千と一秒物語(落乱 雑伏)



闇夜を払うような明々とした炎が眼下に広がっていた。
城の三の丸まで火の手は迫っていた。武器庫にも火が回ったようで、地を揺するような爆発も起こっている。
この本丸まで火が届くのに長くはかからないだろう。

「久しぶりだね」

出窓から城内を見回していた影のような男は、背後をゆっくりと振り返った。
暗い室内には、噎せ返るような血のにおいが満ちていた。板張りの下座には滑るように血が尾を引き、いくつもの物言わぬ死体が転がっていた。刀に手を掛けたままうち伏す老齢の男、腕をへし折られ自刃を首に突き立てられた若い武士、戸に手を伸ばしたまま背中から血を流すまだ前髪のある美しい顔の少年ーーー
畳の敷かれた上座を見れば、一見眠っているだけのように、仕立ての上等な着物を着た男が脇息に凭れている。しかし、男は首裏に刀を突き立てられ、血脂に粘つく白刃を喉から晒していた。
「2年振りかな?大きくなったね伏木蔵」
ひょろりと背の高い男は、その体躯同様飄々とした雰囲気を纏っていた。口あてと包帯に8割以上素肌を隠した男が、右目だけでにこりと笑うと胡散臭さが増した。
綿の詰まった足袋で、この城の主‘だった’男に音もなく歩みより、その足で息絶えた男をその座から蹴りおとした。
雑渡が蹴り避けた男の背後には、血の気の少ない線の細い少年が控えていた。
昨日までであったなら、この城では見慣れた光景だったはずだ。殿が座し、その背後には刀を預かる見目のよい小姓が静かに控えている姿は。だが、いま城内は炎と黒煙に包まれ、本丸は血の海に沈み、君主は事切れて下座に蹴り落とされている。ただこの小姓一人だけがいつもと変わらず静かな面持ちでいつもの場所に佇んでいた。

「一年と六ヶ月と二十二日ですよ、雑渡さん」

少年は人形のように表情を固めたまま、薄い唇だけを動かすので、その口元を見ていなければ彼が喋ったとは気づけないだろう。しかし、常とは違い、この部屋で息をしているのは忍装束の男と少年だけだ。
「おや、そうかい?君がいないと一年(ひととせ)も百年(ももせ)も同じように長く虚しいものでね」
「お上手ですね」
雑渡のからかい混じりの甘い言葉にも伏木蔵は表情を崩さない。
「……おいで」
男は笑い、死体を蹴り避けた下から出てきた赤い沙羅の座布団を引きずり、城内がよく見える欄干に移った。座布団を置き、欄干に背を寄り掛け、肩越しに燃える城を見下ろす。
男が「ほらほら」と手招くので、伏木蔵は裾をさばき立ち上がる。
「君のお陰で仕事は順調だ」
「……」
二人が見下ろす先では、炎が吹き上がり、剣檄と悲鳴が音を絶やさない。


ーーー伏木蔵、笑いなさい


男は唐突にそう言う。そう言ってわらう。血と煙硝とのただ中で、男は伏木蔵に笑えと言う。
「下をご覧ーーーこれは君の手柄だよ?笑うんだ、伏木蔵。昔はよく笑っていただろう?」
さぁほら、笑ってごらんーーー
「はい」
生きたからくり人形のネジが巻かれたように、伏木蔵は素直にこくりと頷いた。血の気は少ないがふっくらとした頬を柔らかく持ち上げ、薄い唇を形よく笑ませる。無垢な幼子のような、全てを見切った遊び女のような、幽玄に惑いそうな笑みだった。
「うん、うん」
とってもじょうず、と雑渡は童を褒めるような調子で伏木蔵を撫でる。

ーーーほんとぉにほんとぉによくできた。

雑渡は胸中、愉快で愉快で堪らなかった。掌中の珠が、自分が手のひらを返すたびに転がり動くさまが。
この子は昔から愉しいことが大好きで、好奇心の旺盛な子で、善悪の区別の曖昧な子だった。善悪を知らぬわけではない。ただ、彼の善悪が人とすこぅし違っただけだ。火事の家中に飛び込んで、泣き叫ぶ赤子を捨て置いて仔犬を大事に抱えて戻ってくるような子だ。彼の正義は、人の正義と一本ずれて真っ直ぐに伸びていた。
危うい位置でふらふらと気ままに生きていた彼を引きずって、こんな地獄の釜に沈めてしまったのは紛れもなく自分だ。そんな事実が雑渡は楽しくて楽しくてしかたない。
「それにしても本当によくやったね。この城を崩すのは砂上の楼閣を崩すように容易かった。内部がどれだけ虫に喰われていたのかと、身の毛がよだったよ」
「お褒めの言葉と受けとります」
花となって笑ったまま、彼は少女のように小首を傾げる。辺りは血潮の流れに揉まれているというのに、花畑にでもいるように柔らかな笑みだ。
「枕仕事も得意になったみたいだね」
「……」
男はそんな伏木蔵に目を細めて楽しそうに、彼以外が言えば単に嫌味でしかないようなことをじゃれつくように言う。雑渡の笑みとは裏腹に、伏木蔵の笑みは薄まった。
「……‘それ’しかできないような忍はそこで終いですよ。人の心を読み、巧みに動かし、相手に自主的にこちらに寝返らせなくては。体を与えて得れるものは心の半ば、それも醜い部分ばかり。そんなものは使い物になりません」
ーーーもちろん、使っていないとは言いませんが。
蝋でできたような冷たい伏木蔵の横顔は、眼下の炎に照らされて溶けだしそうに怪しく光っていた。男はそれを見て、刻んだように胡散臭い笑みを深めた。喉奥から漏れる忍び笑いは、実に喜びに満ちていた。
ほんとうに、ほんとうによぉくできた、と雑渡は口あての中で唇を震わす。だけど―――

鋭い音が城の落ちる音に混じる。

「誰が止めていいと言った?命令は続いているぞ」
雑渡の冷えわたる右目が伏木蔵を見下ろす。頬を鋭い平手で張られ、目をわずかに見張っていた伏木蔵は、瞬く間に平静を纏い、崩れかけた体勢を戻す。
「申し訳ありません」
伏木蔵の熟れたように赤い唇は、衝撃で噛みきったのだろうか、淡く血が滲んでいた。一度黙礼するように目を伏せた伏木蔵は、また花の綻ぶような笑みで雑渡を見上げた。
「いいんだよ、次は気をつけて」
雑渡もまた右目だけでにこりと笑う。地獄の釜の中、親子ほども年の離れた二人が無邪気に笑い合っていた。

「それじゃあ行こうか伏木蔵―――」
「はい」

二人は立ち上がる。
伏木蔵は纏っていたきらびやかな衣を脱ぎ捨てる。その下からは、男の纏う衣と同じ夜色の衣が現れる。
二人は鉄錆色の笑みを見合せ、まことの親子のように手を取り合う。
ごうごうと炎の吹き上がる音は間近に迫っていた。地獄の釜に蓋がおりる。


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