#71 Tempest



キッドの寝息は静かだ。

目付きは悪いし、眉はないし、三白眼だし、厳ついし、どう見ても柄の悪いヤンキーにしか思えないのに、起きているときからは想像つかないほどキッドは静かに眠るのだ。寝相は悪くないし歯軋りもしないしイビキもかかない。本当に静かで、大人しくて、死んだように眠る。

時刻は八時十七分、天気は薄曇り、気温は最高九度―――特別なものは何もない平凡な休日だ。
まだ寝ていてもいいのだが、目が覚めてしまった。暖房は快適な温度を保ち続け、室内は幸せが充満している。このまま布団の中でずっとだらだらとしていたい気分だった。
ローはそっと寝返りをうった。ぴくりともせず眠る人の隣で、寝返りをうったり物音をたてるのはひどく嫌だったが、目覚めたからには身動ぎしたくてたまらなかった。
慎重に、静かに体を返し、時間をかけてキッドの方に体を向けた。
はっ、と妙な達成感を込めて満足げな息をつく。相変わらずキッドはぴくりとも動かず眠っているが、耳をそばだてるとかすかに寝息が聴こえた。厚い筋肉でできた白い胸板もわずかに上下している。ちゃんと生きている。
いつもはワックスで固められ尖らされた髪も大人しく、鋭い眼光もまぶたの中に押し込められ、眦に濃い影を落としている。「子どもは眠っている時がいちばん美しい」と言ったのは誰だったか。確かにそうだ。図体ばかりでかくなったガキのようなこいつも、眠っているときだけは美しく愛らしい。

じっ、とキッドの眠る横顔を見つめていたローは、その横顔の向こうに金色の小さな筒を見つけた。サイドデスクのスタンドの下に置かれたそれに、ローは青い墨の入った腕を伸ばした。
手にしたそれは親指ほどの金色の円筒で、流水のようなラインが入っている。蓋を開ければ見慣れた赤色が見えた。
筒を回して繰り出せば、男をたぶらかす娼婦色が薄明るい部屋にぬらりと光った。こうやって手元でしげしげと見つめれば、ただ艶のあるクレヨンにしか見えないのに、唇に乗った途端色めかしく見えるのだから、化粧品はある種の魔法なのかもしれない。

ローはしばらく口紅を目の前にかざし観察していたが、すぐに飽きてしまった。元の場所に戻そうと仰向けに眠るキッドの向こうに手を伸ばした。だが、ふと目に入ったキッドの白い胸板を見て、思い付いたように手を止めた。
口紅の蓋を取り、鎖骨の下に口紅の先端を押し付けた。ローは薄く笑い、そのままぐりぐりと口紅を引き回す。
赤いラインで描かれたのは、幼稚園児が画用紙に書きなぐったような児戯くさいチューリップだ。
それを書き終えると、ローはそっとシーツを捲った。手に入れた新しいクレヨンと白い画用紙が気に入ったようで、今度はキッドの腹にライオンらしきものを描いている。チューリップ、ライオン、太陽、棒人間―――どれも幼稚園児レベルの作品がキッドの体に次々と書き込まれていった。

「……おい」

もそりとローのキャンパスが動いた。
ローがキッドの腹から目線を上げると、眠そうにゆっくりと瞬く寝起きのキッドと目が合った。
「……それ、高いんだぞ」
まだ覚醒しきっていないキッドは、自分の腹と口紅の惨状をぼんやりと見て、子供のように唇を尖らせる。
「……もったいねー」
キッドが掠れた声で言うと、ローはいたずらっ子のようにニヤリと笑った。笑んだ形のままの唇がキッドの汚れた腹を擦る。寝起きの乾いた唇が、赤い脂でできたライオンをぐちゃりと潰す。
顔を上げたローの唇は、口端まで艶かしく汚れていた。
「ん」
寄せられた唇をキッドは大人しく受け入れた。朝に似つかわしく控えめなリップ音をたて、何度も変えられる角度に応えながら、甘えるようにローの首に手を回す。
ローの五指がキッドの右胸から腹までなぞり落ちる。右胸のチューリップが書き消され、五本の赤いラインが白い腹に引かれた。
ゆっくりと唇を離せば、やっと眠気の取れた光の灯る目と目が合う。キッドの唇はもちろん、頬にも顎にも、鼻先にも唇の跡がくっきりとついていた。ローが紅のよれた顔で意地悪く口端をつり上げた。「よ、色男」

「……色、足んないんぜ」
「もっかい塗っとく?」

真っ赤に汚れたその指でローは自身の唇に色をつけ足して笑った。休日の朝には申し訳ないくらい毒々しい色だった。
キッドは返事の代わりに、ローを引き寄せ、その鼻先に唇を押し付けた。


「念入りにな、いろおとこ」





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -