「ベラミー、来い」 気まぐれな猫のように笑う男は、カーテンから透ける朝日に目を細めながら、犬猫でも呼ぶように俺を呼んだ。 「いつまて寝てる気だ。昼になっちまうぞ」 薄い布一枚を隔て日を浴びる男より、白い朝日を浴びる白い肌を見る俺の方がずっと眩しいはずだ。この部屋には白が飽和していた。 男は薄く笑い、薄く柔らかな白いブランケットと白いシーツの隙間を滑らせ、骨のように白い指先だけを覗かせて俺を手招く。白塗れの中に浮かんだ真っ赤な爪先が休日のシルシ。 俺の言うことなど聞いた試しがない王様に、今日もまた俺は負け。 テーブルに並べていた白い皿を置き、ため息をついてみせ、王様が眠るベッドに恭しく歩み寄る。 「なんだよ」 ベッドに腰かけ、転がる男を軽く睨むと、突然目の前が真っ白になりベッドに引き倒された。 「うわっ」 「へへ」 顔を覆う柔らかな白い布切れを剥ぎ取ると、ガキのような顔した男が、人の胸の上に半身をのせて笑っていた。 ムースもワックスもまとわない素の髪が俺のTシャツに散っている。 「おい、何すんだよ」 「何でもねぇよ」 日だまりでノドを鳴らす猫のように幸せそうな顔で胸にぐりぐりと頭を押しつける。退けようと伸ばした手は絡めとられ、指先を包んでみたり指を絡めてみたりとせわしない。かと思えばポイと手を放り、俺の短い髪をすいたり摘まんだり引っ張ったりと遊びだす。 そわそわ、ふわふわ。そんな男の心が、心臓も肋骨も押し退け、この白が飽和した部屋を飛び回ってみえた。 「……なぁ、ベラミー、指輪」 胸に半ば顔を隠し、くすぐったそうに男が笑って言った。 「指輪くれよ、安物でいいから」 白い部屋をとろけさせる甘い声。俺にとっての、死刑宣告――― 「‘結婚指輪’」 俺の顔から音をたてて血の気が引いた。 やっぱり、覚えていた。二人で酒を飲んだ昨日の夜のこと。 「なぁベラミー」 焦っていただけだ。俺には何もなくて、こいつの回りには何でも持った男がごろごろいた。選ばれているのは俺のはずなのに、劣等感と焦燥は募るばかりで。俺は、こいつを繋ぎたかった。 ただそれだけ。醜い感情から何の覚悟もなく吐き出してしまった言葉に、昨晩のこいつは少女のようにはにかんで、年甲斐もなくはしゃいで浮かれていた。酒と自己防衛で昨日のことはよく覚えていないが、これまでにないくらいベッドの上でサービスされた気がする。 昨晩の天国も、結婚の二文字を突きつけられたいま、地に落ちて無価値に汚れていた。 「わっ!」 俺は男を退け、たまらず飛び起きた。 「いきなり何だよ、ベラミー」 ベッドに座り込み、こちらを睨み上げる男を前に、俺は青い顔で口を引き結ぶ。普段は勘が鋭く、小さな隠し事もみつけるくせに、こんなときだけ察しの悪い。 「キ、キッド……!」 「ああ?」 今さら、あれは本気じゃないと言う度胸もなかった。だが、言えずにこのまま結婚という運びになる未来を受けとめる度胸はもっとなかった。 「お、お前の回りには、俺より、ず、ずっといい野郎がいる」 「まぁ、どっちかと言えばお前は最低に近いレベルだな」 「……俺なんか、と、一緒になって、いいことなんて、ない」 「なさそうだな」 「……」 「……何が言いてぇ?」 キッドの目に険悪な雰囲気が混じりだした。 ごくり、息を飲む男がバカみたいに部屋に響く。 「キッド、キッド、……お、俺は―――ブッ!」 大の男に尻餅をつかすほどの勢いで、白い枕が俺の顔面を襲った。 「お前は、いっつもそうだ」 やっと、いつもの勘の戻った男が、そのたくましい腕をフルスイングさせてただの枕を凶器にかえた。 「ハンバーグが食べたいって言ったと思ったら食べたくないって言うし、黒が似合うって言ったと思ったら似合わないって言うし、夏が好きって言ったと思ったらきらいだって言うし、生理前の女かよ」 男は、俺を見ず、床に落ちた枕を引き裂きそうな目で睨む。 「てめぇはバカのくせにいろいろ考えて、よく分かんねぇ理屈つけて逃げてばっか」 俺はまだ、負け犬の目で、キッドが必死にこらえる涙にうろたえるばかり。 「てめぇなんか俺には不釣り合いだよバーカ……んなこと、ずっと前から知ってんだよ」 「キッド、」 「出ていけよ」 「キ、」 「出てけ!どっかで野垂死ね!」 零れ落ちる涙を悔しげに拭う男を前に、ふらふらと立ち上がった俺はおろおろとベッドの前をさ迷うしかなかった。胸元まで上げた手は、所在なく光りの粒子を泳ぐばかり。 「キッド……」 もし俺が、もしも、キザな男なら、この手で泣く恋人の顎をすくい上げ、キスの一つでもするんだろう。俺が情熱的な男なら、この手で強く抱き締めるんだろう。俺が優しい男なら、横に座りこの手で肩を抱いてやるんだろう。俺がもう少し賢い男なら、この手で部屋のドアを開け、俺よりもっといい男が居座る場所を空けてやるんだろう。 何も持たない俺は、どう考えてもこいつにしてやれるこいつを幸せにする術を持たない。何も持たない俺はこいつにしてやれないことばかりが増えていく。 やはり俺には、結婚なんて、他人の人生を背負う覚悟なんて、できなかった。 「……」 何も持たない俺の手は、情けなく震えたまま拳のカタチをとった。息を吸い、ギリと歯をくいしばる。 「……な……」 鈍い音に顔を上げた男は、驚きに目を丸くしている。 「キッド」 「バ、バカ野郎!何やって……、おま、血……!」 ぼたぼたと、殴り付けられた鼻っ柱から垂れた鮮血が床を汚す。 俺がもしキザな男なら、君とお揃いの色だ、なんて言うのだろうか。何も持たないただの俺は、乾いたら掃除が面倒だ、と考えているのだが。 「俺は」 「ちょっと待て、タオル―――」 「結婚なんて、やっぱりできねぇ」 「―――」 ベッドを降りかけていた男はぴたりととまった。俺は構わず言葉を続ける。 「俺は、何も持ってねぇ―――稼ぎもわりぃし、頭もわりぃし学もねぇ、素行もわりぃ、口もわりぃ」 「……」 「てめぇを幸せにできるわけ、ねぇ」 ―――だから、やっぱり結婚なんてできねぇよ。 床に落ちる血の数が、一つ二つと増えていく。 「けどよ」 俺は鼻血を垂らした情けない顔を、精一杯男前に引き締め、男の濡れた瞳を見据えた。 「こんなんでいいなら、もらってくれ」 「……ハッ」 長い沈黙の後、男が小さく笑った。 「あははははっ!」 堰をきったように笑いだした男は、気に入りのブランケットに絡まりながらごろごろとベッドを笑い転げた。 「なんだそりゃ、ベラミー、お前それ、世界一情けないプロポーズだな」 笑いすぎて溜まった涙を弾き、男がぼさぼさになった髪をブランケットから覗かせた。 「う、うるせぇ!いるのかよ?いらねぇのかよ?」 「ハッ!てめぇなんかもらうヤツいねぇだろ!」 男の赤い唇が、意地悪く三日月型につり上がる。この男が、俺なんかよりよっぽど素行も口も性格もわりぃことを思い出した。 「しょーがねーから俺がもらってやるよ」 |