちらに向いたのたが、一体何について話しているのかさっぱり掴めない。何やら、面倒なことに巻き込まれかけているのだけは良く分かるが。 「肝心の話題が見えないのだけれど」 「ああ、そっか。ごめんね。簡単に言えば、青海さん。君に夏休みの合同合宿に付いて来て欲しいって話」 「無理ですね」 はぁ?と思ったが、文句を言う以前の問題で、無理だ。柳君の言うとおりそんな時間はない。 「話も聞かずに?」 「無理です」 キッパリと断ったのだが、あちらもなかなか引かない。 「期間は5日間。跡部の別荘でやるから、施設は調っている。食事も用意してくれる。宿題の時間も勿論設ける。ただ、この合宿はレギュラーと少数の準レギュラーしかいかないから、人手が足りないのも事実なんだ。雑務になってしまうけれど、手伝ってくれないかな?」 「言いたいことは色々あるけれど、とにかく無理です。嫌、とか感情の問題じゃなくて無理なんです」 真っ直ぐ幸村君を見つめる。幸村君も私を真っ直ぐ見つめ返してくる。 「どうしても?」 「どうしても」 「精市、無理だ」 少し事情を知っている柳君が援護してくれる。 「理由を聞いても良いかな」 「精市」 「気になるじゃないか」 「俺も気になるな」 確かに、何も理由を話さずに一方的に無理だと言うのは失礼なのだろう。 「詳しくは勘弁して下さい。……そうですね……皆さんがテニスに打ち込むように、私にもそういうものがあるんです。万難を排してもやらなきゃいけないことが」 ちょっと、格好つけちゃいました。そう笑うと、幸村君は今日見てきた中で一番綺麗な笑顔を浮かべた。 「仁王が「佳(よ)い女」って言ってた意味が分かったよ」 「……なんだそれは」 「ふふ、妬くなよ柳」 「え」 何か、今の私には聞き流せない言葉が聞こえたけれど、幸村君の笑顔は冗談か本気か判断し難いものがある。 「残念」 「ここまで言われては仕方がなかろう」 「そうなんだけれどね」 すみません、と謝ると謝るのはこっちだよ、と言われた。 「まあ、合宿は断られちゃったけれど、これからもよろしくね」 「こちらこそ」 「柳のことは頼んだよ」 「?!」 「精市!!!」 私なんかより、幸村君こそ正体不明だ。 |