「B棟裏でケンカだってよ」 昼休みも半分過ぎた頃、キラーと窓際でだらだらと喋っていたキッドの耳に、そんな声が聴こえてきた。 「誰と誰?」 「三年のゴリ顔と二組のベラミーだって」 「はぁ?ゴリ顔って、あの図体デケェ奴だろ?あいつ相当ケンカ強いって話じゃん。二組のそいつなにしてんの?」 「さぁ?絡まれたんじゃね?」 「とりあえず見に行くか」 「あー、俺パス。次当たの」 「おい、はやく行こうぜ」 にわかに教室がざわつき、そこかしこで好奇心に染まった声が上がる。 「おもしれー、あのヘタレベラミーがケンカだってよ。行こうぜ、キラー」 クラスメイトが何人か教室が出るのを見届け、キッドは隣の友人を振り返った。 「野次馬なんてみっともないぞ、キッド」 「野次馬じゃねぇよ。参加すんだよ」 落ち着いた声でたしなめられたキッドは、悪ガキのように笑ってみせる。 「どさくさに紛れてベラミーぼこぼこにできんだぜ?」 悪ガキよりもさらにたちの悪い笑みを浮かべるキッドに、キラーはため息をついた。 「病院送りにはするなよ」 面倒だから―――と、大人ぶっていてもそんなに性格はよろしくない、という事実をキラーが垣間見せる。 「病院送りにしたら毎日見舞い行けんのに。……前みたいに」 けらけらと愉しそうにそう呟き、教室を出るキッドの背を見送りながら、キラーは呆れたように呟いた。 「お前に気に入られたのがあいつの運の尽きだな」 全身傷だらけで、顔を自らの血で汚したふらふらの男の腹に、突き破るような強烈なブローが決まった。 男が低く呻き、堪らず前のめりになるその上体はさらに膝で蹴り上げられ、仰け反った顔にだめ押しの渾身のストレートが叩き込まれた。 (あーあ) 周囲から上がる歓声と野次。ほぼ一方的に叩きのめされた男が地面に崩れ落ちた。 キッドはその様を、盛り上がる周囲に反し、一人冷静に眺めていた。 「一方的すぎて混じる気にもなんねぇよ。弱ぇくせになにやってんだか」 ポケットに手を突っ込み、校舎の壁に背を預けていたキッドは、「よっ」と一言背を伸ばすと、ダラダラとギャラリーの輪に分け入った。 「そこまでだ」 人垣の中にできた空白地帯。その中で、いままさに草臥れたボールのように倒れた男が蹴り上げられようとしていた。 「あん?……てめぇ、2年のユースタス」 その真っ白な地帯にキッドが踏み込むと、円の真ん中に立ち、足を振り上げていた大柄な男がこちらを振り返った。 地面に転がる男とは正反対に、その男には傷も汚れもない。背はキッドよりも一回りでかく、顔も厳ついため纏う学ランが嘘くさくてならない。 「それはおれのだ。それ以上の勝手はやめな」 男の足元に倒れ伏すぼろぼろの男を顎でしゃくり、キッドは冷たい声で言う。 「3秒で消えるなら逃がしてやるよゴリラ野郎」 「……ああ?」 相手の額に太い青筋が浮かんだ。 「消えない、もしくは向かってくるなら―――」 「てめぇ、2年がデカイ顔してんじゃねぇぞ」 キッドの声は遮られた。ずしりずしりと近づき、キッドを見下ろす男が、抑えた怒りに震える声で唸る。 「……もし向かってくるなら、てめぇを3秒でツブス」 相手の激昂も冷えた顔で見上げ、キッドはポケットに手を入れた余裕のポーズでビリビリ空気を震わす怒りを受け流す。 「―――おらぁ!」 恫喝とともに相手の左拳が真っ直ぐにキッドへと迫る。 「ふん」 キッドは小馬鹿にするように鼻を鳴らし、相手の左ストレートを交わした。 その交わしざまに合わせ、右拳で正確に相手の顎を掠め、音の速さの拳で頭を揺らし、相手に軽い脳震盪を起こさせる。 そこにさらに、相手の下顎に左アッパーを決め、何が起きているかも理解できないまま崩れ落ちる相手の体勢を利用し、風のような廻し蹴りを顎に叩き込む。 その間わずか3秒に如かず。 完全に意識をなくした大柄な男が音をたてて地面に倒れた。 流れるような速さで行われた動きを、何人のギャラリーが理解できただろうか。 「ケッ、顔がデケェのはてめぇだろが」 白目を剥き、ピクリとも動かない男をキッドが足で小突くと、やっと周囲が動きだす。 「……て、てめぇ、」 「2年のガキが舐めやがって」 「ただですむと……」 ギャラリーの一部分に不穏な空気が流れる。キッドが倒した男の取り巻きと思われる一団が、じり、じりとにじり寄る。幾人かはポケットに手を入れ、拳を握っている。 (刃物か……メンドイ奴ら) キッドは肩を竦め、そちらに体を向けた。面倒だが片端から地面に沈めるしかないようだ。キッドが観念し、足を一歩踏み出したそのとき――― 「おい、センコーが来たぞ!逃げろ!」 張りつめた空気をぶち破るように上がった焦り声に、周囲のギャラリーも取り巻きも蜘蛛の子を散らすように逃げ惑いだした。「っべー!逃げろ!」 「捕まったら停学だぞ!」 「おい!急げ!」 「逃げろ!」 ぎゃいぎゃいと声を上げ、生徒たちが校舎の影に消えていく。キッドが倒した男も、取り巻き3人がかりで運ばれていった。 キッドはポケットに手を入れ、脇をすり抜け逃げていく生徒の背を静かに見送る。 「さて、と」 回りから人がいなくなると、キッドはB棟2階に向け手を上げてみせた。 「さんきゅ、キラー」 そこには、長い前髪で表情を隠した友人が頬杖ついていた。 キラーはキッドと同じように手を上げてみせると、窓の奥に消えた。 「おい、いつまで寝てんだよ」 校舎裏に残されたキッドと、もう一人。ズタボロになって地面に転がる男をキッドは足で小突く。 「……う、ぐ」 息も絶え絶えに喘ぐ男に、キッドはため息をつき、その汚れた学ランの腕を引っ張りあげてやった。 「弱ぇくせに楯突くんじゃねぇよ、ベラミーちゃん」 「……っせぇ」 まともに立てないベラミーに肩をかし、半ば引きずるようにキッドが校舎に向かい歩き出す。 「んだよ、おれが来なきゃてめぇ今ごろその鼻平らになってたんだぜ?」 「うっせぇ……」 「自分の身の程くらい知りな」 「……知るかよっ」 「礼の一つくらい言えねぇのか」 「……」 「……なんであのゴリラとケンカしたんだよ」 「……」 「無視か」 黙りこむベラミーに、こいつ捨ててやろうか―――とキッドが考えていると、肩口のベラミーから消えそうな声が聴こえた。 「……てめぇを倒すのはおれだ……」 「あ?」 キッドが不審げに足を止めた。 「……あのクソゴリラ……2年のユースタスなんて余裕で潰せる、なんて言いやがるから……」 「……」 「あのデカ面にてめぇ倒せるわけねぇ。てめぇ倒すのはおれに決まってんのに、クソ……」 「……」 キッドは思わず、片目は腫れ上がり、鼻からも額からもだらだらと血を流すベラミーの汚れた顔を覗き込んだ。 「ざまぁねぇぜ、あいつ3秒で白目剥きやがった。やっぱりてめぇに敵うわけねぇ」 ハッハッ、とベラミーが犬のように力なく笑う。 「ベラミー」 「……あ?―――ぬぁ!」 ベラミーが顔を上げると、生暖かく湿ったものが唇の下から鼻の先まで這い上がった。 「て、てめ、なにす―――うわ!」 ベラミーの顔を這った真っ赤な舌が赤い口腔に収まったかと思うと、また鼻先に唇が近寄り、鼻の下を舐め、鼻の穴まで舌先が潜り込む。 「や、やめろっ!」 ベラミーは最後の力を振り絞り、鼻を舐め回るキッドの顔を押し退けた。 「いきなり何しやがる!」 真っ赤な顔で舐められた鼻を抑え、キッドを睨み付ける。キッドは血でさらに赤くなった舌で唇を一舐めし、ケロリとした顔で首を傾げた。 「てめぇがバカかわいくて、つい」 「バ、バカ?!」 そ、バカ―――ベラミーの鼻血で赤く染まった口許を袖で拭う。白い頬に薄く血が伸び、悪魔のように笑う。 「弱くてバカでかわいくて好き」 キッドがまたベラミーに唇を寄せる。 「うわ、ばか、やめっ」 ベラミーは真っ赤になって抵抗するが、足元の覚束ないベラミーはキッドの肩から離れられず、濡れた唇を顔中で受けとめる。 「なぁ、とっとと保健室行こうぜ」 ベラミーが抵抗する力も失せ、ぐたりとキッドにされるがままになる頃、キッドが唇を離し言う。 「な、何する気だよ!」 キッドの言葉に、ベラミーがにわかに慌てふためき、目に動揺を浮かべた。 「あ?何考えてんだよ。手当だろ」 「……」 キッドが冷静に言うと、ベラミーが後ろめたそうに唇を噛んだ。 「……はーん、ベラミーくん何考えたか言ってみな」 にやにやとキッドが意地悪く笑う。 「な、にも考えてねぇよ……」 「『ここ、こんなに腫らしてカワイソウに!先生が舐めて治してアゲルわ』っつぅ感じのお前が昨日見たAVみたいなこと考えたんじゃねぇの?」 「み、見てねぇ!考えてねぇ!」 「あっそ、残念―――」 ―――先生のキモチイイお注射欲しかったンだけど。 「―――!」 ベラミーの耳に生暖かい吐息とともに熱っぽい声が吹き込まれた。ベラミーが音をたてて固まる。 くすくすくす 遠くから、始業を告げる煩わしい鐘の音が聞こえる。そこに、揶揄するような含み笑いもこっそり混じる。 ―――ジョーダン 笑みを含んだ真っ赤な唇が、傷だらけのベラミーの頬に血生臭いキスマークを一つだけ残す。 固まったまま動かないベラミーの腕を肩に回し、体格のいい男を一人楽々と引きずりながらキッドは愉しげに笑う。 始業のチャイムはとうに息を潜めた。これから一時間は二人の時間というわけだ。 |