エリ エリ レマ サバクタニ!



その城は広い砂漠の真ん中に建っている。

重厚な城郭と鉄貼りの厚い門に守られたその姿から、戦うことを目的とした城だと分かる。それでも、城主の意向であろうか、華美さはないが建物としての美しさと荘厳さが見て取れる城だ。
砂漠の冷たい砂を越え、その城を目指す影があった。
その影には頭頂にバナナのような奇妙なシルエットが見えるが、どうやら一体の鰐のようだ。
鰐の動きは決して速くはないが、みるみるうちに鰐と城との距離は縮んでいっていた。一歩で数メートルを移動する巨大な鰐であれば当然だ。
やがて鰐は静かさを纏う城の真ん前に、どぉうと音をたてて止まった。

「おかえりなさいませ、ボス」

分厚い門の前には、いつからいたのか坊主頭のスーツの男が腰を折っていた。
「ご苦労ダズ・ボーネス―――変わりないか?」
ダズと呼ばれたボウズの男が軽く下げていた頭を上げると、数歩先にいつの間にか一人の男が立っていた。
男は黒革のブーツで砂を踏みしめ、分厚い毛皮のコートに身を包み音もなくその場に現れた。
「……はっ」
ダズは少々言い澱み、肯定も否定もなく返事した。
巨大な鰐の鼻先を労るように撫でていたコートの男は、不機嫌そうな顔をさらにしかめ先を急かした。
「問題があるなら速やかに報告しろ―――ダズ」
「はい……」
頷きながらも、ダズはまた口ごもる。問題の報告をすることで、どのような事態になるかは想像に難くない。その結果を思うと口が重くなるのは仕方ない。
コートの裾を翻し、城の内部に向かう主の背を追いつつ、ダズは途切れ途切れに、留守を任された己の最後の責務を果たそうとした。しかし、
「実はボス―――」


「誰だ」


ダズの言葉は遮られた。己に留守を任せ、報告を求めたその人に。
城のホールの真ん中で、踵を鳴らし立ち止まった男は、低く唸るように怒気を放っていた。
「ボス……?」
「誰だ―――俺の留守中に城の空気を汚したやつは」
猫の毛のように、男の毛足の長いコートが生き物のように怒りに逆立つ。風もないのにコートの裾ははためき、薄く砂がホールを舞う。
「っ……ボス!」
砂から目鼻を守る両腕の間から、砂を吹き起こす男の背中を必死に探すが、ごぅ、と強く風が唸り砂のカーテンが厚くなる。
目を開けておれず顔を伏せていたダズが面を上げると、広いホールに主の姿はなかった。床にも階段にも手摺にも、飾られた絵画彫刻、果ては見上げるほど高くに吊るされたシャンデリアにも、厚く積もった砂を残して。
「はぁ……」
想像に容易い結果が、まさに想像の通りとなり、ダズは諦めの息を吐き、携帯を取り出した。
「……ポーラ、仕事だ。至急ホールに人を集めろ」
優秀な地獄の電波は、屋敷のメイド長の諦めのため息と、気だるげな了解の声をダズに運んだ。





ユースタス・キッドは目覚めた。
背筋を走る悪寒、妙な胸騒ぎ―――虫の知らせというやつだ。
「おいっ!起きろ!トラファルガー起きろ!」
キッドは隣にある膨らみを揺すり、ベッドの下に散らばる衣服を手早く身につけた。
「起きねぇかトラファルガー!」
「……ん」
何度か激しく揺すると、ようやくシーツの膨らみから青の彫られた浅黒い腕が伸びた。
「っ!おいっ!」
伸びた腕はキッドの襟首に手をかけ、再びまどろみの中にキッドを引きずりこもうとする。
キッドは慌ててその腕を振りほどいた。
「起きろ!とっとと出て行け!」
声と共にキッドの口から小さな炎が吹く。と、ただならぬ様子のキッドに男が薄布の中からやっと顔を出した。
先程まで眠っていたはずなのに目元には濃い隈が影を作り、うろんな瞳は眠気に焦点をぶらしている。男は、寝起きの掠れた声で尋ねた。
「なんだ……ユースタス屋……」
情事のときのように甘く掠れ、囁くような声をキッドは好いていたが、今はそれどころではない。男からシーツを剥ぎ取り、寝惚けた顔に男の下着を叩きつける。
「どうした……?そんなに慌てて」
欠伸を噛み殺しながら尋ねる。男は尋ねてはみたが、慌てなくてはいけないような事柄にも大して興味はなかった。ただ、いつも傲慢に座し、全ての事象に嗔意の火を燃やす美しき怒り王が焦りを滲ませた姿を物珍し気に見ていた。
何か言いたげに動くキッドの口許に視線を這わせていると、波の押し寄せるような音が幽かに聴こえた。
「……」
押し寄せるだけで、一度も引こうとしない波は、少しずつ、少しずつ砂浜を削り、二人の足場を奪っていく。
「あ、」
ようやくキッドが声を発した。
波は恐怖を乗せて迫り来る。二人の足は波に洗われているのに、二人はまだ気づかない。何度か言葉を咀嚼し、ようやくキッドは声を上げた。


「―――兄貴が帰ってきた!」


ぞぞぞぞぞぞぞ―――
キッドの声に覆い被さるように、両開きの扉の隙間から身を震わせて唸る砂の一団が押し寄せた。

「―――!」
「っ!」

砂はキッドの部屋を吹き荒び、壁に飾った絵やカーテンの裾を瞬く間に風化していく。二人は両腕で顔を庇い、必死に息をつめた。
次第、ごうごう、と暴れ回る砂は部屋の中央に渦を巻いて集まりだす。
二人の悪魔は、身を潜め、息を潜め嵐が去るのを待った。しかし、本当の嵐はこの砂嵐が収まった後だと、キッドは焦燥の裏側で感じていた。
砂は少しずつ身を寄せ合い、嵐は次第に収束していく。そしてそれは生き物のように意思を持ち動き、形を作り出した。

「くせぇ」

渦巻く砂の中で、低く冷たい砂漠の夜が唸る。ざらざらと音をたて流れる砂は、形を作り色をつけ、神の似姿をキッドの部屋に浮かべた。

「湿気と腐敗の臭いだ」

砂から生まれた男は、顔を横切る大きな傷を歪め、不快そうに煙を吐いた。
両の手足と1つの頭部は、確かに地上の人間と同じ神の似姿だが、男の片手は欠損し、背には烏の濡れ羽色の立派な羽が生えていた。
「死臭と腐臭が充ちている」
キッドの背に冷やい汗が伝った。
悪魔の象徴である羽も角も、醜いと嫌う兄はそれを体外に出すことをしない。つまり今、兄は悪魔の本性を表にするほど気が荒れているということだ。
「あ、あに」
「穢土(えど)の王―――トラファルガー・ロー」
キッドの声を無視し、空中に浮いた男は、空に腰かけ足を優雅に組み直した。額には隠せない青筋を浮かべながら。
「誰に断って俺の城を汚している?」
名を呼ばれた男は、ようやく裸の上半身をお越し、砂の被った頭を掻いた。
「よぉ、お早いお帰りだなオニイサマ―――楽園へのバカンスは楽しめたか?」

―――ゴォ!

ローがわずかに身を屈めると、その耳元を掠め、砂の刃が三本壁を抉った。
「てめぇの軽口に付き合う気はねぇし、てめぇの苛つくにやけ面をこれ以上見る気もねぇ」
砂の爪を放った右手がさらさらと手の形に吸い戻る。男の抑えられた怒りが、ぶちりと葉巻を噛み千切った。
「やれやれ、オニイサマはお堅いな」
ローが砂粒を払いながら立ち上がると、キッドは思わず手のひらで額を覆った。
(あの馬鹿、兄貴の前で……)
嵐が吹く直前まで裸でベッドに微睡んでいたローは、当然生まれたままの姿でベッドの上に立っていた。
「……」
砂の男は、爛れるほど冷たい目に殺意を散らつかせた。すい、と伸ばされた右手が砂となって床に積もる。
「じゃあな、ユースタス屋―――俺より先に兄貴に首にされんじゃねぇぜ?」
ローはキッドににやりと笑いかけ、羽も疎らな翼を広げ、ガラスが砕け窓枠も歪んだ窓から飛び降りた。
男の後を追うように、三日月型の砂の刃が、残った窓枠を砕き部屋の窓を拡張した。
「―――」
キッドは二次災害である砂埃に目をしばたたせながら、男の残した衣類を窓から放り投げた。親切心でも愛でもなく、男の衣服を残したままでは兄の気に障ることは目に見えているからだ。
下を覗くと、落ちながら履いたのだろう、下着をちゃんと履いた男が、後を追って落ちてくる衣服を受け止めていた。
砂漠に落ちる直前、歪んだ羽を羽ばたかせ、地獄の北方目指し飛んでいった。


「さてキッド―――」


キッドが肩を跳ねさせ、恐る恐る振り返ると、羽をしまった男が布地の裂けたソファーに腰かけ、葉巻を吹かしていた。
「帰る途中、俺は面白いものを見た」
キッドは黙って男の言葉を待つ。じわりと額に冷たい汗が浮かぶ。
「三足の烏だ」
「……地獄の伝書烏だ、珍しくねぇ」
「ああ、そうだな。だがそいつは一枚の紙をくわえていた―――紫炎が縁取る羊皮紙だ」
「'宣誓書'だ、そいつも珍しく、ねぇ」
「ああ、そうだ、だがキッド、そいつからはお前の火の臭いがした。こいつは、珍しいな」
ふぅう、と気だるい息とともに、白煙がキッドの前を流れる。煙りはすぅと集まり、三本足の羽ばたく鳥を象り、それをまた煙りの矢が貫いて霧散した。
「……っ」
「だめだ」
諦観を滲ませたキッドが口を開こうとするが、何かを言うより先に、男が'否'を突きつけた。
「……あ、兄貴には迷惑かけねぇ」
「……臭うんだ」
墓場の臭いだ。雨が降る、据えたカビの臭いと湿った土の臭いが充ちた墓場の臭いだ。
木が朽ち、肉が腐り、虫が涌く臭いがする。

「あの野郎からも、野郎がつくる土くれの兵隊からも」
男が吐く白煙は、ゆらゆらと蛇のようにキッドの体を渦巻く。
「あいつとどんな形であれ、関わることは許さねぇ―――この城も、兵も、お前も」

男は何より湿気を嫌う。砂漠の王は、その身に一滴の雨粒が降りかかることも嫌っていた。
男に言わせれば、トラファルガー・ローは湿気腐る臭いの塊だった。
「あいつの残り香などさせていては―――骨も残さず枯らしてしまいそうだ」
金の瞳がキッドの赤目をぎちりと捉えた。
キッドは息をのみ、居心地悪る気に唇を噛んだ。
「さてキッド、貴様に罰を与えなくてわな」
「!?」
「当然だ、留守中に俺の城に汚れを運んだ罰だ―――城すべてを清め、壊れた部屋を修復してもらおうか」
もちろん、お前だけでだ―――男は立ち上がり、コートの裾を翻しながら付け足した。
「キラー!」
蝶番の弾けとんだ扉に向かっていた男は、ふと立ち止まり、誰かを呼んだ。
「手伝うじゃねぇぞ、これは仕置きだ。お前は廊下をうろついてるツナギの男を外に放り出せ。あれも臭くてかなわねぇ。自分の首を拾おうとして蹴飛ばして延々追いかけ回っている馬鹿な野郎だ。燃やしたって構わん。これ以上城に腐敗臭を満たすな―――」
どこかに向けてそう釘をさした男は、ばさりと音をたて砂と散った。床に積もった砂は、風に吹かれるように廊下に吹き出て消え失せた。

「だ、そうだ」

ぎりぎりと歯を食いしばり、鋭い牙から青い火の粉を散らすキッドの足元の影から、まるで水から顔を出すように鉄仮面の男が顔を出した。
「他の奴等との戦争ならクロコダイルも文句はなかったはずだ。まぁ、今回は運が悪かったな」
そうだ。楽園と地上に退屈しのぎに出掛けたクロコダイルは、あと半年は帰らないと思っていた。半年は城と兵を好きにできると思っていたキッドにとって、あまりに早い兄の帰還は誤算だった。全く運が悪かったと言うしかない。
鉄仮面の男は、また水面に潜るようにキッドの影に消えた。
事がうまく進まぬことに、キッドは子どものように眦を吊り上げ憤怒に身を燃やした。キッドの燃える上がる髪は、光が弾けるような白い炎と化している。

「ちくしょう!」

キッドの怒りのままに、地獄の火山が轟音とともに火柱を上げた。天の床裏を焦がす勢いで火花が吹き上がる。
だが部屋の中では、キッドに蹴り上げられた草臥れた枕が、ぼふりと間抜けな音をたて、砂と弾けただけだった。


(Jesus!)

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