※流血・怪我注意 この肌寒い季節、男は、上は薄手のTシャツ一枚に下はジャージ、靴も靴下もはかずサンダルという体感温度が狂ったような格好で外気に触れていた。男はこぎれいなアパートの、一階と二階を繋ぐ階段の真ん中に我が物顔で座り込んでいる。一応階段にはコンクリートの壁があり、直接風を受けることはないが、冷え切った空気と凍土のようなコンクリが男の体温をどんどん奪っているはずだ。やはり、正気の沙汰とは思えない。 しかもこの男、たったいま喧嘩を終えてきたように、全身が傷だらけであった。右目の周りには青黒いあざがふちをつくり、口端は切れ血が滲み、鼻の下には乱暴に拭った鼻血の跡がかすれている。頭部にも怪我をしているのだろう、額から頬にかけて赤く細い筋が通っている。いつもは逆立つ自慢の赤毛も心なし力がない。Tシャツも皺が寄り、襟や袖は伸び切って男の肌を晒している。襟からのぞく白い肌にも、殴打の跡や引っかき傷がいくつもみえる。 しかし、階段に座り込み、傷と冷気に体を蝕まれているはずの男の表情にこれといった感情はみえない。これが自分の日常だとでも言いたげに、自分の姿に一切感情を見せず、携帯でぴこぴことゲームに興じている。 男の名は、ユースタス・キッドといった。 キッドは、20分ほど前に部屋からのっそりと出てきてこの場に陣取ってから、ずっと動く気配を見せない。どこかに行く気も、部屋に戻る気も、誰かを呼ぶ気もない。ただ、「当然」という名の確信を持ってその場に座り続けていた。 それから5分後、確信は現実となる。25分前にキッドが気だるげに開けたドアを、浅黒い腕が落ち込んだ様子でドアを押し開けた。 ―――ドアを開ける音、ドアが閉まる音、廊下をずるずると歩く音、階段をためらいがちに降りる音。 全ての音は階段に座るキッドに届いているはずだが、キッドは何も反応を示さず、携帯の画面を半分上の空で見つめている。 「……」 とうとうキッドの座る段の一つ上まで来た足音は、そこで鳴り止んだ。黒いセーターに黒いジーンズをはいた男は、キッドの一つ上に座り込み、両脚と両腕でキッドを抱きすくめた。その背にすがりついた、という方が似合っているかもしれない。 「ごめん」 キッドにすがりつく男、トラファルガー・ローはキッドの冷えて傷だらけの首筋に頬を額を押しあてた。 「別にいい」 キッドはやはり携帯から視線を上げないまま、すげなく言った。 「ごめん……俺、ちょっとやりすぎたよな?」 「だから、別にいいって」 ローは、すんと鼻をひとつ鳴らして両腕にギュッと力を込めた。 携帯のスピーカーから、相変わらず電子音が鳴り続け、とうとうレベルアップを告げる音が鳴った。 喧嘩の原因は些細なものだった。 ローと出かける約束をしていた日に、キッドが友だちと遊びの約束をしてしまったのだ。約束の重複、ダブルブッキング―――世間のどこにでも、どんな間柄にでも起こるような些細な些細な喧嘩の原因だ。キッドが、満身創痍を絵にかいたような姿になる理由としては、本当に些細過ぎる原因だった。 確か最初は口げんかだったはずだ。当日になって約束の重複を思い出したキッドが、友だちとの約束は夕方なのでそれまでに家に戻りたい、と提案した。恋人との約束も破らず、友人との約束も破棄しない、素晴らしい提案だと自身は思っていた。しかし、ローにとってはそうではなかったようで、約束を忘れられていたローは、最初ぽかんと口を開け、それからキッドの提案を聞いて子供のように駄々をこねだした。キッドは自分に非があると分かっているので、様々な提案をし、謝罪し、宥めすかした。しかし、どうしても腑に落ちないローにキッドもとうとう腹を立て、「付き合いきれねぇ!」と怒鳴ってしまった。 どちらが先に手を出したのか分からない。 強面で、がたいもいいキッドは、殴り合いの喧嘩で負けたことはなかった。だが、その見た目に反して喧嘩にたいして大人なキッドは、力の加減を知り相手のことを考えながら喧嘩することができた。どれくらいの力で殴れば人は怪我するのかや、下手にいなせば相手が危ないことを知り尽くしたキッドは、ローに対してほとんど為されるままであった。 反対に、頭が良く、いつも落ち着いた印象のあるローは、その反面、キレると子供のように癇癪を起した。子供は、力の加減を知らない。子供が親に遊んでもらっている最中に、力の加減が分からず親に怪我をさせてしまうことはよくあることだ。そうやって、キッドに対し本気で手を上げるローは、たびたび喧嘩でキッドを傷だらけにしていた。 「なぁキッド、俺のことはいいからダチんとこ行っていいぞ」 ローはぐすぐすと鼻をすすりながらキッドの首筋の爪痕に舌を這わせた。猫が、爪をたてた主人の手を申し訳なさそうに舐める仕草に似ている。ごめんねごめんねでも私が悪いんじゃないのよ、と言いたげな猫の瞳を思い出す。 「……はぁ」 キッドはため息をつき、やっと携帯の画面から視線を外した。 「こんなかっこでダチんとこ行けるわけないだろ…」 呆れた目で自分の前に回された刺青だらけの腕の先を見る。ローの爪には乾いた赤いものがこびりつき、少し欠けている。 「もうとっくにダチとの約束は断わった」 キッドの携帯から、ゲームオーバーを知らせる残念気な音楽が流れる。 「本当か!?」 「ああ」 「ああ!―――本当に悪かったよキッド。ごめんな、ごめんな」 ローはキッドの首筋に何度も唇を落とし、顔を抱きよせこちらを向かせると、その唇にも謝罪を落とした。 「―――っん」 唇を舌で探ると、鉄錆の味がした。一度顔を離してみると、白い肌に浮く赤い唇に、一際赤い亀裂が下唇に縦に入っていた。血は出ていないが、真っ赤な肉の色を晒す唇に、征服感と庇護欲があふれ出る。 下唇を己の唇で食み肉の味を味わう。その鉄錆の味に誘われるまま、鼻の下から頬にかすれる血の跡を舌で追う。「はぁ…!」 時折鼻の穴まで舐め上げたローは、温い吐息を吐きだしたキッドをようやく離した。 「なぁ、今日は俺が飯作るよ。買物も行ってくる。お前は部屋で休んでろよ」 先ほどまで叱られた子供のようにしょげていたのに、今は機嫌よく、幼い子供にするように啄ばむような口付けキッドの頬に繰り返す。ちゅっちゅっと耳元で鳴る音に顔を顰め、キッドはローの顔を手のひらで押しのける。 「やめろ!気色悪ぃ」 「まずは傷の手当てだな―――可哀想に、こんなに冷え切って!すぐに温めてやるからな」 ローは己よりも上背のあるキッドの手を取り立たせると、その腰を抱いて階段をのぼりだす。 二人分の足音が、冷えたコンクリートに反響する。 キッドは今にも吐き出しそうな顔で斜め下を不満げに睨みつけながら歩いていたが、ローがさらに腰を引き寄せようとしたとき、眉根を盛大に寄せ、くわりと吠えついた。 「いてぇ!腰にもあざできてんだ!優しくしやがれ!」 ローはキッドの強面も間近で眺めながら、いやらしく笑った。 「『優しく』って―――どっちをだ?」 手当てか?それとも――― 絡みつくようにキッドの耳元で囁いたローは、一瞬のうちに愛のこもった力加減で頬を張られた。 「死ね!」 乾いた音が冬の空気を裂く。その後、金属の扉を叩きつけるように閉じる音が響いた。電線の上でのんきにさえずっていた鳥たちが驚いて飛び上がった。だが、当の本人はねじを落っことしたようなだらけ切った笑顔でキッドの後を追って部屋の扉に吸い込まれた。パタンと優しい音をたて、扉の閉じる音の余韻も消えたころ、鳥たちはやっと、やれやれというように電線やアパートの屋根に戻ってきた。チチチ、チチチとまた鳥たちの世間話が再開される。 だが、それも長くは続かず、今度は部屋の中から男の怒鳴り声と、暴れる音が建物と空気を揺らし、また鳥たちは虚空をさ迷うことになるのだが、それはまた後のお話だ。 |