「俺の生まれた国には雪は降らなかった」

唐突に男はそう言った。
狭い部屋の隅に畏まる、四つ足のレトロな箱形テレビをザッピングしていた男は、テレビの画面をチャンネルで指している。見ると、ざらついた粗い画面の中には、雪山の景色をしずしずと流し続ける旅番組が映っていた。
つまらない会議が終わり、自船に足を向けていた俺を男が連れ去って一刻ばかり過ぎただろうか。
男が俺を連れ込んだ家は、砂漠の我が家のトイレ程度の広さしかない一軒家だった。壁の塗装はぼろぼろ、蔦が這い、ドアは薄錆びている。中も外とかわらずおんぼろで、何より小汚ないことが気にくわなかった。台所には洗い物が溜まり、テーブルの上は酒瓶だらけ、床には脱ぎ散らかした服が落ちている。
男の寝室だけは何とか人間性を保たれていた。狭い部屋にあるのはベッドとソファーとテレビと、使えるか怪しい古いジュークボックスのみ。壁には映画のポスターとピンナップガールが微笑むコーラのポスター、それからダーツの的。
俺はポテトチップスのクズが散らばるソファーは避け、スプリングのいかれたベッドに腰かけていた。不潔そうなので布団とシーツは砂にした。カーテンを引きちぎり敷こうかと思ったが、ヤニで黄色く変色していたのでそれも砂にかえた。

金はあるくせに、男はわざとこういった部屋に好んで住む。高級ホテルのスイートで暮らしていたかと思うと、ふと、こうしてあちこちに所有するおんぼろの家に暮らしたりしているのだ。

「海に出る前は雪なんて見たことなかったぜ」
「………………ああそうかよ」

俺は返事を返す気はなかったのだが、返事を返してもらえない頭のおかしな鳥野郎が不憫に思え、おざなりにでも返事をしてやった。
「雪が降るような地の家なしどもはたいへんだろうなぁ」
せっかく返事を返してやったというのに、男は感謝の意すら見せない。瓶ビールに直接口づけテレビに向かい話しを続ける。
「俺の国は年中暖かかった。路上で寝ても寒くねぇから屋根も壁もいらねぇ。ボロ切れのような毛布を探す必要もねぇ。夏は人を殺せそうなくらい暑いが、日陰はどこにでもあるし、公園にでも行って水飲んどけば死ぬことはなかった。食い物の足も早いから、飯屋なんかはちょっと傷めばすぐ食い物を捨てちまう。ストリートチルドレンの鉄の胃袋にはちょっとの傷みなんかどうってことねぇから、食い物に困ることもなかった」
男は長い舌を絡ませることもなく、ペラペラと喋り続ける。
「それに比べ、雪が降るような国は路上暮らしには辛そうだな。迂闊に眠ればあの世へのフライトが早々に始まるんだろ?寒さを凌げる壁と屋根を探し、汚泥のような毛布で命を繋がなきゃならねぇ。水も凍っちまうだろうから、水分補給もままならず、骨も砕けるような寒さの中、やっとみつけた氷を口に含むんだろう。食い物もなかなか傷まないだろうし、何より長い冬に備えて、日持ちして無駄な残飯の出ない保存食が発達して、外に捨てられる食い物はほとんどないんじゃねぇか?」
思い出したように瓶ビールに口をつけ、男は喉を潤す。飲み干してしまったのか、空いた酒瓶がゴロゴロとソファーの下を通って転がってきた。
「死んでるみてぇにつまらねぇ国だったが、息してるだけで満足なら路上暮らしには都合のいい地だったな。……ああ、でもやはり雪はいい。汚ねぇもんも醜いもんもきれいなもんも、雪は平等に覆っちまう。あの国は汚かった。何もかもがむき出しだった。雪はいい。何もかも、全部、真っ白に、覆ってくれる―――」
俺は我慢ならず、腰かけていたボロかすのようなベッドを砂にした。
床に転がっていた酒瓶も磨きあげられた革靴の底で砂にかえす。
壁のポスターもダーツも指先でざらりと砂となし、床に砂山をつくった。
男が手にしていたチャンネルも人差し指と親指でつまみ、男の手の中に砂を掴ませる。
俺はテレビの横に立ち、膝程度の高さしかない奥行きのある小さな箱形テレビに右手を置いた。
「行くぞ」
男は、俺が部屋の中を砂まみれにするなか、ただ黙っていつものスマイルでテレビの中の雪景色をみていた。膝に肘を置き、でかい図体を丸めた姿勢で黙って笑っている。チャンネルはすでにないのに、手はまだチャンネルを握っているかのようにテレビに向けている。その指の隙間からさらさらと砂が溢れていた。
「雪景色を見に行くぞ」
なぞった壁の部分から、じわじわと壁が溶け出した。渇きの右手がこの空間の時間を吸い尽くす。
「過去を語るてめぇに興味はない―――時代を作るならそんなものは置いていけ」
壁も屋根も、音もなく風化する。狭い屋根も壁も消え、空までなんの遮りもない。
上方も四方も遮りをなくした世界で、草の疎らに生えた地面の上、薄汚いソファーに座った男が笑う。青空の下、箱形テレビの画面が切り離されたように違う世界を伝える。
その箱も、渇きの右手が時間を吸い上げる。何十年も何百年も一時に吸われたテレビは、雪景色を砂嵐にかえて崩れ落ちた。箱を支えた四つ足も、箱から延びていた色とりどりのケーブルも何一つ残らない。

「雪に全てを覆わせろ。何もかもを白く塗り潰せ―――黒い過去はキャンバスには不向きだぜ?」


Paint it white.
(白く塗れ!)



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