続:花のもとにて春死なん



―――どうも筆が乗らない。
私は静かに万年筆を置いた。半刻ほど机に向かっていたが、気もそぞろで何も言葉が浮かんでこない。古びた傷だらけの文机に乗った原稿用紙には、細切れになった散文とも言えない文が書き散らされている。子どもの作文よりひどい出来だ。
自分の文才のなさを言い訳するつもりはないが、何やら今日は落ち着かず、心が乱れていた。
ふと、あたりを見回すと、ずいぶん部屋が明るいことに気がついた。開け放した障子の形に、死人の様な明かりが畳に居座っている。部屋に散らばる丸まった原稿用紙を蹴り散らし庭に出てみると、欠けることなき月が山の端に掛かっていた。月の輝く音がする。道理で騒がしいはずだ。虫の音はせぬが、月の音を受けて庭の草花もどこか落ち着かず、ざわついている。

「―――ベポ」

私はこのまま部屋に戻る気にならず、また、つまらぬことを書き散らす筆を持つ気にならず、縁の下で寝ているだろうベポを呼んだ。ベポというのは、最近庭に迷い込んできた白犬の名前だ。
「ベポ、散歩に行こう」
こんな夜更けに何用だ、と縁の下から顔を出したベポにそう声をかけた。
ベポは人の言葉を解しているかのように、私の言葉を受け、先立って玄関に向かい出した。
ベポは歴とした日本犬なのだが、手足が太く、胴回りもずっしりしているので、ベポの後ろ姿はまるで白い子熊のようだ。
私ははじめベポを飼う気はなかった。だが、死んでもそのにやけ面を曇らせぬこの家の主が、勝手に迷い犬に名をつけ、勝手に縁の下に住まわせてしまった。世話をするのは誰だと思っているのだ、と主を叱りつけてみたが、生前からうなぎのようにのらりくらりとした性格の男には暖簾に腕押しだった。この男が黙って人の言うことを聞く人間ではないことは十分に承知しているので、今は私が住んではいるが、もとはその男―――私の恋人の家だ、もう勝手にしろ、と好きにさせた。
最初は世話などするものか、と思っていたが、怪しいセールスは寄せ付けぬし、庭の木の実を狙う鳥たちも追い払うし、今ではよい番犬として立派な我が家の一員となっている。誰とは言わないが、勝手に死んで、たまにしか顔を見せぬ者よりはよっぽど重宝している。
私は部屋を振り返り、床の間を見た。正確には、床の間の絵を、だ。睡蓮の浮かぶ光に溢れた池の絵だ。その絵の水面をじっと見つめるが、それが動く気配はない。絵なのだ、それは至極当たり前のことなのだが。
私は身を返し、月の光を一身に浴びる庭を一望した。
「月白く、風清し。この良夜を如何せん、だ」
誰ともなく呟き、私は下駄を引っかけ、ベポを追って庭を出た。


家を出て、家の右手に佇む小さな寺があるだけの小高い山を目指した。特に何かあるわけではないが、高い所ならば眺めも良かろうという安直な考えに基づき足を進める。
道はそれほど険しくなく、檀家の人間や寺の和尚が行き来するため、道はきちんと整備されている。しかしそれでも、坂道を歩いているとだんだんと息が上がってくるものだ。私が熱い息を吐き、額の汗をおしぬぐっているというのに、先を行くベポは「早く来い」とでも言うように、歩いては止まり歩いては止まり、こちらが追いつくのを急かすように待っていた。私はベポの涼しい顔を睨(ね)めつけた。性格の悪さが名付け親の主に似ないとよいが、もう手遅れかもしれない。
その名付け親はここしばらく顔を見せていなかった。
それまでは三日と空けずいつものにやけ面を引っ提げて来ていたのに、この一週間、床の間の水面が揺れることはなかった。
寂しくは、ない。ただ、憎らしいだけだ。私を待たせ、独りにし、思いを焦がらせるあの男が、少しだけ憎らしいだけだ。
「―――ふん」
なぜだか悲しくもないのに、涙が漏れそうな気がして私はあわてて顔をあげた。
いつの間にやら寺を通りすぎ、寺の裏にある竹林も抜けて、山頂の拓けた野原に着いていた。私は上がる息に丸めていた背中を伸ばし、眼下を見下ろした。いつの間にか月は高く昇り、前方の湖に自分の分身を映していた。私はほう、とため息を吐き、葉だらけになったわらびを押し退け腰をおろした。
―――美しい
昼間、明るい中で見る景色とは違う美しさがそこにはあった。景色にあるすべての色には、暗い色が混じり込む。山の緑はなお暗く濃く、野のアザミは未亡人のように艶帯びている。昼間は少女のようだった山桜は、夜は月に照らされ男を誘う辻君のように艶かしい。墨を流したような湖は、ゆらゆらと光の道を水面に走らせている。

あの水底に私の恋人は沈んでいる。

春を迎える少し前、雪解けの水が流れ込む冷たい湖に、私の恋人は沈んでいった。恋人とともに沈んだボートも、恋人の体も、沈んだきり戻っては来なかった。
水底の冷たい水とあの湖の主は、私に何一つ返してはくれなかった。恋人の沈む湖を見て、特別な感慨も悲しみも湧かないが、なにやら殊勝な心持ちにはなる。
私はふいに肌寒さを感じ、辺りを落ち着きなく嗅ぎ回っていたベポを呼び側に伏せさせると、己も横になりベポに寄り添わせた。
それにしても今日は賑やかだ。寺で法事でもあったのだろうか、ざわざわと笹の葉が擦れる音に混じって人のささめく音もする。いつもなら悠然としているベポも、心なし落ち着かない様子だ。
なだめるようにベポの背を撫でていると、ふいにベポが大きく尾を振り始めた。
ベポが顔を向ける竹林の方を見やると、切り絵のように黒と白がない交ぜに落ちる地面を噛みしめて、男が一人こちらに向かってくる。竹林の陰から抜け出た男の顔を見ると、トラファルガーだった。
「よおユースタス屋」
「………トラファルガー」
「お前よく平気でこのような賑やかなところに居られるな」
「賑やか?何を言っている」
ここしばらく顔を見せていなかったというのに、いつも通りの調子でいる男に腹が立ち、男にまとわりつこうとするベポを抱き寄せ、睨み上げながら言った。
事実、ここには私たち二人と一匹しかいない。
「お前、そこの寺の住職と将棋仲間ではないか」
聞いたことないのか、と男は呆れ顔をする。この男は頭も良く、要領も良く、察しも良い。私の機嫌がいささかよくないことなど分かっているだろうに、敢えて無視をしているのだ。現に、呆れたような顔をつくりながら、口端がうっすら上がっている。私の不機嫌を面白がっている。
「ここはお前、元は寺の墓場だぞ。地の下にはまだ何人も埋まっておるのだぞ」
私は男の言葉が終わらぬうちに飛び起きた。
「も少し端に行こう」
気の毒そうな顔をつくりつつ、頬をひくつかせる男を一蹴りし、ベポを連れて一目散に上手の端にある桑の木の元に向かった。


ここは昔、あの寺の墓場だった。しかし時代が経るにつれここでは手狭になり、今の場所に移したのだ。そう、寺の下手にある墓場だ。あそこが広いし、何より通いやすいしな。しかし、墓場を移すのはたいへんな労働だ。人を雇う金もない者もいるし、家が絶えたものも、無縁仏もいる。だから、そういったものたちは上の墓石だけを運んだんだ。うむ、つまりその下の棺やら遺骨やらは置いてな。だが、そいつらの方が幸せやもしれん。ここに眠っていたものたちは、望んでここに埋められたのだ。それを勝手に動かしてしまうとは―――いい迷惑だったろうよ。


ひしと寄り添う私とベポの間に割り込み、私を懐に抱き寄せた図々しい男は、目の前の野原と、己の墓場を眺めながら語った。
「望んで、ここに?」
「ああ、お前と一緒だ。美しい景気を見て、それを見ながら横になりたい眠りたい、埋まりたい、と人は思うのだ」
よい場所というのはつまり、人が埋まりたいと思う場所だ、と男は呟いた。その目は、遠く下に広がる湖を見ているのだろうか。
この男にもあったのだろうか。埋まりたいと思う場所が。
「―――」
私は無性に悲しくなり、男の胸元に添えた指先が震えた。男の白いシャツに五指のしわが寄る。シャツからは、生前と変わらぬ消毒液のにおいがした。
「……しばらく顔を見なかった気がするが、何をしていた?」
私は震えを誤魔化すように問うた。
「うむ、ここしばらく患者が途切れなくてな」
「お前、死んでもそのようなことをしているのか。そもそも、あちらに医者など必要なかろう」
「まあ死者には医者などいらんさ。しかし、この国の八百万の神やモノノケたちは怪我も病気もするのでな」
「そんなものなのか」
「先週はウズメノミコトが踊りの途中で足を挫いたと泣きついてきたし、一昨日は天神殿がぎっくり腰で担ぎ込まれてな。昨日は出産を手伝った山の神の姫の祝いに呼ばれていたのだ」
男は事もなげに言うが、私は嘘かまことか判別がつかず眉根を寄せるに留めた。
「……なあユースタス屋、心配したか?」
難しい顔をする私を見て、何を勘違いしたのか、男は嬉しげに顔を覗き込んできた。
「妬いたか?寂しいか?」
子どものような男をみて、私は呆れたため息を吐いた。男に対してではない。このような男を幾日ももやとした思いで待っていた自分に対してだ。
「"男じゃもの外に出たときゃ惚れられしゃんせ"」
「なんだそれは」
男は首を傾げた。この男の知識は深く広いが、医学書ばかりにかじりついていたのだ、さすがに都々逸までは知らないようだ。
「なんでもないさ」
ふいに、一つの村雲が月を通りすぎた。夜の世界のたった一つの光源が遮られ、一瞬間近な相手の顔さえも闇にのまれた。その一瞬のうちに柔らかで暖かなものが私の唇を掠めとった。
月が晴れ、また辺りが青白い光に溢れると、私たちはどちらともなく月を見た。

「……湖の底はどのようなものか?」

私は尋ねたあと、ひどく後悔した。一生聞くつもりはなかったのに、一生知らぬふりをするともりだったのに、月の魔力に惑わされ、夜に甘えて聞いてしまった。
「……そうたいしたものではないさ」
男は、目前の湖のように静かで暗い瞳で言った。
「ひどく、冷たいところであった」
私は息をのんだ。繋がれていた男の手がだんだんと熱を失っている。
「…何を、見たのだ」
一度外れた箍を直すすべを知らず、口からは水のように言葉が流れ出た。
今や氷のように冷え切ってしまった男の手は静かに離された。
「俺が見たものを人も見るとは限らない」
「みな見れるのか」
「みな見れるさ」
「…俺にも見れるのか」
「お前にも見れるさ、」
男はわずかに言い淀み、離していた手をまた伸ばしてきた。控えめに、叱られた子どものようにおずおずと指先だけを握りしめた。

「……お前も、見たいか?」

「―――」
私は、何も言えなかった。これはただの問いかけではない。見たいのか?見たいのならば―――
そう言葉が続くのを恐れ、私は何も言えなかった。いいや、言わなかったのだ。

「すこし冷え込んできたな」

すい、と冷えた手が遠のいた。
聡い男だ。私の動揺を見透かしたのだろう。そして優しい男だ。傷つけぬように傷つかぬようにやんわりと瞳をそらした。
「ベポ、帰ろう」
男は私を自然な動作で立ち上がらせ、ベポと戯れながら竹林へと帰路をとった。
「早くこい、ユースタス屋」
竹林に入る寸前でこちらを振り返り、まだ呆然と立ち尽くす私を一度急かし、男はベポとともに影の中に入った。ベポのはしゃぐ声と、男の笑い声と、かさかさと笹を踏む音だけが届く。

「"男じゃもの外に出たときゃ惚れられしゃんせ"―――"そして惚れずに戻りゃんせ "」

私はのろのろと男の後を追いながら、さきほどの都々逸を口ずさんだ。調子よく詠われるべき都々逸も、力なく恨めしげな響きになってしまった。
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす。戀(こい)という字を分析すれば糸し糸しと言う心。三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい。花は咲いても身は山吹よ ほんに実になる人がない」
ぽつりぽつりと歌を口ずさみながら歩く。気もそぞろな上滑りの恋の歌が続く。次第に声が震え、歌に嗚咽がまじる。
これまで一つも流れてこなかった涙が、いまさらのように湧いてでた。あとからあとから、熱を持った塩水があふれ出る。
死んだのだ。私の恋人は死んだのだ。捻くれていて、意地が悪くて、口が悪く、賢くて、優しくて、私を愛する馬鹿な恋人は死んだのだ。
私の恋人は、死んでしまったのだ。
そして―――

私は今宵その恋人を傷つけた。

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