a skeletons in the closet 1



※映画「シャーロック・ホームズ」のパロ。

ロンドンの空は昼間でも薄暗く、低い。
建物に切り取られた空を帽子のつばから見上げながら、ユースタス・キッドは我が家へ向かう足を速めた。
特に急いでいるわけではない。だが、この都会では誰もが忙しそうな顔をして、生き急ぐように足早に通りを過ぎていく。時々機嫌のいい金持ちだけが、道端に座り込む哀れな格好の男たちに金を投げ与える。
「!―――失礼」
突然角を曲がって現われた男に、キッドの手にしていたバッグがかすめた。しかし、男は無言のまま何事もなかったように人の流れに乗って見えなくなった。
都会の人間が特別他人に冷たいわけではない。ただひたすらに他人に興味がないのだ。怒りという感情すら起こらないほど。
はあ、と小さくため息をつき、キッドは元から寄りぎみの眉間をさらに寄せた。強面の顔がさらに険しい表情になる。
こんな強面をしているキッドの仕事の一つは、意外なことに医者という堅く高尚なものだった。
今も医者としての仕事を終わらせ帰る途中だった。今日の仕事は今朝早くに見つかった娼婦の変死体の検死だ。検死は特に問題もなく、女の身体に刻まれた十数カ所の刺し傷から凶器の形状やサイズはすぐに特定できた。凶器の発見はまだだが、顔を狙った傷が多く、死んだ後も何度か刺していることから犯人は被害者に恨みのある人物ということ、傷のでき方から犯人は左利きということまで分かっている。しかも、この被害者にしつこく言い寄り、そのたびに冷たくあしらわれていた左利きの水夫が昨晩から行方が分からないという。
今回の事件にキッドのもう一つの仕事が必要とされることはなさそうだ。
キッドは仕事道具の詰まったバッグを持ち直し、気合いを入れるように帽子を深く被り直した。これから帰る我が家には、キッドに対し雄弁に語りかける死者よりもやっかいな生者が待っている。
はあ、と先ほど吐いたため息とは込められた意味の違うため息を吐いて、気を抜けば帰路から外れたがる自分の足を叱咤し、歩き慣れた道を踏みしめた。



「………」

キッドは、帰宅して早々階段の上で震えるキャスケットを被った男を見つけるや否や、素晴らしい反射神経で踵を返した。
「ユ、ユースタスさん!」
しかし、まだ開けたままの玄関の扉を閉じるより先に、震える男の震えた声に名を呼ばれた。
「…………どうした」
たっぷり時間をかけこのまま扉を閉めるかどうか考えたが、あまりに哀れな男の姿に同情し体を家の中に戻してやった。
震える男は、玄関に立つキッドを目にしたとたん、安堵の笑みを浮かべヘニャリとその場に崩れ落ちた。
「またあの馬鹿に変な薬打たれたのか?」
階段を登りながらキッドはため息交じりに尋ねる。階段の左手と右手にはそれぞれ部屋がある。キャスケットが震える原因は恐らく、いや間違いなく右手の部屋にある。左の自分の部屋で問題が起こることは万が一にもない、とキッドは断言できる。
「ち、違います…今回は」
キャスケットの言い方では前回はキッドの言うとおりであったようにとれる。いやしかし、事実そうであったのだから仕方ない。
「ローさんの部屋から発砲音が何度もして―――」
パンッ!
聞こえてるぞ!とでも言うようにキャスケットの言葉を遮り、軽い発砲音が屋敷に響いた。
「うひゃあ!!」
キャスケットの止まりかけていた震えがまた一段と大きくなる。このまま放っておけば、ここを震源地にロンドンが地に沈むかもしれないとキッドはいらないことを考える。
「…たく、あの馬鹿は何やってんだよ」
キッドは頭を抱えるキャスケットを通り越し、問題の部屋を乱暴に叩いた。
「おい!トラファルガー!おい!……ちっ」
返事は―――ない。
「ど、どうしましょう…」
「…はぁ。お前は取り合えず紅茶でも入れて来い」
また涙目で震えだすキャスケットに憐みのまなざしを向け、優しく階下に促す。
「は、はい!」
この部屋から離れられるのがよっぽど嬉しいのか、キャスケットは飛ぶようにして階段を降りた。
「…トラファルガー!入るぞ!」
キャスケットがキッチンに消えるのを見届け、返事が返ってくるとは思えないが一応礼儀として声をかけ、キッドは問題の部屋に入った。
部屋に入り真っ先に目に入るのは、本棚から溢れ、机にもベッドにも床にも積み上げられた本、本、本、本、本の山。それから良く見ると、わけの分からない実験道具や、どこかの部族の何に使うか分からない民具、ナイフや銃の武器類、妙な液体の入った大小の瓶、ヴァイオリン、おもちゃなどが本の隙間を埋めるように点在している。部屋のカーテンは昼間だというのに全て引かれ、ロンドンの空より暗く、怪しさに拍車をかけている。窓も閉め切られているので、埃と古い紙と火薬のにおいが入り混じり独特の香りが充満している。キッドはその中を泳ぐように進む。
「で。てめぇは何をやってんだ」
パン!
返事代わりにまた発砲音が一つ。カラコロと薬莢の転がる音が続く。キッチンで飛び上がるキャスケットの姿がキッドの脳裏に浮かぶ。
「よお……お帰りユースタス屋、随分お早いお帰りで」
パン!
「―――俺をほっぽり出して昨晩は野郎の所に外泊」
パン!
「―――今朝は商売女とお楽しみか?」
パン!
「―――お前は自分の仕事が何か忘れちまったみたいだな」
パン!
弾が無くなったのか、これで最後と言うように拳銃が床に放られた。
キッドが弾道を追うと、壁に「K I D」の字が並んでいた。
「忘れちゃいねぇよ―――医者だ。今朝も殺された娼婦の検死をしてきたとこだ」
弾痕だらけの壁の向かい―――赤黒いベルベットのソファの上で、赤いシーツの芋虫になった男にため息交じりにそう告げた。
キッドの眉間の皺は当分取れそうにない。
「違う、お前は俺の助手だろ?」
ガバリと音を上げて飛び起き、シーツから顎鬚の生えた顔が孵化するのと同じタイミングで、キッドはきっちり隙間なく引かれたカーテンを全開にした。
「うぎゃああ!」
「―――ああ、そうだよ。俺は医者で探偵助手だ」
いくらロンドンの鈍い昼の光でも、暗闇に慣れた目には立派な凶器になる。両目を抑えてのたうつ男にキッドは忌々しげに言った。
キッドのもう一つの仕事、それは光に当てられもだえ苦しむ顎鬚に隈の男―――トラファルガー・ローというロンドンで紙面を賑わす名探偵の助手だ。しかし、事件のない時は常人にもおとる情けない生活を送るローにその面影はない。
「そうだ!探偵助手だ!間違っても!てめぇの!世話係じゃ!ねぇ!!」
一語一語強調しながら、キッドは次々に部屋のカーテンを開けていく。
「やめろ、やめてくれユースタス屋!溶けちまう!」
「溶けてなくなれこの馬鹿!―――!」
全てのカーテンを開け終え、未だソファの上に転がる男―――トラファルガー・ローのシーツを引っぺがそうと、本や机、訳の分からない実験道具を避け、部屋の真ん中をどかどか横切る途中、キッドは何か柔らかく蹴り応えのあるものに躓いた。
「?なん…」
慌ててバランスを取り、自分が蹴ったものを振り返ると、胡乱な瞳で転がる使用人―――ペンギンを見つけた。
「ペンギン!?―――おい!トラファルガー!ペンギンに何しやがった!?」
「ああ?ああー…、ちょっと麻酔の実験を…」
やっと光に慣れたのか、しょぼしょぼと瞬きをしながらローがもそもそとシーツからはい出してきた。
「何度目だこの馬鹿野郎!使用人を殺す気か!?―――おい、ペンギン!しっかりしろ!」
そんなローにクワリとキッドは噛みつく。
「いやなに、死んじゃいないさ。分量は完璧だ」
やっとソファから降りたローは、悪びれなく伸びをし、あくびを漏らした。

「ユースタスさぁん、お茶入れましたよー―――ってうわ、ローさん!」

のんきな声と共にティーセットを抱え部屋に入って来たキャスケットは、珍しくシャンと立っているローに気づき、大げさに肩を揺らした。しかし日ごろのローの悪行の一番の被害者であることを鑑みれば当然ともいえる反応だ。
「キャス。ちょうどよかった。ペンギンを運び出してくれ。俺は今から24時間振りのユースタス屋とティータイムだ」
「へ?ペンギン?……あ、ぺ、ペンギーン!」
最初はローが何を言っているか分からなかったが、キッドが床に転がる瀕死の同僚を抱えているのを見つけ、顔を青褪めさせた。
キャスケットはできるだけローに近づかないようにしてお茶をテーブルに置くと、キッドが抱えるペンギンを受け取り一目散に部屋を出た。いざとなればお互いをいけにえに逃げ出す心づもりでも、明日は我が身かもしれない相手のなれの果てに、相互扶助の精神がいかんなく発揮される。
「…ったく、また使用人が逃げ出したらどうすんだ。あいつら見つけんのにも骨が折れっていうのによ…。ただでさえこの屋敷は使用人をマウスにするって噂が流れてんだぞ!」
どたばたと時折本の山を崩しながらキャスケットが部屋を出たころ、床の埃で汚れた膝を叩きながらキッドが立ちあがりながら言った。
「その通りだからしょうがない」
「なおさら悪ぃ!」
ローはカップに紅茶を注ぎ、スコーンをかじった。今日のスコーンは膨らみが足りない。いつも菓子を焼くペンギンが部屋に転がっていたから、代わりにキャスケットが焼いたのだろう。
(今度からキャスケットだけを実験に使うか。いやでもあいつがいないと洗濯物が溜まるな…)
「まぁ、ユースタス屋、紅茶でも飲んで落ち着け」
頭の中で全く反省の色のない事を考えながら、ローは怒りでさらに逆立つ赤毛の助手にカップを差し出した。時間にすると24時間、だがローにすると悠久とも思える時間会えなかった愛しい人が目の前にいる。ローはいまだ受け取られないセイロンの香り漂うカップに、とびきり甘く汚れた毒の笑顔を垂らし、一歩、彼の人に歩み寄った。

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