娼年



出来うる限りの凹凸を削った滑らかなシルバーのボディがけぶる外灯を反射し、鈍く光を放つ。
その体を、女の柔肌に触れるように白魚の指が優しくなぞる。
スライドを確かめるように一撫でし愛銃の機嫌を窺うと、優しくかつ力強くスライドを引き抜いた。バレルを取り、留め具も外され、弾倉もスプリングも流れるように散り散りとなり、冷えた路面に身を横たえていく。

「あんたいくら?」

唐突に掛けられた声を無視し、サボは黙々と銃への愛撫を続けた。時々、口寂しさにくわえただけの煙草を歯の間で揺らすだけで、声の方を伺う気配もない。
埃を払い、油汚れを拭い、スプリングの具合を確認する。ばらばらだったボディがテープを巻き戻すように次々と一つになっていく。サボの愛銃・32口径ブローニングM1910の美しいボディが息を吹き返してきた。
弾倉に新たな弾を込めスライドを引くと、スプリングが弾を押し上げ、薬室に装填する音が聴こえた。最後にサボは、照準を確認するため目前に構えた。
ブローニングM1910の特徴である細い溝のような照準と、照準を測るサボの片目の先には、スーツをだらしなく着こなした若い男が快活に笑っていた。
サボは銃を構えたまま冷めた目で、自分と年の頃の近いその男を観察した。
跳ねた黒髪を中折れ帽に押し込み、スーツの上着を右肩に掛け、少し皺の寄った白いシャツを腕捲りし、ゆるく履いたスラックスからシャツが半分飛び出した男は、普通の会社員と言うにはだらしない姿をしている。ネクタイの色は黒いが、喪に服しているようには見えない。
なにより、マフィアや娼婦、柄の悪い連中がうろつくこの界隈に平気な顔で立ち、銃を向けられても平然と笑う男はどう考えても一般市民ではないだろう。

「ひゃくまん」

男の眉間に照準を合わせたままサボは言った。
金と出地で全てが決まる世界に生まれた。人を家柄で計る両親を持った。どろどろと汚泥の流れる生活に絶望し、世界を何一つ変えれない自分の非力さに嫌気がさし、親の顔に泥を塗りたくて、夜な夜な男に買われるようになった。人という醜い生き物のさらに暗いところを見て生きてきた。
それでも、悪心に呑まれてはいないつもりだ。
薄暗く汚れた路地裏を照らす太陽のように、裏のないガキのように笑う男を、自分なんかと関わらせる気にはならなかった。いや、多少、「関わりたくない」という思いもあるだろう。男の明るさが妬ましく、憎らしいのかもしれない。
―――帰りな
サボは顎先を一度上げ、男の背後を指し示し、そう視線で告げた。
しかし―――

「百万でいいのか?」

サボの冷めた目は驚きで丸くなる。
事も無げに男はそう言ったのだ。
「よし、それじゃあんたの一晩俺が買う」
ヤニにも薬にも染まらない真白い歯が零れるのをサボは久しぶりに見た。
「行こうぜ」
男はグリップごとサボの手を取り、サボを冷たいアスファルトから引き離した。
磨きあげられたばかりの美女が、二人の手の間でカチャカチャと腹立たしげに声をあげた。
「!―――な、!」
サボの口元から、まだ火もつけていない煙草が地面に落ちた。
「こっちだ」
何が楽しいのか、男はガキのように笑いながらサボの手を引いて歩きだす。前にのめるようになりながらサボは男に引かれた。男を追いかけるためでなく、倒れそうな体を支えるため足は前に進む。肌にはりつき、誘うようにラインを際立たせたレザーに包まれた細い脚がいくども絡まりそうになる。
「―――おい!離せよ!」
よろつきながらもようやく体勢を整えたサボは、数メートル進んだところでやっと身勝手な男の手を振りほどけた。
「ん?どうした?」
「……どう、したじゃ、……ねぇ!」
驚きと、不規則なリズムで倒れるように駆けたこととで息の上がったサボは、荒く肩で息をした。一度大きく息を吸うと、サボは能天気に笑う男を赤い眦で睨み上げた。
「お前、ほんとに金払うのか?」
「?」
そう言うと、男はさも不思議そうに小首を傾げた。
「当たり前だろ?ウソとドロボーは犯罪だもんな」
男はそう言って尻ポケットを探り、サボの手元にぽいっと何かを投げ寄越した。
見ると、サボの手元には、無造作に折られ尻ポケットでくしゃくしゃになった札束が乗っていた。
「さ、行こうぜ!俺、腹減って死にそうだ!知り合いの飯屋が近いんだ―――そこ行こう」
それに応えるように男の腹はぎゅるぎゅると鳴った。
「飯屋?」
呆然と手元の札束を見ていたサボは、男の言葉にまた目を丸くし顔を上げた。
「おう!めちゃくちゃうまいんだぜ、そこ!その知り合いってのもすげぇいいやつで―――」
「お前バカじゃねぇの?」
サボは男の言葉を遮り、不審げに眉をひそめた。
「一晩で百万?飯屋?ホテルでも倉庫でも暗がりでもなく'飯屋'?―――お前バカじゃねぇの?ほんとバカだろ、何考えてんの?」

「あんたのこと―――」

「!」
唐突に瞬いた真剣な目に、サボは身を強張らせた。
「あんたのこと考えてるよ」
真剣な目で、常人なら恥じそうなセリフを男は言う。
「'かわいい''きれい''何が好き?''嫌いなものは?''名前は?''近くで見るとまつ毛長い''目きれいだ''猫派犬派?''この仕事は長い?''また会える?'」
「―――なに、言って」
「いま、俺が考えてること」
「は、」

「ヒトメボレデス」

「ひとめ、ぼれ……?」
「先週、おんなじ場所であんたを見たんだ。そんときも煙草吸ってたな―――そう、そんときの横顔がすごくきれいで、目離せなかった。でもあんたはすぐに気持ちわりぃおっさんといなくなってさ、俺そんときはそのまま帰ったけど、やっぱり後からすげぇ後悔した、何であんたを呼び止めなかったかって。それで俺は―――ん?……それから、それで?……あー、えーと、何言うんだっけ?」
男は言葉を探し宙に視線をさ迷わせるが、街灯に集まる蛾しか見つからず困ったようにガシガシと頭を掻いた。「俺あんまし言葉にすんの得意じゃねぇんだよな」と照れたようにはにかんで言う。
「ともかく、だ!俺はあんたと関われるならいくらでも出す!―――好きなヤツの時間を金で買うなんて、仲間にバレたら何言われっか分かんねぇけど―――だせぇかもしんねぇけど!」
照れた顔のまま、男はガキのようにニカリと笑い、それでも―――
「あんたが欲しいんだ」
それでも欲しい、と男は声を大にして言う。
「欲しい」―――サボがいくど叫んでも、喉を枯らしても、誰にも何処にも届かなかった言葉を、男は空気を揺らして伝える。
「……」
サボは丸くしていた目を伏せ、きゅっと口元を引き締め浅く俯いた。揺れた空気は確かにサボの鼓膜も揺らした。
「!ど、どうした、具合悪いのか?気に障ったか?」
俯く自分の回りで、わたわたと慌てる気配を感じる。
「いらねぇ」
サボは男の胸元に札束を押し付けた。
そして、男が口を開くより先に弾丸の様に言葉を紡ぐ。
「'好きなものはコーヒー''嫌いなものは人混み''名前はサボ''大型犬派''特技は男を悦ばせること、って言えるくらいにはこの仕事は長い'また―――」
サボは顔を上げ、不安げにこちらを見下ろしている大型犬のような男に、少しだけ口端を上げてみせた。
「また金曜に同じ場所に来たら―――'また会える'」
「な」
それだけ言うと、サボは手にしたままだった愛銃レザーのパンツに押し込み、薄暗い街灯の薄い恩恵からも離れて行った。
「い、」
男は暗がりに溶けいく金色に叫ぶ。
「行く!毎週行く!絶対行くから待ってろよ!絶対行くから!」
男は小さくガッツポーズを残し、弾むように駆け出した。



「欲しい」「欲しい」と叫んでいた。いつでも誰かに向けて、何かに向けて。
でも、言われたのは初めてのような気がする。親からすら、きっと欲されたことなどないだろう。
「バッカじゃねぇの」
サボは一人歩きながら煙草に火をつけた。ときどき掛けられる声を無視し無心で煙を吐く。
「'欲しい'だって―――」
掌を口元に押しあて、人差し指と中指の隙間から煙を吸い込む。

「バッカじゃねぇの―――」

白い煙と掌は、弛む口端を静かに押し隠していた。


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