兄が戦争に行く。 病気がちで、戦争には足手まといと、お国から声のかからなかった自分と老いた両親に敬礼を一つし、兄は戦地に向かう汽車に乗った。 (父と母をよろしくお願いいたします) (体を大事になさいまし) (心配せずともすぐに帰ってまいります) 不安も恐れもあっただろう。だが兄は何一つ暗いことを言わず、ただただ家族を気遣う言葉を残して戦争に行った。 兄は優しく正しい方だった。聡明で人徳もあり、年若い者は兄を尊敬し慕い、年嵩の者も兄に一目置いていた。 なぜ兄のようなすばらしい人間が、醜く恐ろしい戦争に行かなくてはならなかったのか。なぜ兄のような心優しい人間が、人を殺しに行かなくてはならなかったのか。 ほんとうに、虚しく悲しいばかり。 「ただいま、戻りました」 兄が行ってから半年が経とうとするころ、町中の人間がラジオの前に項垂れたあの日がやってきた。ラジオから流れる敗戦の2文字に国中が静まったあの日。さらにそれから一月経つころ、兄は帰ってきた。 「……兄さん……!」 砂ぼこりに薄れ、古い血がシミとなっているが、旅立ったあの日と同じ軍服を着た兄が玄関先に立っていた。 「ああ……兄さん、そんなっ……」 兄が帰った喜びは、素直に笑顔にはならなかった。兄は、優しく美しかった兄は、右手の指をいくつかなくし、片足を不格好な作り物に替え、顔の左半分に幾重もの包帯を巻いた姿で立っていた。 玄関先に崩れ落ち、兄の汚れた軍服にすがり、喜びと悲痛に捩れた顔を押しつけて涙と怒りを噛み殺すことしかできなかった。 「家が無傷で残っているなど夢にも思いませんでした」 痩せた兄に肩を貸し、座敷に敷いた布団に座らせ、薄汚れた軍服から薄手の浴衣に着替えさせていると、手入れの届かない荒れた庭を見ながら兄が言った。 「ここらは戦禍を免れたのでございますね。近所も昔のままで道すがら涙が出そうでございました」 帯目を調え、薄い肩を支えながら布団に横たえると、兄は片方だけになった瞳でこちらを見上げて、ところで、と聞いた。 「父様母様はどちらでございますか?」 早く会いとうございます―――兄は夢見るような穏やかな顔で言う。かけるべき言葉もなく、兄の手に頬を押し当てた。 「どうしたのですか?」 「兄さん、に、いさん」 「どこか痛いのですか?」 ―――父さんも母さんも死にました 「―――」 絞り出すようにそう言うと、兄が息を飲むのが聴こえた。 「兄さん、」 「……一人に」 「兄さん」 「一人にしてくださいまし」 「兄さん……!」 「お行きなさい」 「……」 手を振りほどき、布団にしまってしまった兄は、顔を背けジっと庭見ていた。 仕方なく立ち上がり、後ろ髪を引かれながら座敷の襖を閉めた。頑なに強ばる兄の首筋は、記憶の中よりずっとずっと頼りなかった。 それから数日口を閉ざしていた兄は、次に口を開いたときその美しい心を病んでいた。日がな一日、布団の上から暗く沈んだ目で庭を見て、布団に薄い爪をたてるばかりとなってしまった。 「兄さん、気分はどう?」 その時壊れてしまったのか、戦争が壊してしまっていたのか、はたまた最初から壊れていたのかは定かでない。 「……どうしてあなたが生きているのです?」 水差しを換えに座敷に入り、布団の横に座り声をかけると、庭を見ていた兄が淀んだ瞳をこちらに向けた。 「どうして……だろうね」 困ったように笑い、そう言うしかない。 「私は、父を頼むと、母を頼むと言いましたのに」 「……」 「あなたは、父を守ると、母を守ると言いましたのに」 光のない沼の水面のような目が責め咎める。 「おまえがしねばよかったのに」 そうだね、そうね、本当にそう。僕が死んでいればよかったのに。僕が戦争に行けばよかったのに。僕が戦争に行かなかったばっかりに、僕が死ななかったばっかりに、父は死に、母も死に、兄も心を病んでしまった。僕が戦争に行き、兄が戦争に行かず、僕が死に、兄が家を守っていたら、きっとすべてはうまくいっていたのに。 「おまえがしねばよかったのに」 「ホントだね」 毎日毎日繰り返される兄の呪詛。僕はそのすべてに頷いて、笑ってみせる。 辛くはなかった。 生まれたときから兄に世話をされた記憶しかなく、兄の世話をしたことなど初めて事である。強く優しく賢かったあの兄は、いまや僕がいなくては生きていけない。幼い頃の恩を返せる喜びと、あの偉大な兄に必要な存在となったことに幾ばくか得意な気持ちもあった。 それに比したら兄の言葉なぞ何の苦にもならない。 「おまえがしねばよかったのに」 「ホントにね!」 僕は満面の笑みを浮かべ、乱れた布団を整えてやる。兄の暗い瞳は天井ばかりを見ていた。 「兄さん気分はどう?」 吐き気がするほど繰り返される毎日を、嬉々と今日も繰り返していたはずなのに、今日は少し様子が違った。 開けた襖の奥には空の布団があるだけで、肝心の中身がなかった。布団の脇には水差しが転がり、中身はとっくに畳が奥底に吸いとっている。 「兄さん!」 僕は青ざめ、ばたばたと庭に飛び降りた。草履も履かずに素足で庭の草花を踏み、庭を見回す。踏まれた青い香が不安を煽る。脚の悪い兄が池にでも落ちていたら、と冷たい汗が流れた。 「……兄さんっ」 庭をぐるりと見回した僕は、庭の隅に兄の姿を見つけ、安堵の息を吐いて駆け寄った。 「ああ……私はなんてひどいことを」 兄は泣いていた。 庭の隅に建てた両親の小さな小さな位牌にすがり、兄は泣いていた。浴衣の裾から不自由になった脚を草の上に投げ出して、菩提にすがっていた。 脚を痛めるばかりのできの悪い義足を外した足は、肉色のつやりとした傷痕を晒し、もう片方の足も痩せ細った生白い足裏を晒している。 「私はなんてひどいことを」 ―――私ばかりが辛いのではありませんのに。辛いのはクダリも同じですのに。私はなんてひどいことを言うのでしょう。「おまえが死ねば」などとひどいことを。 「赦してくださいまし」 「―――」 顔を上げ、こちらを向いた兄の瞳には、知性の光が射していた。僕を守り、僕の手を引いていた強く賢く優しいあの頃の兄の瞳だった。 澄んだ声音で名を呼んで、兄が僕の手をとった。手の甲に清純な涙の粒がいくつも落ちてきた。 ……―――クダリ 「イヤ」 僕は汚れをなくしてしまった兄の美しい手を払った。兄が目を見開き、払われた手と僕の顔を交互に見る。 「イヤ、イヤ、イヤだよ」 僕は美しさに濡れる手を乱暴に押し拭い、嫌悪を露に兄を睨んだ。イヤ、イヤだ。そんなのイヤ。 「クダリ」 「ヤメテ、そんな真っ当な声で名を呼ばないで」 「クダリ!どうしたのですか?」 「ヤメテ!正しいことなど聞きたくない」 「クダリ!具合がよくないのですか?床の用意をいたしましょうか?」 「ヤメテ!まともさなんていらないよ!」 兄が強く名を呼んで、僕の両肩を捉え、顔を覗き込む。心配そうに揺れる、兄の目。兄の瞳だ。それは確かに正しい兄の瞳だった。 ―――吐き気がする。 兄弟二人寄り添って、兄さんには僕しかおらず、僕には兄さんしかいない、二人だけの人生がやっと始まったというのに。正しい兄には何もかもがあり、僕には何もなくなってしまうあの頃がまた始まってしまう。吐き気がする日々だ。 だから――― 「正しさなんていらないの」 突き飛ばした兄は、簡単に両親の菩提の足下に転がった。草の汁に汚れる浴衣の裾が目に焼きつく。庭の隅は日陰の湿ったにおいがした。 兄さん、起きて、部屋に戻ろう。さあ、ほら。いつものように兄さんの薄い肩を抱いて、ソッと起こし、兄さんの暗い瞳を優しく覗き込むの。今日のスープも味付けは完璧だよ。塩加減がすばらしいの。ほら、起きて。口移しでスープを飲むの。水銀色の唇で笑い合おう。 ほうら、とっても幸せでしょ? |