月の明るい夜。 黒々と雲や木々の影が落ちる縁沿いの中庭には、人が隠れそうなほど大きな瓶が据えてあった。 瓶の中には並々と水が注がれ、調度真上に登ったお月さまが瓶の中に捉えられていた。 その瓶をひたすら見据える人影があった。 「……」 濃い隈ができた齢の割りに風格のあるその男は、縁の廊下に胡座をかき、膝に肘を立て、顎を右手に据えて、睨み殺すように瓶を見つめ続けている。 古来より日本は、水は異界に繋がると捉えている節がある。 桃太郎は海を越えて鬼ヶ島へ。浦島太郎は海の底の仙人の都へ。亡くなった母上様は海の底へお帰りに。みまかりました天皇は海を越えて常世国に。 海や河といった水を越え、異界と呼ばれる現国(うつしくに)とは異なる理に支配された世界へ行く話がいくつも物語に見出だせる。 水の向こうに異界があるという思想は、次第に水そのものが異界という思想をも孕み出した。異界は水を隔てて‘向こう’にあったのが、水そのものが異界、つまり異界は身近のそこかしこにあるようになった。 いま、そこにも一つの異界がある。 瓶の中の水面がさざめく。風もないのに捕らえられた月の面は微かに震えていた。 まず見えたのは薄い桜色の爪。月を滲ませ、水面を割った薄い爪は水に濡れてぬらりと光っていた。そうして次に、白魚のごとき白く細い指が現れる。それから折れそうな華奢な腕が出でる。 水面から現れた腕は、異界からの異物に相応しく、月明かりを浴び、幽鬼のそれのように美しく妖しい。 現れた腕は瓶のふちに手をかけると、もう一本の腕も同様に現れ、ふちを掴んだ。幻のように真っ白な手の甲に薄く筋が浮いたので、手に力をこめたのだろう。その直後、ざぱりと音をたて白い鬼が現国におり立った。 瓶の縁から下り、地におり立った男の肌は、白蛇の腹のようにぬらぬらと光っている。長い黒髪は烏の濡れ羽のよう。 「仙蔵」 顔を上げた男は、切れ長の目が涼しく鼻筋の通った、「せんぞう」という冷たい響きのよく似合う美しい生き物だった。服を着ていれば女と見違うだろう。 「文次郎」 男の薄い唇が割れる。 文次郎と呼ばれた縁の男は、黙って手拭いを濡れた男に放ってやった。 「帰ったか」 「帰ったぞ」 仙蔵はそれが常だと言うように、口の端をすこぅし持ち上げ意地悪い薄い笑みを浮かべ、受け取った手拭いで濡れた髪を押さえた。 「此度は平安の都が盛りの時に流されていた」 「水練用の小さな池からずいぶん遠く流されたな」 先に体を拭けばいいものを、とぱたぱたと水を滴らせる生白い体を見つつ文次郎思う。はやくその、幻影のような肌に蓋をしてほしいものだ。 「宮中の池に上がってな、美姫と間違われ時の帝に言い寄られたのだぞ」 髪を一通り撫でた手拭いは、すでにじゅっくりと水を吸っている。一度手拭いを絞ると、水が地で跳ね、仙蔵の白い足を汚した。目眩のするような光景だ。 「幾重にも着ていた衣の上衣を脱いで、帝の腕(かいな)をすり抜けてきた」 これぞ忍法・空蝉の術よ―――と、仙蔵はけたけたと笑う。 「何が‘忍法’だ」 「抜け出るとき襖に和歌も残してきたぞ。時代に合わせた流行りの去り方よ」 「なんと?」 「恋しくば 訪ねきてみよ いずみなる 信太のもりの うらみ葛の葉」 「貴様は狐か」 放っておけばいつまでも髪を拭いていそうな仙蔵に、文次郎は白い襦袢を投げつけた。仙蔵はまたけたけたと笑う。狐というのは間違ってもいないかも知れないと、文次郎は奥歯で虫を噛む。 髪と比べ荒く拭かれた体に、襦袢が被さる。それまで、異界からの異物だった生き物が、「立花仙蔵」の形となる。 「もう帰って来ぬかと思ったぞ」 「『帰る』とは言いえて妙だな。私はそもそも‘あちら’のものだぞ」 「言葉の次元は捨て置け」 「私があちらに帰るのは、こちらで正体が見破られたときだ」 和泉の杜の姫のように、襖を開けられた鶴のように、正体を見られたとき異物は速やかにこちらを去るのだ。それは物語の決まりごと。 「お前を置いて戻らんさ」 仙蔵は懐手をし、文次郎に笑んでみせた。月光のような笑みだ。月に当たって一度死んだ太陽の笑み。 「……俺にはお前は無用の長物だ」 「『俺にはお前は宝の持ち腐れだ』の間違いだろう?」 人が異界から奪ったもの、異界からやってきたものは、現国では力ある呪物となる。呪物は時に現国に禍をもたらすが、うまく御し、呪物を使いこなせた者には強大な力を与える。異界から何かを得た者がこの世を統べたり、莫大な富を得たり、不老不死を授かったりという物語がいくつもある。 この男も、言うなればそう言った呪物の一つとなりえる。 「覇者となる気もない、名を上げたくもない、でかすぎる富もいらん」 文次郎は真実しか語らぬ目で仙蔵を見据え、言う。 「……」 月光の降る音が聴こえそうな静かな夜だ。月の明るい夜は、息の続く水中を泳いでいるようだ。肌の上を水流のように月明かりが流れていくのを感じた。月明かりの中とは、水の中―――異界の中と近いのかもしれない。 「それでいい、それがいい」 仙蔵は暫しの沈黙のあと、唇を弓なりに吊り上げた。 「私がなんの利とならないお前だから選んだのだ」 いつもの底意地悪い笑みではなく、目もとまで和らげた年相応の笑いだ。 「私は物語なんぞになりたくないからな」 文次郎は縁の下まで歩み寄った仙蔵の手をとり、屋根の下に引き上げた。 月明かりの中は異界かもしれない。異界に連れ戻されぬよう、月明かりが仙蔵の正体を暴かぬよう、隠さなくては。 触れた男の肌は思いの外温かかった。 |