サクラグモ



※お別れの日注意


桜の花の命は短い。
盛りをすぎた桜の花びらが、音もなく乾いた地面に降り積もる。桜並木が続くこの道は、永遠のように花びらの道が続いている。
遠くから見れば、この情景は美しいのかもしれない。だが、実際に歩く人間から見れば、踏まれ擦られ土にまみれた生しいものが、散々に散らかる道でしかなかった。

人の命も然にありなん。

美しいのはほんの一時。風に舞う様も降りしきる様も愛でてしまえば、地に落ちた花に用はない。数日前に褒め称えた花を踏み、まだ木に残る花を見上げ、「まっこと良き日」と口々に人々が詠う。
この骸の道を、二人の男が歩いていた。
一人は薄茶色の下等兵士の軍服を着、一人は桜に灰色を混ぜたような着物に、檜皮色の羽織を合わせている。
着物の男は軍服の男の三歩後ろをしずしずと着いて歩く。二人は言葉を交わさない。ただ花の雪を軍帽に、赤髪に受け、静かに春の祝福を受けて歩む。
花の骸を踏み越えて、二人が向かう先には、白煙を吐く大きな駅舎が建っていた。近づくに連れ人は増え、次から次に駅舎に飲まれていく。

―――ざわざわざわ

駅舎に入ると、先程までの花の悲鳴まで聞こえそうな静かさは一変し、人の声と足音と、振られる旗のさざめきの音が押し寄せる。
静かさと共に春の名残を振り落としながら、改札をくぐり人々はホームに向かう。そこにはすでに、遥か尾を引く列車が口を開けて待っていた。
流れる人波に任せ、二人の男も列車に向かう。
若い女が、恋人であろう男に守り袋を渡している。年老いた夫婦が、敬礼するまだ幼さの残る少年の肩を抱いている。何も分からぬ幼子が、涙ぐむ父に必死に国旗を振ってみせている。赤子を抱く母が、憂れう夫にやつれた頬に気丈に笑みを浮かべて見せている。
駅のホームのそこかしこで上映されるいくつもの映画を抜け、列車の黒い口が間近に迫ったところで、着物の男が足を止めた。その三歩先を行っていた男も、二歩さらに進んだところで足を止めた。二人の距離はわずかに五歩。大きく歩めば三歩に如かず。
全てのざわめきが二人の間から押し退けられると、軍服の男はブーツの踵を鳴らし、'回れ右'。軍服の男と着物の男は互いに向き合い、駅のホームの映画の一本になる。

「―――俺は、行く」
「……はい」

二人は、互いの爪先ばかりを見つめたまま言葉を交わす。響く言葉に揺れる感情はなく、虚無ばかりが存在しているようだ。
「神国の一員に恥じぬ働きをしてこよう」
「はい―――神つ風が吹きますことを」
「死んで故郷に錦を飾ろう」
「はい―――不肖の身ではありますが、この地でご武運をお祈りしております」
着物の男は、貞淑な妻のように流暢な敬語で男に別れを告げる。かつては、互いに阿呆のように形ばかりの挨拶を交わすような仲ではなかった。
しかし、時代は、世間は、戦争に行く男と戦争に行かぬ男の間に、明確な線を引いていった。

「―――お国のために、死んでこよう」
「……はい、はい―――お国のために、立派に、死んでくださいまし」

着物の男は、丁寧に腰を折った。
汽笛が勇ましくいなないた。
着物の男は顔を上げぬまま、響く軍歌を耳に聞いた。
軍服の男は、眼下にある赤髪を見下ろして、何度か躊躇うように唇を震わせる。しかし、とうとう何も音にならぬまま、急かす汽笛に背を押され、列車に身を寄せる。
男が固い席に座ると、拍子に、どこかに残っていた桜の花が膝元に落ちてきた。
「……」
男は、浅黒く細い指でそれをひらうと、灰色の戦場に向かう兵士の出発には不似合いな、残酷に長閑な春の光に目を細めた。

わぁ―――

歓声が上がった。
列車の勇み足が次第に高まる。
軍歌もそれに連れ大きくなる。
手旗を振る音が、まるで大群の虫の羽音のようだ。

着物の男がゆるゆると頭を上げると、目を伏せたまま列車を見送る。
しかし、列車の最後尾がちょうど目の前を過ぎるときであった。

「―――待って!」

男は、弾かれたように声を上げた。
誰かに押されたようによろめいて、何かを掴むように手を延ばす。足に絡む着物にふらつきながら、人波をかき分けて列車を追った。
「―――待って、待ってくれ!」
毒々しいまでに赤い手旗の波の穂を踏んで、男は駆ける。桜色の草履が必死に地を噛む。
「お願いだ!」
いつの間にか後から後から涙が頬を伝っていた。涙の骸を地に積もらせ、男は駆けた。
「あ、あ!―――」
とうとうホームが切れてしまった。列車は、とっくにその身を小さくし、山の合間に消えてしまった。
男は、途切れたホームの端に崩れ落ちた。項垂れた男の目は、風に吹き寄せられたのか、膝元に落ちた薄紅の花を見つけた。
「……」
男は、白く細い指でそれをひらうと、永遠かもしれない別れには不似合いな、残酷に長閑な春の光に目を細めた。
桜の花を手の平に乗せると、男は檜皮色の袖に濡れた顔を押し当てた。袖口が涙の骸で濃く染めなおされる。嗚咽に混じり、声にならない慟哭が上がる。

―――ご武運をお祈りしております

(言わなかった)

―――お国のために、立派に死んで、くださいまし

(待っております、と)

―――お国のために

(生きて、どうか生きて帰ってきて、と)


―――俺は、行く

(言わなかった)

―――死んで故郷に錦を飾ろう

(待っていてくれとも)

―――お国のために、死んでくる

(忘れて、俺を忘れてしまえとも)


(言えなかった)
(言えなかった)


ほんに美しく、翳りもない、突き抜けるように澄んだ春の一日があった。
誰も疑わず、みなが真っ直ぐに勝利を信じた時代があった。
生きたいと願うことが罪せらるる世があった。
―――時代に、世に、逆らえず、言うべきことも言えぬ人々が、かつてあった。


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