20 何が見えそうだったのか。何を見なくて済んだのか。 私の水筒はその中になみなみとお茶を湛えたまま、今頃自宅のキッチンでぽつーんと主の帰りを待っているだろう。置いてけぼりにしてごめんよ。キミの代わりを今買いに行く所だ。簡単に言えば水筒を自宅に置き忘れた。それだけだが。 購買までの道のりをてくてくと歩く。立海はだだっ広いから、これだけでも運動になりそうだ。 そうしてある教室の前を通りかかったら女の子達の声が聞こえてきた。 「柳君の髪って本当に綺麗だよね〜」 「一回で良いから触ってみたい!」 無事にお茶を購入して教室に帰ると、件の柳君が私の机の前で「おかえり」と待っていた。 「ただいま」と返事をして買ってきたお茶を飲みつつ柳君の髪を見て、廊下で聞いた話を皆に話す気になった。 「先輩の教室だったし、学年を超えて柳君の髪は狙われているんだね」 「そしてかもじ屋へ……」 早妃がボソッと呟いた。私がペットボトルのお茶を更に飲んでいる横で早妃・真田君・綾の話は続いていく。 「でも、真田君の髪も十分綺麗だと思うんだけど」 「そうか?言われたことがないぞ」 「柳君に比べたら、硬い髪質だとは思うんだけどさ。でも、真っ直ぐだし。ね、綾?」 「確かに真田の髪も綺麗の範囲に入るだろうね。それでも、悔しいことに柳の髪は更に綺麗なんだよなぁ」 「………まあね」 本当に珍しいことに柳君を誉める綾の言葉に早妃が賛同した。忌々しそうだが。 買ってきたお茶を半分飲んだ所でふたを閉めて会話に加わろうとしたら、同時に柳君も会話に加わってきた。 「自分では分からないが、髪が綺麗だとは良く言われるな」 自分の髪を一房持ち上げながら軽く首を傾ける柳君が、見た目に反して幼く見えて微笑ましく感じる。でも不思議と様になっていた。 「羨ましい限りですよ」 「そうか?青海の髪の方が綺麗だろう」 自然な手付きで髪をすくい上げられる。きょとん、と突然の展開についていけずに柳君を見上げていたら、そんな私よりよほど素早く反応した早妃が柳君の手をはたき落とした。 パァン! 結構大きい音がしたぞ。 「玉梓、痛い」 「自業自得よ、愚民が!」 「なんで女王様?」 怒りのボルテージが一気に上がったらしく、何故か女王様スイッチが入ってしまった早妃を宥めながら、「あの位なら……」と言うと、「甘いよ!」と返された。 「そうやって甘やかすと……「青海が良いなら問題ないだろう。俺の髪も触って良いぞ」……こうやって調子に乗るんだよ、この変態!」 早妃の言葉に重ねて、柳君がまた私の髪を触ってきた。再び、ベチン!と早妃がはたき落とす。 しかし今、柳君は巧いエサを私の目の前に差し出した。 「……折角だし、触りたいかも。柳君の髪の毛」 そのエサを貰うことにした私の台詞に早妃が目に見えてガーンとしている。 すまんよ……学年を越えて垂涎の的になっている髪に触ってみたいんだ……。 「遠慮するな」と少し屈んだ柳君のお言葉に甘えて、こちらは少し背伸びしながら触る。 「凄い、サラッサラだよ!何コレ!?想像の遥か上をいく、これぞ世界が嫉妬する髪。取り替えて欲しい……!」 うわ〜っと興奮しながら、触りまくる。一本一本が驚くほど細くしなやか。ひんやりと冷たく、さらさらとほどけ落ちて絡まることもない。絹糸にも引けを取らないだろう。触れば触るほど病み付きになりそうだ。中毒性があるとは何とけしからん! 興奮と感動のあまり、若干真田君のような言葉が混じりながらも、ひとしきり撫でまわした後に柳君の髪を一房掴んだ瞬間だった。 「ふぁ……ッ!」 ブチブチッ 「あ」 「っ〜〜〜〜〜〜〜!!!」 「ご、ごめんなさい!うわっ、10本以上抜いちゃったよコレ。痛かったよね、どうしよう…っ早妃っ!何で今のタイミングでわき腹突っつくの!?」 頭を押さえてしゃがみこんだ柳君に、私も一緒になってしゃがみこむ。 背伸びをして髪の毛を掴んでいたので、早妃にわき腹をつつかれたくすぐったさで、姿勢が崩れた勢いのまま、一気に髪の毛を引っこ抜いてしまったのだ。 「本当にごめん……!大丈夫?……なんか耳真っ赤なんだけど本当に大丈夫!?」 柳君は最初頭を押さえていたのだが、すぐに両方の手で顔を覆い隠してしまった。 何故か耳も真っ赤なので、こっちも焦り始める。よっぽど痛かったのか。そうなのか。私の手には柳君から引っこ抜いてしまった髪の毛の束がまだあって、ちょっとホラーっぽいのだが、今はそれを笑えるような状況ではなかった。 「引っこ抜いちゃったのって、この辺だよね」 そう言って、柳君の頭を探っていく。ハゲが出来てたらどうしよう、どうか出来ていませんようにと必死である。 「なんか……大丈夫そうかな、抜いたのは10本位だから、流石に円形脱毛みたいな跡は無さそうだよ。でも壮絶な痛みだったよね、ごめんなさいと大丈夫しか言えないんだけれど、本当にごめんね、大丈夫?」 俯きながら手で顔を覆い隠しているので、表情を上手く読み取ろうと、柳君の頭を撫でつつ覗き込む。 すると、頭を撫でていた手をとられてぎゅっと握られた。 「あ、ごめん、」嫌だった?と続くはずだった言葉は柳君の言葉に遮られる。 「勘弁してくれ……積もっていくのは俺だけだよ」 「え?」 呻くような、絞り出すような声音で吐かれた意味が掴みかねて顔を見つめると、表情を覆い隠していた手が殊更ゆっくりと外されて、表情が見え始めた。 その動きが、まるで仮面を外していくようで目が離せない。何故か有りもしない仮面の下に、今まで柳君が隠していたものが見えてしまいそうな気がして、そしてそれに何故か私は恐怖を覚える。見ちゃいけない――思わず身じろぎすると、強く握られたままの手に更に力が込められ、引き寄せられた。 ゆっくり面を上げる柳君の顔から目が離せない。吸い付いたみたいに。以前もこんな至近距離で彼の顔を見たことがあったけれど、その時とは決定的に何かが違った。それは何?何?何?分からないけれど、違う。 仮面を外す。 め、が――柳君の眼が。 「柳!!!」 綾の鋭い声が響いた。 吃驚して肩を揺らす。だけど、そんな私以上に驚いていたのは柳君だった。 いっそ大仰な程にビクッとして直ぐに俯く。 そして次に顔を上げれば至って普通の、いつも通りの彼がいた。 掴まれたままの手にもう一度ぎゅっと力が込められ、離される。今まで顔を覆っていた方の手で、私の頭をぽんぽんと撫でる。 「ありがとう、大丈夫だ。心配しなくて良い」 「あ、うん、えっと、ごめんね」 「どちらかというと、玉梓。お前の方が悪いと思うが?青海ひとりに謝らせていて良いのか」 私の後ろにいる早妃を見ながら不敵に笑う柳君は、本当にいつも通りだ。さっきのは何だったのだろうか。 「……ごめんなさい」 「まぁ、許してやろう」 「ぐっ……言い方が腹立つ……」 フッ、と笑って私に向き直ると、実はいまだに引っこ抜いた髪を握ったままだった手からそれを受け取る。 柳君は、綾と何か小声で二言三言言葉を交わした後ゴミ箱まで捨てに行ってくれた。 その後は何事もなく一日が過ぎ去ったのだが、あの出来事がどうにも引っかかっていた。 まるで付箋でもつけたみたいに。 |