※キッドが食人鬼&ネタ帳の「バラを食う男」とちょっとリンク 「ただいま」 時計の長針が0時を少しだけ通りすぎだ頃、男は夜のにおいを引きずって帰還した。 「おかえり」 ローは読んでいた医学書から顔を上げ、男に一瞥をくれる。 「今日は早かったな。首尾よく食事が済んだのか」 男が家を出るのを見送ってから、2時間程度しか経っていないはずだ。遅いときは明け方に、日の光りから逃げるように戻ってくるときもあるというのに。 「ああ、すぐに好みが見つかった」 今日はついてる―――と、機嫌よく口端を弛く持ち上げる男を見て、ローは反比例のように機嫌悪く顔をしかめた。男の体からする夜のにおいの中から、微かに情事のにおいをかぎとった。 「やったのか」 「うん?―――うん」 部屋の隅の冷蔵庫の前にしゃがみこみ、体を半分突っ込むように中を漁っていた男は、背中で生返事を返した。 ローはむすりと黙り込み、その背中を睨んだ。 ―――14の時、部活の帰り道だった。初めて'あれ'と会ったのは。 田舎故、街灯もない暗い砂利道の途中で、俺は嵐にあった。赤い、嵐だ。 藪の中から赤色が飛び出し、体にドンという衝撃を受けたと思うと、俺は道脇の藁小屋に転がっていた。 弧を描く赤い唇が暗闇に浮いている。 抜けるように白い肌は暗がりで薄く光を放つようだ。 愉しげに微笑んで、艶かしく肩を上下し、欲望のまま腰を揺らす'それ'に俺は見惚れ、そして確りと興奮していた。 藁の乾いたにおいと朝の気配に目を覚ますと、人の胸を枕に寝ていた'それ'ものそのそと起き出した。小屋の隙間から侵入した朝日が首筋をなぞり、光りを飽和した白い肌が幻のようにぼやけていたのを覚えている。 目をしばたかせる俺に、'それ'は藁が絡まり乱れた赤い髪の隙間から微笑みこう言ったのだ。 「好きだ」 冷蔵庫から目当ての瓶ビールを見つけた男は、冷気を逃し続けていた箱にやっと戸をし立ち上がった。 「ん?」 瓶の蓋を素手で開け、炭酸の薄い外国の黒ビールに口づける男は、ローの不機嫌な様子に気づき首をかしげた。 「なにを怒ってる。そいつは食ってしまったんだ。気にするな」 隣に腰掛け、頭を撫でてくる男に、ローは口を尖らせた。 「俺は法律上でも立派な大人になったんだ。いつまでも餓鬼扱いするな。……なぁ、」 「ん」 「なんで俺は食わないんだ?」 6年前から尋ね続ける問い。答えは何度も繰り返され、いつも変わることはない。いや、変わらないことを確かめるために問いを繰り返すのだ。 「お前を愛してるからだよ」 今日も変わらない答え。その答えと同じように6年前から変わらない姿の変わらない男の手首をとり、ソファーにゆっくりと押し倒す。 「……俺も愛してる」 俗世を離れ、奥深い山の中で暮らす隠遁者のような達観した笑みでローを見上げる男をきつく抱擁し、息をつく。 しばらく、男の胸に耳を当て、聴こえない命の鼓動とやたら耳につく深夜の時計の針に耳を傾けた。自分の髪を滑る男の指に甘えつつ、ローは不意にいつもの質問を少し変えてみた。 「なぁ、なんで人など食うのか」 「花を食うよりいいだろう」 不意な質問にも男はすぐに答えた。 「花?」 ローが訝しげに男の顔を覗き見ても、男は至って普通の顔をしている。 「好き好んで食べたいわけではないが、食べねば生きていけねぇからな」 「お前も死ぬのか?」 「さぁ、死んだことねぇから分からん」 「誰だってそうだ。でも俺は死ぬぞ?死ぬことも分かってる」 「やっぱりお前は賢いなぁ―――俺には分からん」 「そうじゃねぇよ、いや、もういい……」「ああ、でもいつか俺が寝るのは分かる」 ローは驚いて目を見開いた。男がこの6年眠っていないことを知っているからだ。 「気がついたら時代がだいぶ流れていることがある―――多分、その間俺は寝てるんだろう」 「気がついたら、って」 「気がついたら、だ。だから多分俺は、不定期に世界に現れては消え、現れては消えているんだろう。突然俺は消え、また突然現れる。消えている間、俺は寝てるんだ―――多分」 「'多分'だらけだ」 「うん、俺は分からないことだらけだ」 「それじゃあ俺とも'多分'離れ離れになるんだな」 「多分」 「いやだな……お前とずっと一緒にいたい」 「また生まれたらいいだろ」 「それは……できるかどうか分からない」 「お前も分からないことだらけか?賢いのになぁ」 「俺は無知だよ。無知だと分かってる分、少しだけ他のやつらより賢いだけだ」 ローが嘯くと、男は「おや?」っと首を傾げた。 「そんなこと言ってる不細工なオッサンがいたな、昔」 「え」 「奥さんが厳しくて頭痛いってよく愚痴られたぞ」 「……そうか」 世界一有名な哲学者を、つい昨日会ったかのように語る男に、ローは黙るしかなかった。 「なぁ、さっきの'花'ってのはどういう意味だ?」 ローが黙っていると、眠いと勘違いした男が背を一定のリズムで叩きだしたのを受け、またローは口を開いた。子どものように寝かしつけられてはたまらない。 「ああ―――バラを食う男がいるんだ」 バラを食う、優しい男が―――と男は言葉に哀しみを滲ませた。 「―――」 いつも、子猫を見るような微笑みか、感情の起伏のない表情しか見せたことのない男が、わずかに沈んだ顔をしていた。 「バラを食う運命にいつも心を痛めているんだ。いつもバラを食うしかない己を責めている―――それに比べたら、俺はまだよい運命なんだろう」 男は思いを馳せるように、深夜の空に鎮座する月を憂いとともに見上げて言った。 「優しい男だな」 そう言うと、ようやっと男の目がローを見た。その目を真剣に見つめ、ローは一つうなずいた。 「優しい男だ、その男は。でもお前もずいぶん優しい男だ」 「そう、か?」 「ああ―――バラに心痛める男を話すお前も、その男を思ってずいぶん心痛めている」 優しいやつだ―――そう言われ、男はいつもの笑みで 「そうか、そうかそうか」 と繰る。 しかし、ローの背に回した腕にはいつもよりずっと力が入っていた。仲間を、自分を褒められたことに、素直に喜んでいる。 「……お前が眠ったら、起きるまで待っていていいか?」 男の深い瞳を覗き込み尋ねた。 「いいぞ」 「会いに来てくれるか?」 「多分行く」 「何度も生まれ変わってるかもしれんが、気づいてくれるか?」 「多分気づく」 「'多分'か」 「多分な」 他人のためにも、自分のためにも優しいだけの嘘はつかない男に、ローは破顔した。 「じゃあ……また会ったらまた愛してくれるか?」 '多分'愛してる、か?―――とローが笑うように言うと、男はローの瞳を覗き込み返し言った。 「それは'絶対'だ」 「―――」 ローは息をのんだ。胸がカッと熱くなる。 深淵を覗けば、深淵もまたお前を見ている―――そんな言葉を思い出しつつ、ローは堪えきれず声をたてて笑った。 堰をきったように笑いと涙が止まらなかった。 俺が見ているとき、男も俺を見ている。俺が愛してるとき、男も愛してくれている。 それは、どうやら絶対らしい。 多分、絶対愛してる |