午後の授業開始の10分前を知らせるチャイムが鳴った。同時に、否応なしに俺の胸も高鳴り始める。 このチャイムが鳴ると、図書委員が閉館を知らせなくとも、生徒たちは各々の教室や特別教室に向かい始める。生徒がパラパラと図書室の扉を抜けていく中、図書委員はカウンターで貸し出しをしたり日報を付けたり、閉館間際に本を返却した馬鹿共のためにテキパキと仕事をこなしていく。 俺は本棚の影で呼吸を整えながら、最後の生徒が扉を抜けるのを待った。じんわりと噴き出す手のひらの汗を、本を汚さないようにズボンで何度も拭きながら待つ。 ―――よし! 貸し出しの順番を待っていた最後の生徒がカウンターを離れると、俺はカウンターに急いだ。 「あ、ユースタス君」 俺の天使が顔を上げ、目を細めにっこりと微笑んだ。 「あ、ああ」 たったそれだけのことなのに、未だに収まらない動悸に頭を掻くしかない。 ふやけることをどうにか防いだ文庫本と、貸し出しカードを一緒にカウンターに滑らせる。 『からくりからくさ』―――もうトラファルガーに笑われることには慣れてしまった。「似あわねぇ」という言葉も聞き飽きた。 「また、おススメする本考えとくわね」 俺が差し出した本を見て、嬉しそうに笑う。彼女のその顔が見られるのなら、俺は恥も外聞もトイレに流せる。この本は、数日前に彼女に薦めてもらった本だった。 その本を、彼女が手にしようとしたその時、もう開くはずのない図書室の扉が音をたてた。 「ビビー、次の物理実験室だってー」 オレンジの髪の女生徒が、教科書を二人分抱え図書室にズカズカと入り込んできた。 ネフェルタリ・ビビと同じクラスのナミという生徒だ。特に彼女と仲がいいらしく、放課後よくショッピングやお茶に一緒に行ったり、互いの家に泊まったりもしているらしい。情報提供キャスケット、だ。 「ナミさん」 「はい、教科書―――まだ仕事でしょ?先行くわよ?」 「ありがとう―――ええ、すぐ行くわ」 「あ、そうだわ、明日はサンジ君のとこのレストランに19時だからね。今日あんたの家である誕生会で、愛想笑いのしすぎでダウンなんかしないでよ?サンジ君今日学校休んで料理の仕込みやってるんだから」 「ええ、大丈夫よ、愛想笑いは小さいころから慣れてるわ―――それよりごめんなさい、せっかく私のためにパーティー開いてくれるのに、日にちずらしてもらっちゃって……」 「いいのよ―――お嬢様はツライわねー、フフ」 「もう、私だって嫌なんだから」 「はいはい。それじゃあ先行くわ―――happy birthday」 二人の会話を居心地悪く聞いていた俺は、途中から薄々していた嫌な予感に決定打を打たれてしまった。 今日、2月2日は―――彼女、ネフェルタリ・ビビの誕生日だったのだ。 「―――!ユースタス君ごめんなさい、待たせちゃって!」 オレンジ髪の女に手を振った彼女は、はっと慌てわたわたと本とカードをパソコンに読み込ませる。 めったに見れない彼女の慌てた顔。だが、それを心のフィルムに納めるのも忘れ俺は頭をフル回転させていた。 ―――誕生日誕生日誕生日誕生日……!くそキャスの野郎!あいつそんなこと何も言ってなかったぞ!……いや、今はそんなこと言ってる場合じゃねぇ!何かなかったっか、プレゼントになるようなモノ!! 俺は全身に意識を駆け廻らせるが、ポケットには眠気覚ましのミントガムと携帯と財布しか入っていない。 「はい、どうぞ―――授業遅れないでね?」 俺の頭の回転の遅さを嘲笑うように、できのいい昨今のPCは一瞬で俺のIDと本のバーコードを読み取り貸し出し手続きを終えてしまった。 心配そうな顔をする彼女に、俺は「あ」だとか「う」だとか要領の得ない返事をして本に手を伸ばした。 「!」 視界に入った自分の左手の指に、俺は脊髄反射で右手を伸ばしていた。 「これ!」 「え?」 「あ、いや、」 右手に掴んだものを彼女に突き出したところで、俺はハッと意識が戻った。 俺の右手が掴んだのは、左手の中指にはまったごついデザインの指輪だった。以前、初めて会話したあの日のように本を一緒に選んでもらっているとき、俺の左手をしげしげと見ながら彼女が褒めてくれた指輪だった。 とげにぐるりと囲まれ、口は縫合跡のようになったドクロの指輪―――俺デザインの世界に一つだけの指輪だ。 だが、いくら彼女が褒めてくれたからと言っても、それは男物だし、第一彼女の雰囲気には全くそぐわない物だった。差し出した後でそれに思い至った俺は空中にとめたままの右手をそろそろと引き上げた。 「……」 「……」 ふと彼女を見ると、その大きな瞳で俺をじっと見上げていた。はし、はし、と彼女の永い睫毛の上下する音まで聞こえそうなほど図書室は静かだった。 俺は変な汗を背中にかきながら、もごつく口を引きしめて戻しかけていた手を彼女の胸元にもう一度差し出した。 俺の動きに合わせ、彼女も白い華奢な手を水を掬うように胸元に広げた。その中に、不似合いなくすんだシルバーが転がり込む。 「た、んじょうび……おめでと」 彼女の反応を見れないまま、カウンターの上のカレンダーを睨んだまま蚊の鳴く声でやっとそう言った。2月2日、2月2日!カレンダーが示す数字を、心のペンでぐりぐりと囲む。絶対、一生、忘れない。 「……」 俺はずっと目をそらしていたのだが、彼女から返ってくる音のある反応がないのでそろそろと彼女の表情を窺った。 「……」 彼女は瞬きを忘れ、指輪をじっと見下ろしていた。 そわそわ。やっぱり迷惑だったか、とか気持ち悪がられてないだろうか、とか、様々な憶測が頭をめぐり尻の座りがたいへんよろしくない。 「……りがと」 「へ?」 思わず間抜けな声が出た。 「ありがとう!すっっっごく嬉しいわ!」 彼女は指輪をいろんな角度から眺めながら、かわいいかわいいと連呼している。 ―――かわいい? そう、だろうか?自分ではかっこいいつもりでデザインしたのだが、と首を傾げていると、俺はさらに驚く光景を目にした。 彼女は親指から順に指輪を通し、薬指までくるとそのぶかぶかの指輪をくるくると回し、困ったように俺に掲げて見せた。 「やっぱりどれもぶかぶかね―――鎖通してネックレスにするわ……―――!」 「―――!」 俺は彼女の指に通された指輪を見て、彼女は自分の指に通された指輪を見て、多分同時に気がついた。 左手の薬指の意味に――― 「あ、あの!これは、!」 「いや、俺、そういう意味じゃ、!」 キーンコーン ばかみたいに慌てふためく俺らを無視し、間抜けなチャイムが図書室を過ぎる。 「!ユースタス君!授業!」 「!お、おう!」 彼女は弾かれたように立ち上がり、滑るような早さで荷物をまとめる。 俺たちは図書室を飛び出し、誰もいなくなった廊下を必死に走った。 「ふふふ」 「はは」 どうしてかとてもおかしくて、二人で笑いながら餓鬼みたいに走る。 廊下の突き当たり、彼女は階下へ、俺は左に折れる。 振り返ると、彼女もちょうどこちらを振り返っていた。いたずらっ子のような、共犯者めいた笑みを分かち、俺たちはまた駆けだす。 なぁ、お前、今日が何の日か知ってるか?一度しか言わねぇぞ。脳みそに刻み込め! ―――今日は天使が生まれた日! |