※「あの子のスーツケース」のその後。ドフラ先輩出演。 「―――あんた、また違う女のニオイする」 部屋にいるとき、俺はいつも鍵をかけない。それを知る男は、チャイムもなくいつも突然現れる。今日も、気まぐれにのそりと現れた男は、この前とはまた違う女のニオイをさせていた。 「あん?―――お前鼻いいなぁ」 男はピンクのド派手なコートに鼻を埋め、首を傾げながら言った。 「いい加減にしねぇといつか刺されるぜ」 ソファにだらしなくもたれ掛り、ゲームをしていた俺の隣に腰掛け肩に腕を回してくる男は、何が楽しいのか胡散臭い笑みを浮かべている。 「嫉妬しちゃう?」 「……しねぇよバカ。性病なったら俺に近づくなよ」 声におかしなところはなかったろうか。 こんなこといつものことだ。そう、いつものこと。なのに、いつもひくつく喉を抑えられなかった。 ゲーム画面の中では、俺が操る胸のでかい立派な足の中華娘が、胸毛の濃いレスリングパンツの筋肉男に百裂脚をお見舞いしている。 殺れ、殺れ、殺っちまえ。俺の中のもやっとした気持ちを中華娘がきつい蹴りに変える。全部全部吹っ飛んじまえ。 「愛してるぜ―――キッド」 耳元で突然、八度七分の愛がささやかれた。 「―――!」 驚く間に、男の酷薄な唇が、俺の赤い熱を掠め取る。 忙しなくボタンを連打していた俺の指が強張る。コントローラーが悲痛な叫びをフローリングで上げた。 こんなこと、いつものことだった。そう、いつものこと。 何でもお見通しのこの男は、俺の部屋の鍵がいつも開いてることも知っている。俺が、どうして鍵を掛けないのかも、知っている。知ってるんだ、俺がどういうときに機嫌を損ねるかも―――全て、お見通し。 動きを止めた中華娘が、画面の中で筋肉男に連続コンボを決められている。ゲージがみるみるうちに減っていく。ああ、黄色から赤に。 ロシア出身の筋肉男の必殺技、フライングパワーボムが中華娘を固い地面に沈める。 ―――You lose 画面に中で上がる声。 俺の負け。いつものこと。 この男の前で、俺の頭の上のゲージに黄色が残っていたことはない。 「お前が一番だぜ、キッド―――」 ああ、今日も真っ赤。ゆーるーず、だってさ。 俺は今日も、固い地面の代わりに、残酷なくらい柔らかなソファに沈められる。 「You lose」 ■ 俺は薄墨の中、目を覚ました。 慌てて頬を探る。よかった、濡れてはいない。 もう一度枕に深く頭を沈めると、密やかなため息が漏れた。安堵のような、切ないような、ため息が。 部屋は夜明け直後の静謐な空気を孕んでいた。部屋の様子が分かる程度には明るいが、まだ輪郭をはっきりさせるほどの光は届いていない。 「……」 顔を上げて隣の男を見る。仰向けに眠る男は、顔だけをこちらとは逆の窓側へ顔を向け、意外に鍛えられた胸板を上下させ深い眠りについている。 男の向こう側に、ガムテープが乱雑に貼られた割れた窓ガラスが見えた。あの日、俺の甘酸っぱい純情を詰め込んで、宙を飛んだスーツケースが飛び出した穴だ。 俺はひどくうしろめたい気持ちを抱いた。俺はいま、違う男の夢を見ながら、この男の隣に眠っていたのだ。 「ロー」 罪悪感に耐えられず、俺は眠る男に声をかけた。 裸の手を伸ばし、そっぽを向く男の、こちらからは見えない左頬に手を添え、こちらに向かせる。 ひどく、不安になる時間帯だった。誰かの熱がとても恋しくなる時間だったんだ。 「ロー、起きろ」 ぺしぺしと頬を張ると、一度しばたいた男は目を固く閉じ身じろぎ唸った。 「なんだ、キッド……」 寝起きの掠れた声がとても愛しく、俺は少しだけ空いていた距離を埋める。 「ロー……」 「ん……」 「ロー……キスしろ」 頭を胸に抱いて、キスをして、忘れさせて欲しかった。そうでないなら、めちゃくちゃにして、叱りつけて欲しかった。 ひどく甘えた考えで、卑怯者なんだろうと思う。だけど、まだ、一人で泣けるほど俺は強くなれていなかった。 「キッ、ド?」 平気な顔で平気な声でいたつもりだったが、こいつは何かを敏感に察し、さっきまでの寝ぼけ眼を一気に覚醒させた。普段は低血圧で寝起きは最悪のくせに、こういう時だけすぐに目を覚ます男のヤサシサに、いつも俺は残酷に甘えてしまう。 「……悪い夢でも見たのか?」 「……っせぇな―――いいからキスしろ」 ―――そんなわけあるか、ガキじゃねぇンだぞ、と噛みつくにはあまりにも男の読みは正確だった。 「忘れたい、夢だったのか?」 男は、まるで俺が泣いている様に、そっと頬を撫でた。そこを涙が伝っているように、親指が目じりまで拭いさる。 「!」 ふいに涙がこぼれてしまった。俺は驚いて、男の手を退けて自分の手で顔の半分を覆った。 「……そうか」 「ちがっ―――!」 慌てて否定しても、壊れた涙腺は後から後から冷めた涙をこぼした。 ちくしょう、俺は悪くないぞ。男があまりに敏いから、頬を撫ぜる手があまりに優しいから、訳もない涙が流れてしまったんだ。 「……くそ……も、いいから、キス、しろ」 俺は涙を止めるのを諦め、男の胸に頭を押し付けた。 「四十二度のキスで、俺の脳細胞壊してくれよ」 真っ白に煮える俺の脳細胞。記憶も思い出もただのたんぱく質だって言ってくれ。 全部全部、真っ白に。 「―――」 額に押し当てられた唇に、俺はのろのろと顔を上げた。 「ん」 すると今度は唇に熱が重なった。 触れるだけですぐに唇は離れ、熱はすぐに夜気に掠れた。 「……」 「……それじゃあ、六度三分ってとこだ」 「―――忘れなくていい」 「あ?」 「忘れなくていい」 「……」 児戯のようなキスに照れ、また俯きかけた俺のつむじに、めったに聞けない男の真剣な声が降った。 「お前が本気で好きになったことも、お前が本気で傷ついたことも―――全部」 「……」 「全部、全部、覚えてろ―――全部全部、俺がそれを塗り替える―――」 「……!」 男の言葉に、俺は最初目を丸くしていたが、男のバカみたいに真剣な目を見ているとふつふつと笑いが込み上げてきた。 「ハハッ……おま、その自信、プッ、どっからくんだよ、」 「お前に愛されてる―――ってとこからだ」 「ククク……お前ほんと頭いいのか悪いのか分かんねぇやつ」 肩を震わせて笑っていると、身体の揺れに合わせ、シーツに染みがいくつも増えていった。さらさらと自然に涙がこぼれていく。 俺はもう、いろんなものを諦めて、阿呆のように真剣な目の男に力一杯抱きついた。 「ぐえ」 男が呻いた気がするが気にしない。俺の愛の力だ、命がけで受け止めやがれ。 バカはどこまでいってもバカなのだ。バカはバカらしく、悔んだり、悩んだり、気にしたり、ためらったりしないで、目の前の幸福をむさぼることに必死になろう。 「おい、ロー、もう一回だ―――今度は、もう少し熱いのにしな―――」 |