Bloodbond March



砂っぽい、乾いた空気が村中に漂っていた。
日は真上に程近いというのに、背の低い家々が立ち並ぶ通りにも、畑にも人の気配はない。村中の家は、どれも似たような姿をしていた。煤けた壁、壊れた窓、荒れた室内が扉から覗く。畑は荒れ、もうずっと人の手が入っていないようだ。ーーーこの村は、死んでいた。

「う、うううう!」

この死んだ村の片隅の、蔦が壁を覆うかつての馬小屋で、苦痛にくぐもる悲鳴が聞こえた。
「う、うぐ、うううう!」
小屋の中には馬は一頭もいない。代わりに、敷き詰めた藁を背もたれにして、苦痛に顔を歪めた男がいた。額に吹き出す脂汗で、男の赤毛が額に貼り付いている。
小屋の梁には、古びたロープが二本垂れている。一本は赤毛の男が片腕で掴み、血が滲むほど強く握りしめている。もう一本は先が小さな輪になっており、男が右足を引っかけ、足を空中に固定している。男はぼろ布をローブのように纏っていたが、布が寸足らずなせいと、右足は肩の高さにまで上げているせいで、真っ白で痩せた足が覗いていた。
「う、あ、あ、アアアアアッ!」
男が甲高い悲鳴を上げた。口にくわえ、必死に噛み締めていた布が口から糸を引いて落ちる。
ーーーんぎゃぁ!んぎゃぁ!んぎゃあ!
目尻からも、目頭からも痛みによる涙を溢したままにし、放心していた男は、獣の子ような叫びにはっとする。尻の下に敷いていた比較的清潔な布を右手でた繰り出し、布の上でばたつく赤黒い固まりを布で包み、弱い力で顔を押し拭ってやる。声をあげる生まれたばかりの赤子にほっとした男は、ずるずると上体を地面にうつ伏せた。布でくるんだ赤子の頭を右腕で抱き、頬をすり寄せる。どうやら男は左腕が無いか、あるいは使えないようだ。

「ざまぁみろ……!」

(生き延びてやったぞ。俺は生きてる!地獄から、生き延びた!)
男は憔悴しても消えない強い光を赤い瞳に浮かべた。ここにいない何かに向けた、復讐の光だ。



■■■


(夢を見た。昔の、いやな夢だ)

汗だくで飛び起きたキッドは、ベッドの上で傷痕だらけの顔の左半分を押さえ、荒い息を沈めた。
(だかいい兆しだ。やつらが近い)
物がほとんどない殺風景な部屋だ。キッドはベッドを降りると、この部屋のベッド以外の唯一の家具である窓際の小さな机の引き出しを開けた。中には小さな古ぼけた手帳だけが入っている。その手帳の真ん中を開くと、一枚の色褪せた写真が貼ってある。
キッドはそれにキスする。「もう少しな」と呟くと、また手帳を引き出しに戻し、バタバタとシャワールームに駆け込んだ。



ノック音が三度鳴る。
「入っていいか、キッド」
返事も待たずに開いたドアから、恵まれた体躯にピンクのフェザーコートを纏った男が入ってきた。
「ドフラミンゴ、入ってから言うもんじゃねぇだろ」
飾り気のない木製の椅子に座り、隣のベッドに足を投げ出した格好でキッドは左腕に包帯を巻いていた。その手つきは慣れたもので、片腕と口で器用に包帯を扱う。二の腕の途中からない左腕も肩もきれいに覆われている。
「いい夢見れたか?」
そう言ってドフラミンゴはキッドの髪をくしゃくしゃにかき混ぜ、その髪にキスした。キッドは鬱陶しそうに頭を振る。
「仕事だ」
ドフラミンゴは両手を広げ、プレゼントを息子に渡す前の父親のような、息子が喜ぶことを信じて疑わない愚直な期待と、最高のプレゼントを用意したと自負する得意気な笑顔を浮かべている。
「そう思っていま準備してた。夢見は上々だ」
「ビンゴだな。相手はお前の“ハニー”で間違いねぇな。すぐに向かえ。ローもつける。お守りよろしくな」
素っ気ない態度でも構わないらしく、ドフラミンゴは笑みを深めた。
「ふざけるな。どう考えても俺がお守りする側だろ」
ドフラミンゴの言葉を聞き、廊下にいた男が部屋を覗いた。
キッドが包帯を歯と右手できつく結び、立ち上がる。ドフラミンゴが両手の指を動かすと、ベッドに放られていたコートが浮かび上がり、キッドの肩にかかった。
「仲良くな」
「わかってる、敵の敵はオトモダチだ」
ローは鼻を鳴らし、ドアから消えた。かつかつと廊下を叩く靴底の音が廊下を進んでいく。キッドも不敵に笑い、コートを翻し部屋を出た。




唐人街の大通りから一本裏に行けば、そこは色と薬が支配する色町に変わる。
そこかしこに春をひさぐ女たちが勤める売春宿が立ち並ぶ。大半の宿は中華系の女たちの店なのだが、中には中華系以外の外人女、男、障害のある者等が働く店も、さらにアングラな店も同じように並んでいる。
その店の一つ、この通りで二番目に高い七階建てのビルの五階では、男娼専門の店がある。システムはどこの店とも同じ。受付で差し出された顔写真の中から好みを指名し、案内された部屋で待つ。そうしていれば直に支度を整えた男娼がやってくる。

「失礼します」

キッドが軽く頭を下げて部屋に入ると、ベッドに腰かけていた中華系の男が首を傾げた。
「写真とずいぶん違うな」
「今日、指名の子は風邪で休みなんだ。もっと似てる子がいいか?」
そう言って部屋を出る素振りを見せると、客の男はひらひらと手を振った。
「いや、お前でいい」
「ありがとうございます」
キッドは小さく笑み、部屋のサイドテーブルに仕事道具を置いた。
「脱がせる方がお好みか?」
「裸になってお座り」
男はそう言って自分の横を指した。キッドは頷いて、片手で器用にTシャツを脱ぎ捨て、ベルトのバックルを外し、チャックをおろす。ズボンを脱ぎ捨てたら、下にはもう何も履いていない。裸になったキッドは、普段はしていない黒い眼帯と、左腕の包帯、それと右腕の二の腕まであるサテンの手袋だけになった。
「それとそれはしたままか?」
男はキッドの眼帯と右腕を指す。
「つけたままの方が喜ばれるんだけど、外した方がいいか?」
「いや、そのままでいい。その客とは好みが合う………おいで」





「仕事が終わったらまた来るよ」

きれいに身支度を整えたキッドが、男のシャツの襟を整えてやっていると男はそう言った。ネクタイの結び目からちらりと視線を上げ、片頬だけで笑んでみせる。
「あんがと。これから出張?どこ行くんだ?」
そう尋ねて、男のスーツのジャケットを取るためキッドはクローゼットを開ける。
「ノースエリアだ」
「そう」
「またあんたを指名させてもらうよ」
「気に入ってもらえて嬉しいね。ーーーだがもう次はねぇよ」
ヒュパリーーーと空気の切れる音がした。
ごとりと音をたてて床に転がったのは、何が起こったか理解できていない表情を浮かべた男の首だ。
クローゼットから男のジャケットを取り出すのと一緒に、先に中に仕込んでいたナイフを取り、振り向き様にナイフを振り抜いた。
「ああ、男ってやつは一度抱いた体の抱き心地なんて覚えてねぇんだな。ちょっと残念」
キッドは眼帯のない方の目で床に転がる男の首を冷たく見下ろし、靴底で踏みつけた。そうして天井を見上げ、声をかけた。

「終わったぞ。ヴェルゴに連絡だ」

「いましてる」
声と共に、天井の一部の板が外れ、刀を肩に担いだローが天井の穴から飛び降りてきた。手には連絡用の携帯が握られている。首の落ちた胴体に歩みより、無機物でも見るような冷めた目で見下ろしながら、ローは携帯の短縮を押した。いつもきっかり2コールで、電波の向こうの男は電話を取る。
「……俺だ。終わったぞ。取引先の場所はノースエリアだ」
『ご苦労』
今回もきっかり2コールで男は電話をとった。低く落ち着き払った声が応える。
『その付近で活動中の部下に先に行かせ取引先を探らせる。お前たちはしばらくそこで待て。足を寄越す』
「わかった」
ローが頷くと、部屋に青い繋ぎに防塵マスクをつけた清掃員が三人入ってきた。ローの電話を受けながら、ヴェルゴが指示したのだろう。何も言わない清掃員は、二人がジッパー付いた袋に胴と首を詰め、一人が床の血をモップで拭き、わずか二十秒足らずで部屋を出ていった。

『それとキッドに伝えろ「ヴェルゴ“さん”」だ』

そう告げると電話は切られた。終話音が続く。
「……だそうだ」
「……あの地獄耳め」
キッドは苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、どさりとベッドに腰かけた。つけ馴れない眼帯を引きむしり、左腕の包帯を取っていく。まっさらな包帯が床に折り重なっていくと、途中から途切れる二の腕が剥き出しになった。
裸になった上半身は、左半分がひどい傷痕がいたるところにある。切り落とされた腕の断面は裂傷痕だらけで、傷口をしつこくなぶられたような有り様で、左目は失明しなかったのが奇跡なほど大きな傷が走っている。「死んでもおかしくない」あるいは「死んでも構わない」と如実に語る傷痕だった。
その傷痕だらけの左腕には、ハートの入れ墨が縦に五列、横に五行並んでいた。最後の行は三個欠けているので、合計で二十二個の黒いハートが並んでいる。キッドはそのハートの1つに、ナイフでバツ印を刻んだ。
「あと七つ」
血が垂れる腕を見て、キッドは嬉しそうに呟いた。並んだハートのうち、十五個はすでにバツ印がついていた。
「まだそんなことしてるのか」
壁に寄りかかり、キッドを見ていたローは言った。
「もうすぐ終わる」
キッドはベッド下に脱ぎ捨てていたTシャツで血を拭う。

「……わかってんだろ、そんなことは虚しいだけだ」

「ーーー」
ローの言葉にキッドは瞠目した。が、すぐにその鋭い目でローを睨んだ。
「いつからキリスト教徒になったんだ?悪いが俺の神は右頬殴られたら左頬を砕けと教えてる」
「そんなもんになった覚えはねぇよ」
「じゃあもう口出しはやめろ」
「お前がやらなくても、組織はすでにやつらを標的にしている。そいつらがすべて死ぬのは時間の問題だ」

「やめろと言ってるだろうが!」

キッドは吠えた。怒りに震える右手で血の滴る左腕を握りしめている。白い肌が青ざめ、白磁のように透き通る。
「お前に何が分かる!村は焼かれた、男は殺された、女は犯されて殺された!俺の父親も殺された!母親も目の前で犯されて殺された!俺は……!お、俺は……まだ十五だった……あいつら、あのクソ共は、俺に、俺にっ…………クソ!許さねぇ!殺してやる!殺してやる!全部俺が殺してやる!」
ナイフでついた傷痕の残る右腕に、鋭い爪が食い込む。乾きかけていた血を溶かし、また新たな鮮血が床に落ちた。傷は、増えるばかりだ。
「……」
「……」
びりびりと震えた空気の余韻が床に溶けた頃、キッドは口を開いた。うって代わり、落ち着いた声だ。
「……わかってる。忘れてしまえば生きやすいなんて。もうとっくにわかってる」
(産んだガキは、もう今年で七つになる。親の顔も知らずに七年だーーー俺はあと何年あいつを待たせるのか)
「だが、やらなきゃいけねぇんだ。じゃなきゃ、何も終わんねぇし、何も始まらねぇんだよ」
「……」
血まで青ざめたような静かな声だった。それは、もう絶対に動かない心と消えない殺意に凝っていた。
「怒鳴って悪かった。だがもうそれ以上喋んじゃねぇ。お前を、嫌いになりたくない」
うつ向いて表情の見えないキッドに、ローは頷いてみせた。キッドに向けたものではない。自分自身への確認の頷きだ。

(もう、そういう風にしか生きられない。それは俺もよく知っている。お前もそうなんだな。じゃあ、俺は黙ってお前が息を吹き返すのを手伝おう)

「……それじゃあ、最後に一つだけ」
「……殺されねぇよう心して喋りな」
キッドはうつ向いたまま、ゆっくりと腰のナイフに手を掛ける。ナイフは二本ある。投擲速度はローの抜刀速度に敵わない。二本目でローの喉を塞ぐ用意を整える。

「仕事を終えたら、ロシア料理を食いに行こう。近くにうまい店がある。俺の祖国の味だーーー故郷に帰る場所はないが、お前の頭を見てたらボルシチを思い出して恋しくなる」

ローは生真面目な顔で真剣にそう告げる。
「ク……アハハハハ!」
キッドは堪らず笑い声をあげた。ローは、頭も顔もいいくせに、こういうところがある。多分、どんな女とも長続きしない原因の一つだと、キッドは思う。
「まぁいい、半殺しで許してやる」
キッドは目尻を拭い、立ち上がった。クローゼットから殺した男のコートを取り出す。黒豹のように滑らかな毛皮のコートだ。セックスのセンスは最悪だったが、服の趣味は悪くない、とキッドは袖を通す。遠くでプロペラの回る音がする。
「行くぞ。“足”が来た」


ボルシチはそのあとだーーー




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