桜の花が舞う舞う舞う。 雲が千切れ飛ぶ飛ぶ飛ぶ。 頭上に蓮華の花開く、薄絹の天女が宙を舞い、羅沙の衣を翻す。 桜の花が風に散り、天女と共に目の前を過る。 「呑め!然らずんば去れ!」 朱色の柱で組まれた櫓の、そのいちばん高くで、真っ赤な髪を靡かせた男が豪快に笑った。 真っ白な肌に真っ赤な紅をはいた男は、真っ赤な布地に薄紅の桜が所狭しと描かれ、金糸銀糸に彩られた派手な打ち掛けを肩に掛け、顔より広い朱塗りの盃に、なみなみと注がれた酒を煽っていた。 線のような目鼻の、のっぺりとした薄い顔の天女たちが、紅をさした唇を綻ばせ、三人がかりで巨大な徳利を傾け、男の空けた杯にまた酒を足し、歌うように言葉を紡ぐ。 さやさやさやさや ―――花も夢みる酔狂さ、夢も花咲く今上さ ―――砂上の楼閣沈まぬうちに ―――隈なき月の無粋知らず ―――筋を通して理非なきを ―――踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆を足蹴に笑う さらさらさらさら 「呑め!然らずんば去れ!それがここの掟の全て!」 男が盃かかげ笑う。 天女が琵琶をかき鳴らし、笛を吹き、鼓を打つ。終わることない酒宴が盛る。 鼻先に両掌に納まらない盃が突きつけられた。数人の天女が囲い、その面のような顔で酒を勧めてくる。 「極楽だけが浄土にあらず。西方東方浄土は四方(よも)に。道に迷えど果ては浄土だ、ただ迷え」 鼻先に華やかな酒の香がふわりと漂う。漆塗りの盃に透明な酒が楽土を映して揺れていた。 「……いらん」 はぁ! 辺りが一斉に息を飲み、シンと静まった。男も笑顔のままカチリと固まり、一息の後笑みを崩し目を剥いた。回りの天女たちは袖で口許を隠し、互いにひそひそと語り合う。 「いらん、だと?」 男の笑みに隠されていた瞳は、真っ赤であった。 「いらん、俺は帰る」 男はさらに目を丸くし、信じ難いと首を傾げる。 「なぜだ、なぜ帰る?ここは楽しく美しく、苦は何一つもないというのに」 「愉しくねぇからだ」 「酒は芳醇、女は天女、楽は天地を鳴動させる、天気晴朗なれど山波高いこの国が楽しくないのか?」 突き抜けるような青空は、魚眼のように歪曲し、遠く近くを雲が飛ぶ。玉鉾の道は遥かに通じ、玉を敷いた庭は七色に輝く。瑠璃色の池は金の蓮華がいくつも花咲き、黒がねの門は厳格に座す。あちらは桜、こちらは若葉、そちらは紅葉、どちらは雪が降り頻り、おとぎ話のような四季を配した庭が、ここは異界と一目で示す。 「愉しくないね、俺は帰る」 「なぜだ、なぜなぜ、あちらに何があるというだ?ここには何でもあるんだぜ?」 「ねぇよ」 「ないね」 「―――暴力がない、殺戮がない、略奪がない、強奪がない、計略がない、策略がない、暴動がない、生死がない、緊迫がない、裏切がない、過去がない、未来がない」 まぁ! 天女が恐ろしげに顔を覆い、息をのんだ。袖で隠し、怖々と横目でこちらを窺い見ている。墨で描いたような弓なりの眉が悩ましげにひそめられる。 男が座した朱塗りの楼閣が、ずしりと音もなく一段下がる。一段男が近くなる。一段近づいた男の肌は嘘のように白かった。 白とは、白という色があるのではないという。色がないから白なのだ。空間の空白―――それこそ白という色の本質。 「それじゃあ」 あちらには何がある?―――男が砂上の楼閣から身を乗り出して、興味深げに下界を覗く。 「海(ロマン)がある」 グニリと景色がたわむ。正面の天女の顔が、山折り谷折りグニリと曲がる。纏う着物も真砂を浚う波打つ模様に早変わり。男の座す楼閣の上まで、景色が折れて階段をつくった。歪んだ天女の衣と顔を踏み、男の元まで一段飛ばしで駆け上がる。 はしり 男の手を取ると、手のひらから盃が零れ落ち、天に輝く酒の天の川となる。 間近で見た男の肌は白かった。髪と瞳の色以外、男は色を持たない。覗きこんだ瞳は紅玉のようだった。 回りできゃあきゃあと悲鳴を上げて逃げ惑う天女たちの、頭上に咲いた蓮華の花がしおしおと枯れていく。衣服に塵がつき、衣の外に盛れるほど光輝いていた玉の肌も曇り始めた。 「五衰だ―――」 視線を反らし男がハッと呟いた。至上の快楽(けらく)を受ける天人たちに死が迫る。 男の手を引いて、折れた景色の階段を駆けおりた。男が肩に掛けていた打ち掛けが滑り落ちた。拍子に、着物に縫い取られた桜の花弁が風に流れた。 星が落ち、青空が剥げ、雲が澱む。花吹雪はいまや花嵐、萎れた花びらがびょおびょおと吹きすさぶ。崩れ出す景色をかわし、男の手を引いて走る。青空にぽかりと口を開けた白い裂目を目指す。白とは、空白だ。 ―――…… 「船長!どこから出てきたんです?」 転がるように空白を抜ければ、そこには見知った顔がいくつも見えた。 「急に飛び出してきて、驚きましたよ」 起き上がって回りを見ると、そこは馴れ親しんだ船の甲板だ。ぬるい潮風が顔をなぜる。心地よい日光、潮の香、波の音―――目前は、海だ。 「これはなんだ?」 でかい声に部下の注目が集まる。視線の先には、白い単の男が身を乗り出して海を見ていた。 「広い!広いな!空と雲と動く水!これはなんだ?」 男は上気した顔ではしゃいで手を叩く。子どものような面だ。あれは誰だと声を交わす訝しげな船員に、葡萄酒を持ってこいと声をかけ、男に近づいた。 「それが海だ」 落ちないよう男の兵子帯を掴み、そう教えると男はますます身を乗り出し、船がたてる白波に目を丸くする。 「これが海……では」 男が懐から扇を取りだし、太陽に輝く海の水面を指し示した。水面に反射した光が、男の肌を白く浮わつかせている。 「海には何がある?」 船員が持ってきたグラスに葡萄酒をなみなみと注ぎ男に渡す。男の肌は白い。白とはこの世の色ではない。まずは、浮き世を離れた男の空白を埋めなくては。 「それを今から確かめるのさ」 酒宴の掟を知ってるか? ―――飲め!然らずんば去れ! |