とある民族学者の私的な手記



誰もが頭を垂れていた―――


長い楕円のテーブルを囲う数人の男たちは、誰もが机上に肘をつき、組んだ指を額に押し当て祈りを捧げている。目をつむり、口を閉じ、生あるものの気配を殺す。吐息を漏らすことすら憚られるような、厳かで、清櫃な教会のごとき空気が満ちていた。
だがここは黒服のシスターも、しなやかな白い乙女の腕もない暗い船室。体躯のよい、屈強な男どもが詰め込まれた海賊船だ。ギィ、ギィと軋む声がここは海上であることを物語っている。

「血肉にあらず」

戸より一番遠い席、つまり一等上座に位置する男が口を開いた。真っ赤な髪を掻き上げた、災禍と戦闘の申し子―――ユースタス・キッドが赤い唇で空気を震わせる。

「屍肉にあらず」

彼も皆と同様、テーブルに肘をつき、両の指を組み、額に両手を押し当てて目を閉じている。長い睫毛に静寂が積もり、赤い唇が清謐を深める。陶器のように白く、掘りの深い顔立ちは、いつもの凶悪さは鳴りを潜め、聖職者の気高さをその横顔に持っていた。
祈りは続く。
血肉にあらず屍肉にあらず―――

「口にて魂を受く、胃にて力を受く」





私はあの島で彼と出会うずっと前から彼の(彼らの)ことを知っていた。
その出会いは、数多の論文がひしめく分厚い学術書の中で起こった。論題は『カニバル(食人)による祭祀と葬送について』。何度も何度も読み返したため、論文の中身についても一字一句正確に思いおこせた。
とある島の小さな部族の慣習について記された薄いレポート。そのほんの数ページ足らずの論文が語るのは、‘食人’―――人が人を喰うという行為についてだ。
彼らは、近年みられるような精神異常によるカニバルではなく、祭祀の一貫として死者の肉を食らう。狂気的なものでも、野蛮な行為でもなく、食人は祀り事としてその一族の中で執り行われた。
食されるのは一族の中の死者全てではない。食らうのは生前‘勇者’であった者のみに限られる。その一族が‘勇者’という言葉を自ら使ったことはないが、研究の便宜上、選ばれ食される死者を‘勇者’と呼ぶこととする。
勇者とは、戦いに優れていた者、狩に優れていた者、勇敢であった者を言う。太古より狩猟部族であった彼らは、生きるため、動きの俊敏な草食獣から凶暴な肉食獣まで大小様々な野生動物と渡り歩いてきた。中世以降はその狩猟能力や戦闘センスを買われ、戦場へと彼らの生活基盤は移った。近代、その国の情勢が安定するまで、彼らは傭兵として各地の戦場で求められ、また恐れられた。彼らは生粋の戦闘民族といえるだろう。
彼らがカニバルを行う理由も、彼らの戦闘民族としての血にある。勇者と呼ぶに値する、勇敢な者、強き者が死んだとき、彼らは勇者に力の分配を求める。勇者のその勇敢な魂を、強靭な肉体を我が身に受けるため、彼らはその肉を食らうのだ。勇者の血肉から、大いなる力を得ようと。
唯一絶対のアッラーでもHe(神)でも神の子でもなく、八百万の神々でも自然でも精霊でも大地でもなく、ただ人に宿るPower(力)のみを信じ、讃え、祈る彼らにとって、力とは指標であり価値であり全てであった。
前述のとおり、「勇者から力を得る」という理由から、彼らは一族の死者全てを食らうわけではない。この理屈から、彼らは一族以外の死者でも、強き勇者であればその肉を食らった。
力が唯一の価値なのだから、それが殺した敵であろうと、勇敢で戦闘の上手の者ならば、勇者として称えるにふさわしいと彼らは考える。勇者と認めたならば彼らはその骸を丁重に扱い、勇者への‘敬意’の証として、また一族の、己の力の糧として死者を食らった。
そう、彼らにとって、食人行為とは勇者に対する最大の敬意なのである。死して後、その肉を求める―――それは死者を勇者と認めた証である。戦闘を生業とする彼らにとって、強者であること、強者と認められることは最大の誇りとなる。誇り高く生き、誇り高く死んだ者に、最後にして最大の誉を与える行為と、彼らはカニバルをそう考えていた。

彼らの力の絶対視は、勇者への尊敬・力への敬意を生む一方、力なきものへの残酷さも孕んでいた。特に、戦場で、敵前で見せる弱さを嫌い、命乞いや逃亡を行う者へは容赦せず、ひと度彼らが戦闘を始めれば、敵は一人たりとも残さない徹底的な殺戮が行われた。それは敵味方関係なく、誰にでも勇者たることを求めるため、味方が手傷を負ったり弱気を見せれば、彼らはすぐさまその味方を切り捨てる。
この力への徹底的な意志が、彼らの家を彼らの絞首刑台としたことは言うまでもない。
傭兵として戦士として、彼らは申し分ない存在だが、味方殺しや草の根すら残さない殺戮を行う彼らを御すことは不可能に近い。


私がこの広い海で彼に、彼らに出会えたのは、奇跡に近い偶然だろう。ごうごうと渦巻く炎のような危険な印象の彼は、夢と暴力が詰まった海でも一等鮮烈な色をもって私に刻まれた。
端的に言えば、私は彼に一目惚れしたのだろう。

薄暗い酒場でテーブルを囲む、見るからに凶悪な男たち。
店のウエイターではなく、給士役の船員が各個の前に置かれたワイングラスに、ラベルのないワインを注ぎ分けていく。
仄かにきこえる生臭さ。
敵を薙ぐ彼らの腕が形つくる祈り。
祈り。
祈りの言葉が。

客観的に見れば一目惚れなど愛らしい響きとはかけ離れた、学者の変質的な執着だったかもしれない。だが、私の胸は仔鳩のように切なく震えていた。あの気持ちは恋と言う他ないはずだ。紙の上でしか知らない彼らの祈りの風景を、偶然にも目の前にした私の心を知れば、誰もが恋と断ずるはずだ。

彼らの船の幹部数名は、彼も含めその一族の出身である。
彼らの一族を示す言葉はない。彼らは自分たちを示す言葉をもたなかった。どこかの学者がつけた記号のような部族名はあるかも知れないが、そんなものに価値はない。彼の一族を汚さぬためにも、彼らに名がないのならそれは呼ぶべきではないだろう。
その一族は、今や彼ら数人しか残っていない。小さな国の小さな戦闘民族は、前述のとおり、情勢の安定する近代、危険視され、野蛮視され、文明に飲まれ消えてしまった。彼らの故郷はすでに島にはなく、同じ一族の者がわずかに乗る彼らの船が彼らの故郷となった。おそらく彼の一族は彼らでしまいとなるだろう。勇者と力に祈るこの慣習もこの時代で最後になるはずだ。

私は、いまここで両の腕を絶たれも、絶たれた腕の断面でもって文字を記し続けるだろう。

一族の長であり、この海賊船の船長である彼が、気まぐれに祭祀への参加を許可してくれる幸運はもうないかもしれないのだから。

(血肉にあらず)
(屍肉にあらず)
(口にて魂を受く)
(胃にて力を受く)

低く重い響きでもって、船員たちが祈りの言葉を復唱する。祈りのために組まれた指に浮く、間接の白さの尊さを知る。
「―――」
一等上座に座する彼が、その唇を薄く開いた。
彼の一挙一投足、まつ毛の震え、空気の洩れすら逃さぬように見据えていなければ、彼の言葉とは気づかないほどの静かさで、吐息のような祈りが零れた。



「     」



私は、ひきつるように息をとめた。
「    」―――いま、異国の響きをもった祈りの言葉が机上の勇者に捧げられた。
なんということだ!
「    」!
「    」!
「    」!!
私はこの音を書き記す文字を持たない。耳の奥ではこの神秘の響きを何度となく繰り返せるというのに、私はこれを書き記す術を持たない。
彼の一族が、古代から捧げてきた祈りの言葉。それは、お仕着せの言葉にはない魂の、真実の祈り。
私は、二重の意味で絶望していた。
私の体験を、真実を書き留められない事実に、また、彼らの真の祈りを私が独り占めできたことに多少の喜びを感じている自分がいる事実に、だ。この神秘的体験を伝えられないということを嬉しく思うなど、私はおそらくこの記述を最後に、研究者としてしまいとなるだろう。

(     )

船員による祈りの復唱も為された。
私は息を詰めた。これより彼らの葬送が始まるのだ。

海の男らしからぬ真っ白な手が、机上の勇者に差しのべられる。鈍く光る銀食器の上には、今や拳大となった勇者がいた。かつては力強く拍動し、魂のありかであった勇者の一部だ。血の滴るそれを、白魚のような指が掬い上げる。
指先は血より鮮やかに塗られていた。その指を、青い静脈が透ける手の甲を、しなやかな筋肉を伝い、肘の先からパタパタと机に血が散る。
じゅぶり、と水気の多い音をたて、赤い唇の隙間から覗いた鋭い歯が肉に突き刺さる。一際滴る血は、音をたてて吸い上げても、後から後から溢れ、彼の首筋を伝って裸の胸を赤く染めた。
一族の長たる彼に倣い、一族の者も銀の皿に手を伸ばす。彼らの皿には、スープのように皿に血が満ち、暗灰色の欠片が沈んでいた。皿を傾け、彼らはそれを飲み干していく。

全ての皿が空になり、テーブルに上に戻ると、何の合図もなしに、一様に祈りのために指が組まれた。
ユースタス・キッドの血みどろの指も祈りために固く組まれ、真白い額に押し当てられる。祈りの拳から額へ血が垂れ、分水嶺のように高い鼻梁に沿って流れ、テーブルに新たな染みを作った。

「さぁ、気狂い共」

彼が口を開く。祈る両腕の隙間から、真っ赤に染まった口許が、キリキリとつり上がるっているのが見えた。

「そろそろ出ようか」

耳をすませば、みしりみしり、ぎしりぎしり、と船室の軋む音の隙間から、戦いの雄叫びが微かに届いた。
「我々に力を授けた戦士に恥を掻かすな」

彼が立ち上がると、長い金髪の男と、縫い傷だらけのアンデットのような男がすぐさま彼の背に回り、椅子に掛かっていたコートを両サイドから彼の肩に掛けた。

「弱き者は殺せ、強き者は食らえ」

テーブルを囲んでいた男たちがぞろぞろと立ち上がる。そうして、誰もが血に汚れた拳を鳩尾に当て、彼らの長の最後の言葉を待った。


「胃袋に恥じぬ戦いを!」
(胃袋に恥じぬ戦いを!)


私は一人になった暗い船室で、‘彼’の残り香を妬んだ。‘彼’が羨ましくてならなかった。
‘彼’は、強く勇ましかったのだろう。彼と拳を切っ先を命を交え、彼を満足させ、力を認められたのだろう。この男の力がほしいと、彼に、彼らに熱望されたのだ。戦いの果てに死した‘彼’は、彼らの清い祈りを供され、魂の言葉を捧げられた。
赤い唇に食まれる肉、厚い舌に這われる脳、豊かな胸板を汚す血、白い腕に祈られる魂―――私の脳裡は、葬送のカニバルを行う彼の姿で満ちていた。

―――私は‘彼’がひどく羨ましくてならなかった。




(T・ロー著『手記』より「第三章 力への意志」 P43L2〜P61L7)


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