ROXY



「ただいまー」

(誰もおらんがな)
独り身の者なら一度は経験のあるやり取りを心の内で済ませ、真っ暗なわが家の玄関に靴を脱ぐ。スニーカーの踵を踏みながら、手探りで部屋の電気をつけると、誰もいないリビングがカクを迎えてくれた。
キリンのマスコットのついたリュックとキャップをソファーに放り投げ、一息つく間もなくパーカーやベルトを寛げながら風呂場に向かう。落ち着きのない子どものように、風呂場への道すがら服を脱いでいくのはカクの治らない癖の一つだ。最後に、躓くようにして脱衣場に入りながらズボンを足から抜くと、手にしていた服を洗濯カゴに放り込み風呂場の蛇口を捻る。温度を調節しながらパンツを風呂場の外に後ろ手に投げる。パサリとカゴの縁にキリン柄の布切れが乗る。
「……」
縁にかかった布は、徐々に重力に引きずられカゴの中に落ちた。ポスリ。
「うしっ」
蛇口から溢れる水に手を当てたまま、肩越しにその様子を窺っていたカクは、小さくガッツポーズをつくり風呂場の戸を閉めた。
バタン


###


誰もいないのは分かっているのに、「ただいま」を言ってしまうのはなぜだろう。
自分を待ち受ける暗闇への原始の恐怖に対抗する小さな虚勢だろうか?末恐ろしい静けさを打ち破りたいのだろうか?
独り身の己を待つ人などいないことなど分かっている。分かっているのだ。
理解が及んでいるのだから、それに寂しさを覚える道理などない。だけど、理屈に反して寂しさを感じる自分への虚勢と、‘期待などしていない’‘期待などするな’という自分への念押しが込もっているのかもしれない。
(ただいま)
(誰もいないけど)


「……」
熱いシャワーを浴びながら、ぼんやりとそんなことを考えていたカクは、背中の冷えに目を覚ました。
感情の分析なんていらぬことだ。感じたことが全てだ。思ったことが全てだ。一見しただけでは分からなかった部分まで深く首を突っ込み、感情の奥を探るなんてバカバカしい。浅いところを滑るように生きるのが、我々の正しい生き方だ。
蛇口を閉じれば急に辺りは静まりかえる。シャワーの口から水が落ちる。色素の薄い髪からも、黄金の粒のような水滴が散る。
美女の体を滑った水滴も、酔っぱらいが吐き出した吐瀉物も行き着く先は同じだ。キレイもキタナイも全ては混じり、末は同じ排水管だ。
カクはシャワーのノズルを壁にかけ、静けさに蓋をするように風呂場を出た。


###


腰にタオルを巻いただけの無防備な格好でリビングを歩く。湯上がりの熱い体はほかほかと湯気を上げていた。拭き取りの足りない髪からは水滴が床に落ちるがカクは気にしない。ただの水だ。放っておけば乾いて消えてしまう。
カクが部屋の隅に縮こまる独り身用の小さな冷蔵庫に手を掛けると、ソファーの上から黒い影が飛び降りた。

「ん?なんじゃルッチ、来ておったのか」

柔らかな動きでカクに近づくのは、テレビの中や動物園でしかお目にかかれない毛並みも鮮やかな豹だった。
「あいにく飯は外で済ませてきてのぉ……家には何もないぞ」
冷蔵庫を開け、中から牛乳パックを取り出しながら、おじることなく大型の肉食獣に話しかける。
「……」
ルッチと呼ばれた豹は、沈黙の瞳を保ったまま、牛乳をらっぱ飲みする行儀の悪い青年の足にすりよった。
「お前さんも牛乳がほしいのか?よしよし、いま平皿を用意してやる」
少年のような無邪気さの残るカクの瞳が、からかいに歪む。
ルッチは抗議の意を込めて、額で膝裏を小突く。
「はっはっはっ、冗談じゃ」
おかしそうに笑いながら、残りの牛乳をまた冷蔵庫にしまうと、カクは引き出しから犬用のブラシを取り出した。
返事がないことは分かっていても、カクは豹に話しかけることをやめない。
ルッチがこの姿でやってくるときは「喋りたくない」という無言のメッセージが込められている。それと共に「沈黙はいやだ」という合図でもあるのだ。
だからカクは、返事が返って来ずとも、一人言のようにただひたすら話し続ける。

「どれ、その姿を見るのは久しぶりじゃ。久しぶりにブラシをかけてやろう」

ブラシを裸の胸元に掲げ、ルッチに見せて言う。それを聞くと、ルッチはすました顔で尾を揺らし、悠々とベッドに向かった。その偉そうな後ろ姿は、「仕方ない、かけさせてやろう」とでも言っているようだ。
「さーて、腕が鳴るのぉ」
しなやかな夜の女王様のように気高い獣の後に続き、従順な従者のようにカクも恭しくベッドに向かう。

ベッドに座るカクの裸の太ももに、顎と前肢を乗せ、横這いに寝そべるルッチの脇腹を丁寧にブラシですいてやる。
女王様のブラッシングで気をつけることは2つだけ。1つ、ブラッシングは力を込めてする。2つ、沈黙をつくらない。
そのためカクは、腕に力を込め、弛めないよう気をつけながら、ルッチに今日1日のできごとを語り続けた。
今日はよく晴れたのに洗濯物を干し忘れたこと。昼食のカルパッチョがいまいちだったこと。夕食のピッツァのオリーブがうまかったこと。帰り道でアイスと間違ってホットのコーヒーを買ったこと。
聞いているのかいないのか、時折ピクリピクリと耳を震わせ、まどろむように目を瞑っている。
「ふいー」
尻尾の先までブラッシングが終わり、カクが満足気なため息をつくと、ルッチがのそりと起き上がりカクの耳元を舐め上げた。
「おわっ」
大分乾いてはいるが、まだ湿った髪を食み、額や頬を猫科特有のざらついた舌で舐め回る。お礼のつもりだろうか。
「ふふ、ルッチくすぐったいぞ、ははは、こらやめい」
上半身にのし掛かられ、ベッドに背を埋める。口ではそう言っているが、カクはルッチの頭や首に腕を回し、本気では嫌がっていないようだ。
腰に巻いていた唯一の布はすでにほどけ、全身でルッチの毛並みを感じる。裸で感じる冷たいシーツの感覚より、よっぽど癖になる肌触りだ。
「ルッチ……」
カクの指が、ルッチの背に刻まれた古い傷痕に触れた。獣の姿になっても変わらずあるそれは、美しい毛並みを遮るように背を走っている。
「……」
彼がこの姿でやってくるとき―――それは「喋りたくない」「沈黙は嫌だ」のメッセージ。喋りたくないけど、誰かの声を聞いていたい。じゃあそれは、どんな時―――?
きっと、ルッチのこの姿からは色んな言葉や感情が読み取れるだろう。だけどカクはその全てに目をつむる。彼はシンパシーなど求めてはいない。優しい言葉も不要。全ての人間的なものを拒否しているのだ、彼のこの姿は。

「ルッチ―――噛んで」

カクはルッチの下から這い出し、彼に添うように寝そべると、彼の鼻先に真っ白な手の甲を差し出した。
噛んで―――ルッチの音のない獣の目を覗きこみ、カクは繰り返す。


「……痛いな」


止まったような時間の中、空白を破りポツリとカクが呟く。白いシーツには点々と鮮血が散っていた。
ルッチの鋭い牙が食い込んだ手の甲からは、筋になった血が指を伝って布を汚す。カクは緩く笑いながら、その様を面白げに見ている。
「痛いぞルッチ。それに温かい」
無表情のルッチにカクが笑いかける。傷ついた手の甲を誇らしげに掲げてみせる。

「わしらちゃんと生きておるなぁ」

また手の甲を返し、目の前に手の甲を持ち上げたカクは一人言のようにそらに呟く。
カクは、その言葉にも、その行動にも、何の意味も込めてはいない。思い付いたことを言い、思い付いたままに行動するだけだ。
言葉に行動に、意味が欲しければ好きにつけるとよい。こちらが意図して言葉を放つより、ずっと自分の欲しい意味が見つかることだろう。
ルッチがこの言葉は、慰めととるか優しさととるかからかいととるか、はたまた無意味ととるかは彼に任せられた。
カクは、何事も深く考えず、好きなように生きるだけだ。

ざわりとルッチの毛が震えた。
「……」
波が引いていくように、ルッチの滑らかな毛皮が人の肌へと変わっていく。カクは寝そべったまま、無傷の方の左手で、徐々に引いていく毛並みを追うように背中をなぞる。
首筋に行き着く頃、猫科の獣は姿を消し、カクの横には豹のようにしなやかな筋肉をまとう男が伏していた。
男が顔を上げる。
「ルッチ」
幽鬼のように白い頬。高い鼻筋には緩くうねる黒髪が一筋垂れている。薄い唇が酷薄に引き結ばれる。
「……」
男は無言のまま、ベッドに落ちたタオルを拾い上げ、カクの傷口をぐるぐると覆った。
「お優しいことじゃ」
からかうようにカクが言う。
「仕事に支障をきたされては困るからな」
ルッチは冷たく流し、足元に蹴り飛ばされていたブランケットを引きずり上げ、二人をくるむ。
裸の二人は互いの熱と肌を交わして抱き合う。
太ももの辺りにルッチの性器や毛のこそばゆさを感じても、色めかしい感情は生まれない。先ほどまで膝元で丸くなっていた大きいだけの猫のような彼の姿を見ていたからだろうか。
「おやすみ」
こんな日もいいだろう、と頷いてルッチの胸元に顔を埋める。
胸の奥底を覗き込めば、きっと彼の中にも自分の中にも様々な感情と、様々な理屈が渦巻いていることだろう。でも、二人がそれをすることはない。感じたことが全てで、思ったことが全てだ。
眠い、温かい、いい匂い、好き。
それで全部だ。
眠い、温かい、柔らかい、好き。
それがルッチの全部ならいい。

「おやすみ」
「おやすみ」

このベッドの上が世界の全部ならいいのに。



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