「いい季節だよな」 中身の軽くなったビールの缶と、何度も読み返した車雑誌をテーブルに置いて、キッドはぽつりと言った。 テーブルとイスを引きずり出したベランダには、昼間の暑さを払うように涼しい風が吹いていた。 ローは、ゆっくりと燻らせていた煙草の煙を吸い込む。キッドはベランダの柵越しに、沈んでいく夕日を見ていた。白い鼻筋は光が飽和し、血の透ける瞳はますます赤く、現実味が掠れていた。 「お前の誕生日にはもったいないくらいいい季節だ」 西の空はピンクに染まり、雲は藍色の影を帯びている。東に向かうにつれ空は薄墨を引き延ばし、世界で一番美しいグラデーションを作っている。東の空では気の早い星がいくつか輝いている。街のどこかしこにもピンクの影が落ち、見慣れた街が幻想じみている。 確かに、今が一年で一番いい季節かもしれない、とローは胸中で頷く。しかしーーー 「もったいないってどういう意味だ」 言い掛かりも甚だしい、と非難めいた目でキッドの横顔を睨む。しかし当のキッドは、「そのまんまの意味だ」と軽く流し、ビールを喉に流し込んだ。 しかもどうやら最後の一口だったらしく、軽い音をたてて缶を置くと、ローのテーブルに投げ出した足の向こうあるローのビールをちらりと窺った。 ローは足を組み替え、「やらねぇぞ」と何か言われる前に牽制する。 「ケチ」 キッドは鼻を鳴らし、片足をイスにあげ、膝に頬を乗せると、また西の空を眺めだす。 空はどんどんと藍色が領土を広げている。西の空の端っこはますます濃く赤くなり、燃え尽きる寸前の炎のようだ。 ローはキッドのオレンジに光る髪から、キッドと同じく夕焼けの空に目を戻した。眩しさにそっと目を細め、夕日に向けて煙を吐く。煙草の薄いベールでは日除けにもならない。 「なぁ、誕生日何ほしい?」 キッドが空に向いたままローに尋ねた。ローは指で煙草を挟み、唇から離した。 「今日聞くのかよ」 「ああ、だから今日用意できるものにしろよ」 祝う方の身でありながら、身勝手にそういい放つ。 「……」 ローは煙草で口を塞ぎ、しばらく沈黙を守る。二人の会話がなくなると、辺りはずいぶん静かになる。健全なご家庭は家にこもり、夕食でも食べている時間だろう。 「ーーーお前のイヤなことってなんだ」 煙草の灰を落とすと、ローは唐突にそう尋ねた。キッドの質問の答えにはなっていない、唐突な質問だ。 「はぁ?」 キッドは膝に頬をつけたまま、顔をローの方に向けた。赤い虹彩の瞳が、ローを訝しげに見ている。当然の反応だろう。 「イヤなこと言ってみろ」 「なんでだよ」 「いいから、お前がイヤなこと、なんでもいいから言ってみろ」 「……レポート」 キッドは腑に落ちないまま、真っ先に頭に浮かんだ来週提出のレポートを思い出してそう答えた。しかし、 「他には?」 ローはすぐにそう尋ねた。 「バイト」 「他には」 「バイト先の店長」 「他には」 「雨の日大学行くの」 「他には」 「テスト」 「他には」 「……書庫のにおい」 「他には」 「……洗濯物畳むの」 「他には」 「……」 「他には」 「……だから何なんだよ!」 眉間に深い皺を寄せ、キッドが煩わしそうに吠えた。ローはキッドのそんな様を、煙草を燻らせたまま薄ら笑いを浮かべて見下ろすばかりだ。 「誕生日にほしいもの」 煙草をくわえた唇の端で、ローは笑いを滲ませて言う。 「は?」 「誕生日、お前がイヤなこと、させたい」 「……は?」 キッドは首を傾げる。 ローは薄墨の濃くなった空を見上げ、煙を吸い込んだ。日はもう残り僅かだ。風も涼しさよりも冷たさが目立ってきた。 「誕生日だし、お前の嫌がる顔がみたい」 酷薄な印象の薄い唇から、細い煙をキッドの呆け顔に吹きかける。 さすがに噎せはしないが、キッドはぎゅっと眉根を寄せ、ローと距離をとった。 「……ったく!なに言うかと思ったら!」 袖を鼻にあて、キッドは底意地の悪い笑みを浮かべるローを忌々しげに睨む。 「性格ねじ曲がるにもほどがあるぞ!」 「いいじゃねぇか。今日中に用意できて、金も掛かんなくて、何より俺が喜ぶーーー最高のプレゼントじゃねぇか」 キッドはぷいっと顔を背け、「お前のそういうとこが『イヤ』だ」と、残り僅かな濃いオレンジの空に不満げな顔を晒す。 「お、いい顔だぞ。その調子だ。他には?ほら言えよ、お前のイヤなこと」 「……」 「なぁなぁ」 「……」 「なぁってば、キッドくん」 ローはからかいを含んだ声でキッドを呼ぶ。表情は見えないが、眉間に皺を寄せ、凶暴な顔をさらに凶暴にし、不満げな顔をしているに違いなかった。 「……のがイヤだ」 「ん?」 煙草の灰をテーブルの上の灰皿に落とそうと手を伸ばしていると、隣のイスから不貞腐れた声がした。 「……ス、すんの、イヤだ」 「……?なに?」 「お前とキスすんの、イヤだ」 灰皿まで届かずに止まってしまった手の先から、重くなった灰がベランダの床にポトリと落ちた。 「……じゃあ、しろよ」 キッドがゆっくりと、ローの方を向く。ローの濃い藍色の目と、キッドの赤い目が互いを映すと、どちらともなく顔を寄せ、静かに唇を重ねた。 喧騒の遠くなったベランダで、またどちらともなく唇を離し、顔を寄せたまま目を開く。互いの目が間近で見つめ合う。 「……他には」 ローが秘密の話でもするように、小さく囁く。唇に吐息が触れる。 「……頬撫でられるのがイヤ」 ローの指から短くなった煙草が落ち、苦味のついた親指がキッドの頬をなぞる。 「他には」 「後ろ髪に指入れられるのがイヤ」 ローの左手がキッドの後ろ髪に差し込まれる。 「唇合わせたまま喋られるのがイヤ」 「……他には」 薄皮一枚触れる程度に近づいた唇で、ローはまた尋ねる。 「煙草の味のする舌がイヤ」 キッドも唇を触れ合わせたまま、吐息をローと混ぜ合わせ、そっと囁く。 「っん」 吐息はすぐに絡めとられ、苦い味の舌が吸いつくす。 「はっ、……他には?」 舌先がキッドの唇を一舐めし、離れる。 「っ、はぁ、……部屋の中戻んないと、できないこと」 熱を帯だしたキッドの目が、ローの紺碧の中に淫らに映る。 「それ、どんなことだ?」 「……」 「言えよ」 先を促すと目を伏せてしまったキッドの後ろ髪を軽く引き、無理やり上向かせる。 「誕生日なんだせ?お前がイヤがること、全部やらせろよ」 下唇を歯で柔く食むと、キッドがゆるゆると目を上げた。 「なんでも?」 「なんでも」 「じゃあ言う」 キッドの唇が、悪戯めいた笑みを溢す。 「ビールのお代わり持ってこられるのがイヤ」 ローは無言のまま、頬に添えていた指で、その頬を思いきりつねった。 「お前もたいがい性格ねじ曲がってるよな」 「何のことだよ、部屋ん中戻んないとできねぇだろ」 「お前のそういうとこ俺も『イヤ』」 「お、いい顔いい顔」 キッドがにやりと笑ってそう言うと、頬をつねる指が左頬にも増えた。 「誕生日おめれと」 「……どーも」 とうとう夕日の明かりはすべて海の向こうに消えてしまった。まだ月明かりも覚束ない中途半端な薄闇の中、二人はもう一度唇を重ねた。 |