いつかの二人



午前4時―――
夜明けの光はまだこない。草も木も、人も動物も眠っているのだろう。静かさが世界を占める時間帯だ。
しん―――と耳に痛いほどの沈黙が屋敷に充満している。自分の呼吸の音すら押し殺さなくてはいけないような気がする。
街中ならばいざ知らず、街から外れた高台の上に建つこの屋敷には光も音もなお遠い存在だ。

全てのものが眠りを促すこの時間に、クロコダイルは静かに目を覚ました。

夢を見たことによる目覚めではない。生理現象による目覚めでもない。意識が醒めわたり、意に反して瞼がスッと開いてしまうことが時折あった。
夜明け前の神聖な空気を静かに肺に取り込み、クロコダイルは起き上がった。
春先とはいえ、日の光のない時間帯はまだ薄ら寒さが満ちている。不快ではない。むしろ冴えた空気が心地よかった。
クロコダイルは殊更ゆっくりと服を選び、服を着替える。床が軋む小さな音、シャツの衣ずれ、空気の翻る音―――これらは夜明け前の静かさになんら異物ではなかった。むしろその静かさの美しさを飾り立てる。
全ての動作をゆっくりゆっくり行うのは、それが夜明け前によく似合うか らだ。こんな 静謐な空気の中にあって、急いだり、また逆にだらけた動きをするのは、無粋である。ゆっくりと、だが折り目正しく優雅に動くべきなのだ。
そうして着替えを終えたクロコダイルは、数枚のコインをポケットに詰め、美しさの籠る屋敷を出たのだった。



朝―――薄いカーテンを抜け、光が落ちるベッドの前で、ドフラミンゴは黙って立っていた。
光の中を埃がきらきらと乱反射する。窓の外には春のまどろむ空気が窓を押し開けようとしている。
ドフラミンゴの目の前のベッドに、その主はいない。皺の寄ったシーツと、少し端寄る布団、それから脱ぎ残されたパジャマが放られているだけだ。
しばらく黙って、この部屋の主の残したものを見つめていたドフラミンゴは、パジャマとシーツを抱えるとリネン室に向かった。洗濯機を回し、コーヒーを沸かし、朝食を用意する―――それが爽やかで美しい朝に相応しく、なすべきことの全てなのだ。



屋敷を出たクロコダイルは、高台から歩いて街を目指していた。車は屋敷にあるが、エンジン音を聞きたくはなかった。
時間はかかるが、歩いているうちに夜が明け、バスや電車も動く時間になるだろ う。
疲れたり、息が上がらぬようにゆっくりとした速度で歩く。夜明け前に相応しいように振舞う。夜明け前に溶け込むように、空気に、世界に、溶け込んで一つになるように。

―――街に着いたらまず何をしようか

夜明けの近い遠くの海を見下ろしながら考える。まずコーヒーを飲もう。朝はコーヒーの香りと遠くで聞える洗濯機の働く音を聞いて過ごしてきた。コーヒーの香ばしい香りと苦みがなくては朝が始まらない。
街に着いたら喫茶店を探すことに決めた。しかし、ポケットに詰めたコインのことを考えるとクロコダイルは決心が揺らいでしまった。ポケットには数枚の金貨と銀貨しかないのだ。普段コインや紙幣を使わないクロコダイルの手元にあったのは、何かの時のためにと机に放りこんでいた金貨銀貨だけだった。
たったコーヒー一杯のために銀貨を出すのか―――まるで外で買物をしたことのない金持ちの坊ちゃまのようで情けない。
クロコダイルの眉間にだんだんと皺が寄ってきたが、すぐに細いため息と共に消えた。いつかはコインを崩さなくてはいけないのだ。それならば早々にこの試練を終えてしまおう。
クロコダイルは、夜明け前に似合う 厳かで静かな足取りを少し軽いものにした。夜明けが近いのだ。
夜明けには、軽快で快活な足取りが相応しい。



昼食を終えたドフラミンゴは、街に買い物に出ることにした。夕食の食材や生活に必要な諸々の品を買いだめしなくてはいけない頃だ。
何が足りていて、何が不足していたか。頭の中にメモを取りながら、テレビのチャンネルを回した。和やかな昼間に相応しい、健全で明るい笑いに満ちた番組の中、天気予報のチャンネルを探す。白い歯をこぼし、気象情報を伝えるポロシャツ姿の男が、今日は一日からりとした良い天気である事を知らせてくれた。
その男の言葉を信じ、洗濯物は帰ってからとり込むことにしたドフラミンゴは、愛車のキーをくるりと回し車庫に向かった。
昼間には、背筋を伸ばし大股で歩くのがよく似合う。



隣町のそのまた隣の隣の隣の町の駅でクロコダイルは電車を降りた。一度も行ったことのない小さな町だった。
クロコダイルは町中を歩き回った。商店街を冷やかし、住宅街をぷらぷらと歩き、公園で昼寝もしてみた。
喫茶店の会計で尻を重くしていたコインたちは、電車代や買い食いを繰り返したおかげ でだいぶ軽くなっていた。ジャラジャラと耳障りな音もなくなり、チャリチャリと鈴の転がるような音にかわっている。
知らない場所で一人なのは気が楽だ。下手に知っている地で一人でいるよりもずっといい。ここに、自分を知る人間はいない。
公園を出て、町中を歩いていると、小さな川が流れていた。行くあても目的も最初からないクロコダイルは、川の流れに沿って河原を歩くことにした。
水面が太陽に当てられ、水というより光が川になって流れているようだ。光が目に飛び込み、眺めているとじわりと涙が滲む。
まぶしさに顰めた顔に、突如ぴゅっと冷やい風が吹きつけた。夕暮れが近いのだ。風の中に、傾く日の光の匂いが混じりだしていた。
クロコダイルは河原に咲いた名も知らぬ花を数本摘むと、適当に川中に放る。

―――この川はきっと海まで続くのだ

花が視界から消えてしまうまで見送って、やっとまた歩きだす。今度は、いままでよりすこぅし速い速度で。
日暮れ前には、感傷と速足が相応しい。



オレンジ色に染まる坂道をしっかりと踏みしめて歩く。一歩一歩着実に。
空にある巨大な天体は、溶け落ちそうな橙色に染まっていた。しっかりと道を踏みしめ歩かなくては、熱い暖色に惑わされ、踏むべき道を違えてしまうだろう。
長い長い坂道に、動悸が早鐘のように打つのも、息が次第に熱くなるのも咎めない。
夕暮れには、憂いと不安を払う努力をしなくてはいけない。
吹きぬける風に声が混じる。どこかに攫ってしまおうと囁き合う。
クロコダイルは俯いていた顔を上げて街を見下ろす。オレンジと黒のコントラストに踊る街はおもちゃのように愛らしい。なんと不思議なことだろうか。あのマッチ箱のような家一つ一つに別々の家庭があり、それぞれ違う人間が住まうのだ。当然の事実が時折手のひらをかえて目前に疑問となって立ち現われる。
いけない、夕暮れ時はいけない。人を惑わせる時間だ。追い風がいつか自分を捕まえてしまう。
クロコダイルは足を速めた。
夕暮れには、強がりと駆け足が似つかわしい。



ドフラミンゴは屋敷の玄関で待っていた。ポケットに手を入れ立ち尽くしたまま。
屋敷の影はぐんぐんと伸びていた。誰かに手を伸ばすように。はやく、はやく帰ってこいと。
そうやって必死に手を伸ばすのに、屋敷もドフラミンゴもその場か ら動こうとはしない。本当は、高台を駆け下りて彼を迎えに行きたいというのに。

―――動いてなどやるものか

ドフラミンゴは嘯いた。
クロコダイルが急に消えることは時折あることだ。一日で帰る時もあれば、数日帰らぬ日もある。
その度にドフラミンゴは不安に駆られるのだ。帰ってくる、あいつはちゃんと帰ってくる。だけど今度はもしかしたら―――
いつもそんな思いを抱えて過ごす。だけど、探しになぞいってはやらない。悔しいからだ恨めしいからだ。一人残して行ってしまうあの男が。だから―――

―――動いてなど、やるものか

夕暮れには、強がりと焦燥がよく似合う。



屋敷の前にできた巨大な影の中、男が立っているのが見えた。
クロコダイルは、上がっていた息を整え、何事もないような足取りで殊更ゆっくりと屋敷の影に踏み入った。
夕暮れに似合いの強がりで。

「おかえり」
「……ただいま」

ドフラミンゴの数歩前に辿り着いたクロコダイルは、ほんの少しだけ強がりを崩し、拗ねた表情をちらりと窺わせた。こちらが歩み寄っているのに、あちらは一歩も動こうとしないのだ。夕暮れ に似合いの焦れた思いを抱えここまで来てしまった。
暗い影の中、挨拶を交わす。
ドフラミンゴはニカリと笑いクロコダイルの肩を抱き寄せ、玄関に促す。夕暮れに似合いの焦燥を消して。
「夕飯の用意はできてるぜ」
「……当たり前だ」
夕暮れの中立ちっぱなしだったドフラミンゴは、クロコダイルの上がった体温をじわりじわりと吸い上げる。
夕暮れの中坂道を駆け上って来たクロコダイルは、ドフラミンゴの心地よい冷たさをじわりじわりと享受する。

二人は二人で平熱を保つ。

ちゅっとリップ音をたてクロコダイルのこめかみにキスが落ちた。
クロコダイルは眉根を寄せた。まだ屋敷の影の外には、強いオレンジが虚勢を張っている時間帯だ。
「……まだ日暮れ前だぞ」
「いいやクロコダイル―――ここはすでに夜のうちさ」
「へりくつを……」
クロコダイルは三日月のように笑う男に呆れたように言い、今度は自分から男の顔を引き寄せ唇に吸いついた。
その姿は、やさしい屋敷の夜が暗闇で包み隠した。

夜は、素直な二人が相応しい。


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