花のもとにて春死なん



※ぴんぴんしてるけどロー死んでます

───恋人が死んだ

湖でボートが転覆し、先月、私の恋人は水底の住人となった。
だというのに、私はいまだその実感を得ていなかった。涙も出ず、哀しくもなく、その日から私はずっと昼行灯のような凡庸とした日々をつつがなく送っていた。
死体が上がらなかったせいだろうかとも考えたが、おそらく、どんなに動かぬ証拠を見たとしても、実感を得ることはないだろう。どんな言葉も私の心の表面をすべり落ちるだけで、きっとその奥まで入り込み実感を生むことはない。
それはまあつまり、私がその事実を受け入れられない、信じたくない、ということなのだろう。
つまるところ、私はあの男をそれだけ愛していたのだ。


───たまには雑草抜きでもしたがいいだろうか。


こんなことではいけない、ちゃんと事実を受け止め心に区切りをつけなければ、と思い、私が自分自身を切り刻み、その中をよくよく眺めみて、感情を整序してみても、やはり心は意に反して上滑り、すぐに違うことを考え出してしまった。
ため息を一つ吐き、無駄に思い病むことはやめた。今しがた思い浮かんだ庭の手入れについて考えを移す。
私がいま座している縁側の正面には、広々とした日本庭園が広がっていた。真ん中には橋の渡された池があり、池の向こうには今が盛りの白木蓮が白い花びらから甘い香りを風に舞わせていた。
かつては美しく整えられていたのだろうが、私が越してきてからは手入れもされず野花も野草も隆盛を極めていた。



この家には以前、死んだ恋人が住んでいた。
医者などという高尚で立派な仕事についていた恋人は、有り余る金にものを言わせ、この立派な邸宅を買い取った。いつでもお前と暮らせるようにしたのだと笑って言った恋人の顔が脳裡を過る。しかし一度も二人で暮らさぬまま、この家は私のものになってしまった。遺産の相続は全て私に指定されていたそうだ。
庭付きの邸宅を買い取っておいて、私に相続された遺産は一生かかっても使いきれない額があったが、どうにも手をつける気にならず、家の維持費として最低限の額を残し他は全て寄付にした。
そのうえ私は世間様で言うところの真っ当な職には就いておらず、細々と売れない文章を書いてなんとかその日をしのいでいる身なので、庭師など雇う金もなく、庭はこのように荒れ放題になっていた。
ここにもあそこにも、と雑草を数えていると、次第に手入れをするという考えが萎えてきて、とうとうこれも風情だと自分に理由をつけてその考えを放り投げた。
縁側は日によって温められていたが、風に冷気が乗ってきたのを感じ、そろそろ夕餉の用意をと思い、裾を払った。
縁側を一歩踏みしめたとき、その音は聴こえた。猫の子が窓ガラスを掻いたような音だ。庭を見回しても猫の子の姿は見えない。気のせいかともう一歩踏み出すと、またキィキィと音がなる。はて、この廊下は鶯張りだったろうか。
そんなはずがないのは自分がよく分かっている。毎日歩くこの廊下が鳴いたことは一度もないし、キィキィという軋むような音は私が動かない今も鳴り続けている。
最初は庭を隅々まで見回していたのだが、ふと後ろの座敷の床の間に掛かった絵画が目に入った。睡蓮の浮く光を目一杯に集めたような美しい湖を描いたこの絵は、洋風ながら和室の床の間に違和感なく収まっていた。
その絵の湖が、静かに波打っていた。手前の睡蓮など波に押されてこちらに放り出されそうになっている。
その湖に小さくボートに乗った男が見える。よくよく見ればそれは湖で死んだ私の恋人であった。
ボートと男はぐんぐんと大きくなり、瞬きを何度か繰り返すうちにボートは額縁を飛び出し、舳先が私の鼻先を掠めた。


「よおユースタス屋」


男は相も変わらずへらへらとした薄ら笑いを浮かべていた。それが可愛い恋人を置いて先立った男の顔だろうか。
「なんだお前、帰って来たのか」
「なんだとはなんだ、ひどい言い草だ」
「しかしまあ、夕餉の時間に現れるとは、死んでもその図々しさは変わらないな」
私の死んだはずの恋人、トラファルガー・ローは私の悪態すら嬉しげに聞きながら、ボートを湖の杭に繋ぎこちらに降り立った。
「お前は誰にものを言っているんだ。夕餉などいらんさ」
それもそうかと頷く。しかし足はしっかりとあるようだ。
死ぬ以前と少しも変わらない様子の男は、自然の野原をそのまま移したような風流と言えなくもない、いや、やはりどうみても荒れ放題の庭を面白そうに眺めている。
「しかしお前はどうしようもない浮気者だな」
「は?」
突然の言われもない濡れ衣に、私はできるだけ不快感をあらわにし眉間を寄せた。浮気なぞ、この男が死ぬ前も後もしたことなどないというのに。
「あの白木蓮はお前に惚れているぞ」
男はすい、と目前の木を指した。夕暮れのまだ冷い風に乗せて、白木蓮は必死に甘い香りをこちらに差し伸ばしていた。
「しかしお前、あれは木だぞ」
「それがどうした」
私とあれが人と木という身分違いであるという最も大きな問題をこともなげにあしらわれた。
「あれはこれまで花をつけたことがないそうだ」
目を見張る事実だ。目の前で、我が天下とでも言いたげに枝を広げた白木蓮は、枝一杯にたわわに白い花をつけている。それが今まで花をつけたことがないとは。
「お前のためだろうよ」
男はにやりとこちらに笑いかけた。
「しかし、どうすればいいんだ?俺はまだお前が好いているし、花の恋人を持ったこともない。どう扱えばいいかさっぱりだ」
私がそう言うと、男は瞠目し、死ぬのも悪くないと軽口を叩いた。
「俺は真剣なんだぞ」
「いやすまん。お前からそんな可愛い言葉を聞けるとは思わなくてな」
「もう一度殺してやろうか」
「すまんすまん。…まあ特別何かする必要もあるまい。ときどき、あれの回りを清めるといい」
「やはり手入れをすると嬉しいのか?」
「いや、手入れがというより、その間お前がそばに居ることを嬉しいのだ」
植物が手入れを喜ぶというのなら、他の木々もと思ったが、その必要はなさそうだ。
「ときどき話しかけてやれ。適度に適当に相手してやれば、次第に飽いてしまうだろう。花の命は短いものだ」
「そうか。まあそれくらいならばやってもいいな」
「何を偉そうに。お前の様に顔の怖い男を好く物好きは滅多にいないぞ。感謝して尽くしな」
死んでもこの男は口が減らない。死人に口なしという言葉を知らないとみえる。閻羅王はなぜこの男の舌を切らなかったのか。職務怠慢もいいとこだ。
「…お前、それではお前も物好きということになるぞ」
「ああそうだな、うむ、俺は世界一の物好きだ。あの白木蓮よりずっとな」
嫌みを言ったはずなのに、こうも嬉しそうにそう言われ、私は二の句を告げなかった。なんだか居心地悪く、組んだ腕を着物の袖の中でもぞもぞと動かしていると、男は
「さて、帰るとしようか」
と誰にもなく呟いた。
「帰るのか」
「ああ、帰らねば」
「また来るか」
「ああ、また来る」
「いつ来る」
「…ふん、いつだろうな」「……」
男はじっと遠くを見るような、またどこも見ていないような目で庭を見つめている。こちらを、見てはくれぬ。私はいい年をして、拗ねたような心持ちになり、どうにか意趣返しをしたくなった。
「…あの花が『白木蓮』ということをここに越して初めて知った。そもそもそういう花があることも知らなかった」
「お前がその顔で花に詳しいとは思ってないさ」
「……美しい花だな。どことなく気品を感じる花だ。清楚で愛らしく、厚い花びらは触りがいがある。花を両手で包みこむと、まるで白い小鳥をこの手で養っているような心地がする」
男がこちらを見ているのが分かる。私はそちらを一度も見ないまま白木蓮を見つめる。
「そういえば近所の娘子が野花を髪に挿しているのをこの間見たが…」
今度はそちらが焦れる番だ。
「俺は女子供とは違うが、それでもあの花ならば髪に挿したいと思う」
小さく首を傾け花を見やると、白木蓮が恥ずかしげに、それでいて嬉しげに枝を震わせた。
恋人が死んでから鋏を入れていないため、少し伸びた私の赤髪が頬で揺れた。
「───参った、俺の負けだ。またすぐに訪ねる」
男はしばし息をつめた後、やれやれとでも言いたげにかぶりを振った。
「だから花を簪にして髪に挿すのは止めてくれ」
顔は庭に向けたまま、視線だけ寄越してやると男の手が伸びてきて、優しくそちらを向かされた。伸びた髪を耳に掛けるように、男の浅黒い指が私の耳裏をなぜた。
「そういえば、さっきお前は白木蓮が『次第に飽くだろう』と言ったな」
「ああ、言ったぞ」
男の顔が近づき、吐息が肌に触れた。顔は男によって向き合わされているが、視線だけは庭の白木蓮にくれてやる。
まだ日はあるのに、花が次第につぼみかけている。当て馬にされて臍を曲げたのだろうか。
「しかしお前は、『人はいさ───』と歌にもあるじゃないか」
───人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂いける
かの有名な紀貫之が詠んだ歌だ。人の心はさあ分からないが、花の香は昔と少しも変わらない───と心変わりした人に向けた皮肉めいた歌だ。
「俺の心は変わらない」
強い目で言われ、私はやっと恋人を正面から見据えた。待ちかねたように唇を奪われる。
「死んでも変わらんのだ。もう変わりようがない」
私の機嫌が直ったのが分かったのだろう、また男は性懲りもなく悪い笑みを浮かべ言った。
「馬鹿は死んでも直らんというのは本当らしい。すまんなユースタス屋」
つくづく懲りない男だ。こんなとこまで律儀に生前と変わらない必要はない、と諭したくなる。
「もうお前など知らん!早く帰ってしまえ!」
男の肩を押して無理矢理体を放し、絵に向けて押しやった。
「言われなくとも帰るさ。だが、また来るぞ、ユースタス屋」
赤い顔した私を男は笑いながら、縄を解き、身軽にボートに飛び乗った。
「また来る。きっと、すぐに、だ。だから心変わりなぞしてくれるなよ」
「……」
また猫の子が窓ガラスを引っ掻くような、鶯張りの廊下を踏むような音をさせボートはみるみる小さくなった。やれやれというように押し分けられていた睡蓮が元の位置に戻ってきた。しかし数が一つ足りない。
はて、と思い足下をみると、ボートに押し出された睡蓮が一つ床の間に落ちていた。
両手でそれを掬い、濃い桃色の花びらに唇を寄せた。睡蓮の花言葉は「清純」「甘美」。
「ふん、心変わりだと?馬鹿は死んでも直らんと、お前が言っただろうが」
赤い光に包まれた庭に降り、池の淵にかがむ。着物の袂を片手で摘まみ、絵同様光を集めて作ったような池に花を浮かべる。
最初からそこにあったように睡蓮が池に収まるのを満足げに見届け、裾を払って立ち上がる。
さて、夕餉の用意をしなくては。

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