続々:花のもとにて春死なん



※注意は前回同様。キッドも彼岸へ。

「―――私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない―――」


私は静かに本を閉じた。
さわさわと草木が揺れる音が通り過ぎる。昼の穏やかな日差しに乗って、甘い香りが届けられる。どうやら、この本は白木蓮のお気に召したようだ。
「……美しい文章だろう?俺の尊敬する作家のひとりなんだ」
白木蓮は同意するように枝を揺らした。久しぶりに私と二人きりなので、嬉しいのだろう。いつも私の膝元にいるベポが散歩に出ているので庭は静かすぎるほど静かだった。
私は座り込み、寄り添っていた幹にそっと手を這わせ、頬を押しあてた。
「今度、俺の文章も読んでやろう」
白木蓮の喜ぶ気配がする。私はさみしげにほほ笑んだ。この木は良い文章をよく分かっている。私などの文章を聞いては、へそを曲げて虫を振らせてくるかもしれない。
「しかし……まだまだひどいものだ。文章も洗練されていないし、中身もないに等しいんだ」
私はほう、と息を吐いた。
目の前の池は、明るい日差しに照らされて痛いほど明りを集めている。気の早い睡蓮が一群れ花を咲かせている。花の数を数えてみると、ちょうど床の間の絵と同じ数だけ花があった。
あの日から、床の間の絵が揺らぐことはなかった。私が彼を傷つけた、あの日から。
「―――俺は、どうして文章を書こうと思ったのだったろうか」
私はそっと目を閉じる。白木蓮の香りに乗って、そう遠くない昔に思いをやる。


ほとんどの物書きがそうであるように、私は本を読むことが好きであった。頭がよくなく、学校の勉強がさっぱりだった私は、図書館で適当に本を見繕い、屋上や空き教室にこもって本ばかり読んでいた。難しい話はよう分からなかったが、音の響きや言葉の美しさを楽しんでいた気がする。
私は学もなく、技術もなく、芸もなかった。卒業後はどうしようかと迷っていた私に、文を書けと、醤油を取ってくれと言うのと同じ調子で言ってきたのがトラファルガーだった。
そんなもので食っていけるかと目をすがめたが、物書きなど―――と否定しなかったところをみると、私も少しはその気があったのかもしれない。
―――食えないときは、俺が食わせてやる
どうでもないことの様にそう言った男に、私は今度こそぽかりと口を開けたものだった。
ちょうど昼飯時で、弁当の卵焼きを見つめ、突つきまわしていた男を丸い目で見つめていると、男は弁当箱を見つめたまま耳だけを赤くしていった。手元の卵焼きは見るも無残な姿に変わっていた。十代も終わりに近づいた不健康そうな男を可愛いと思ったあの時の私は、眼科に行くべきだった。
卒業後、男は医学の道に、私は、死ぬ思いで勉強し、なんとか公立大学の文学部に滑り込んだ。卒業後、在学中から寄稿していた出版社から時々仕事をもらいつつ糊口をしのぐことができた。男が生きている間、決して男の世話にならなかったことだけが私の少しの誇りであった。


私はそっと目を開けた。冬場であれば何やら薄ぼんやりとしてくる時間だが、日に日に昼が長くなるこの季節ではまだキリリとした光が降ってくる。私が眠ったと思ったのだろう、白木蓮が私の顔に日差しを当てぬよう影を寄せてくれていた。礼の代わりに一度幹を撫で、再び目を閉じた。


私はそうやって物書きを始めたのだが、はて、私は何を書きたかったのだろうか。


私がトラファルガーと出会ったのは高等学校の一期生の終わりであった。いつものように本を一冊選び屋上に行くと、給水タンクの影に不健康そうなモヤシが分厚い本を抱え座り込んでいた。
私は気に入りの時間を邪魔された気分で、いささか機嫌を損ねたのを覚えている。だが、それも一時のことで、すぐに本に夢中になった。あの日は始めて外国文学を読んだ日だった。ゲーテがその生涯をかけて完成させた代表作だ。
次の日、すっかりゲーテに魅了された私は、今度はゲーテの詩集を抱え屋上に上った。またしてもあの男はいた。私は忌々しくその男を見やると、その男がドイツ語で書かれた哲学書を読んでいることに気付いた。本の表紙になっていた根暗そうな男の横顔は社会の教科書で見知っていたし、タイトルについたアルファベットの上の点々は、タイトルだけドイツ語で書かれた手元の本にもあるものだった。
同じ国の本を読んでいる。なんだかそれだけで私はその男に親しみを覚え、私から声をかけた気がする。
それから昼飯を共にする仲となり、頭だけは飛びぬけてよい男に馬鹿にされながら勉強を教えてもらう仲となり、時には喧嘩して殴り合う仲になり、馬鹿をして阿呆のように笑いあう仲になっていた。
あの頃に、ウェルテルのようにピストルに身を任せるような苦しい恋や、サロメのように首を求めて口づけるような狂った恋しか知らなかった私が、胸がほこりと暖かくなるような恋があることを知ったのだ。
そうして二年を共に過ごし、三年目で報われることはないと思っていた思いが報われ、男の無責任なような責任感あるような言葉に押されるまま進路をとった。
食わせてやると言いのけた男は、私より後に大学を出た。私が大学を出て二年、男が大学を出て一年、互いに忙しいせいかほとんど会えなかった。あまり寂しかった記憶はない。それまで読む側だった私が、人に自分が書いた物を読んでもらえる喜びで、少ない仕事は全力でこなし、暇な時間は賞に送る物語なんぞを書いて、瞬く間に時は過ぎていた。それに、時折来る唯一の毒ばかりを吐くファンレターが私を支えていた。
会えない日が三年、男と出会ってから十年が経っていた。
男が、久方ぶりに私の暮らす安アパートを訪ねて来た日は今でも覚えている。雪の降りしきる年末だった。いつも傲岸不遜な男が、寒さと緊張で歯の根を鳴らし、ゲーテの詩集を差し出してきたのだ。後で聞いたのだが、初めて話しかけたあの日、私が手にしていた本と同じ出版社の同じ版だという。
私は男がこぶしを握るまでひとしきり笑い転げた。男は血の気の上った顔で恨めしげに睨んできたが、ゲーテが愛を語る詩全てに付箋をつけた、付箋だらけの詩集を見れば誰もが同じ反応をするだろう。
男の顔に似合わない告白で笑い過ぎて涙した私は、その後引きずられていった先で今度は感激で涙することとなった。
あの日の男の顔はすべて覚えている。いいや、忘れられないのだ。
いつでも来いと笑った顔が忘れられぬ。
家具も揃えたと自慢げに言う顔が忘れられぬ。
まだ生活の匂いがしない部屋で愛し合う中、切なげに眉根を寄せて愛していると言ってきた顔が忘れられぬ。
なぜなら、あの日の男の全ての顔を詳細に覚えているうちに、男は湖に沈んでしまったのだから。


頬に当たる冷い風と、頬を拭う温かい手に目を覚ました。
そこには道端の不良の様に座り込む色黒の男がいた。
「ユースタス屋、こんなとこで寝ては風邪を引くぞ」
「と、らふぁる、」
「ああ、俺だ」
男の手はまだ頬を撫ぜている。そこでようやく私は自分が泣いていることに気がついた。
「もう、来ぬかと、思った」
泣いていることに気づいても、それを止める術を思い出せず、涙は後から後から流れてきた。
「お前は寂しがり屋だからな、放ってはおけん」
「っはあ、とらふぁるがー……っロー……」
「なんだ」
「っす、まない」
「何を謝っている」
「すまない」
「だからどうした」
「お、俺は、まだ、何も」
止まることのない涙を、男は飽きることなく拭い続ける。手のひらで頬を拭い、親指で新たな粒を弾く。
「まだ、何も、書けていない」
「―――うん」
「お前と会えた喜びも、喧嘩したときの怒りも、食わせてやると言われた時の驚きも、会えないときの寂しさも、一緒に暮らそうと言われた時の感動も、お前が、お、お前が死んだときの悲しみも、何も……!」
「ああ」
「何一つ書けてはいないんだ」
「そうだな」

「だから、だから、まだそちらには行けないんだ……!」
「……」
「すまない、ロー、っ、、ん、すまない」
私は滲む視界に耐えきれず、瞼をきつく閉じた。
その瞼の上に、唇が優しく押し当てられた。
「よく、言ってくれた。俺のことは気にするな。あちらには腐るほど時間があるんだ。ゆっくりお前を待つことにする。十年待ったんだ、もう百年も千年も同じことだ」
手が頬を離れ、隣の気配が立ちあがる気配を感じた。しかし、何かの呪(まじな)いにかかったように瞼は上がらなかった。そのまま立ち去る気配を見送り、私は糸が切れた様に眠ってしまった。



かりかりかりと鋭い爪が紙を引っかく音がする。
見事な赤い髪の着流しの男が一人、傷だらけの古ぼけた文机に向かって万年筆を揮っている。机の上には、文字で黒く埋まった原稿用紙と、付箋が一つ貼られた小説が一冊伏せられている。部屋の中には、書き上げたと思われる原稿が雪のように畳を覆っていた。時折、部屋に面した庭から風が吹き込み、かさかさと乾いた音をたてる。
初春のぬるい日差しの落ちる畳は昼寝にもってこいの温まり具合で、庭の梅には鶯ではないが名も知らぬ鳥たちが集い鈴の音をたてている。ちょろちょろと水の流れ込む池はまだまだ冷たいのだろうが、春の日差しに次第にほだされている。縁側に座って庭を眺めれば、水に反射した光がまなこを刺し、温かさと相まってそのまま瞳を閉じて夢の世界にまどろみたくなる。池に浮く睡蓮が花を開けば、部屋の床の間の絵とそっくりとなるだろう。床の間の絵は、和装の部屋とは違い、色彩鮮やかな洋画がかけられていた。今現在の庭とよく似た、光を集めたような池に、たくさんの花を開いた睡蓮が浮かんだ絵だ。
かりっ―――
それまで一心不乱に筆をとっていた手が突然止まった。一瞬静寂が世界を包む。
男は手元を見て満足げにほほ笑むと、ゆっくり、眠るように机に伏せた。
力をなくした白い手が、机の上の一輪挿しの小さな花瓶に触れた。花瓶には、白く肉厚の花弁を持った、芳香のする花が短い枝ごと挿されている。庭にある白木蓮の一枝のようだ。
その花瓶が傾き、中の水をこぼす寸前、脇から伸びてきた浅黒い腕が花瓶を立て直した。
部屋には赤い髪の男以外いなかったはずだ。この黒髪の男はどこから現われたのか。
新たに現われた男は、眠る男を慈しむように見つめ、壊れ物を扱うように優しく抱え床の間に足を向けた。
いつの間にか、床の間の絵のなかにボートが浮かんでいた。ボートも睡蓮も池の水面も、吹き寄せる風にゆらゆらと揺らめいている。
男は眠る男を先にボートに乗せ、自らも額縁に手をかけて、絵に半分体を埋めたとき、ふと庭を見て困ったように笑った。
「そう泣くんじゃない」
庭には人影はなく、白い花をたわわにつけた白木蓮があるだけだ。
「連れていくなと―――無理を言うな。俺はずっと待っていたんだぞ」
部屋に吹き込む風に乗って、白木蓮の枝が目一杯伸ばされる。が、それは池を越えることも叶わない。
「……お前は、幹を撫でてもらったではないか。花を愛でてもらったではないか。髪に挿してもらったではないか。その肉厚の花弁を口に挟んでもらったではないか―――」
ざわざわと木全体が身を震わせた。
「―――次は俺に譲ってくれ」
カタンと音がたつ。男がそちらを見やれば、先ほど立て直した花瓶が倒れ、畳に転がっていた。中の水はすぐに畳の染みと消え、中の花は風に吹かれて男の手の届くところまで飛ばされていた。
「仕様のない奴だ」
男は微苦笑して花を手に取り、眠る男の髪に挿してやると、とうとう絵の向こうに消えてしまった。

きぃきぃきぃ

猫の子が窓ガラスを引っかくような音が幽かに聞こえる。それも次第に小さくなり、とうとう風の音にかき消されるほどになった。揺れていた水面が動きを止めると、静寂だけが部屋に残された。
ざざざ―――と、悲しみの声が乗った風が部屋を巻き上げる。強い風は部屋に散らばる紙を吹き上げ、机の上の本をばらばらとめくった。そしてちょうど付箋の貼られたページに止まると、静けさがまた部屋に戻った。
その付箋の場所には、こう書かれていた。

―――あの人が私を愛してから、 自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう。

それは、誰が誰に贈った言葉だったのだろうか。

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