あの子のスーツケース



愛しいあの子の恋が終わった。


それを知った俺は、あいつの家までの道のりを小躍りしそうな気持ちで駆けていく。今なら、サンバもジルバもタンゴもなんだって踊れそうだ。信号早く変われ、ばぁさん悪ぃなちょっとよけてくれ、おいカップル道を塞ぐんじゃねぇ。いま、こうして俺が走っているのはほんの15分前の出来事による。15分、たったそれだけの時間の前と後では、何もかもが違っている。あれ、世界ってこんなに美しかったっけ、なんて素面で叫び出しそうだ。時よ止まれ!お前はいかにも美しい!


15分前、俺の世界は灰色だった。
大学という名のモラトリウムを過ごす俺は、午前中をだらだらごろごろと過ごし、午後からの講義を受けるべくランチタイムの終わった閑散とした道を歩いていた。酷く眠い。こんな調子では講義の最中は夢の中だろう。いつもなら家で自主休講と決め込むとこだが、それでもこうやってだるい体を引きずって歩くのは、次の講義は愛しいあの子―――ユースタス屋もくるからだ。唯一色つきで俺の目に映るあの男に会える―――それ以外にあのくそタルい講義を受ける意味はない。あいつの事を思い出し、歩く足に少し力がこもった時、それは見えた。

―――あいつは。

後姿だけで分かる自分が憎らしい。見間違うはずもない。愛しいあの子の「恋人」という位置に居座る憎い恋敵。しかし、そいつの右腕の下に収まる後姿は、ユースタス屋ではない。

―――またか

浮気性らしいそいつは、見かけるたびに違うツレといる。それを見かけるたびに、ちょっとした期待と下心を隠しながら、俺はいつもユースタス屋に助言をする。別れちまえ、と。そのたびにユースタス屋は鼻で笑い、あいつも俺も遊びだと嘯いていた。だがそれでも、そいつの浮気を見かけるたびに俺はユースタス屋に知らせた。いつかとうとう愛想が尽きるのを期待して。今回もすぐに携帯を取り出した。善は急げ、だ。
「ああ、ユースタス屋か」
電話は数コールおいて繋がった。
「………」
「おい、どうした?まさか寝てたのか?もう講義始まっちまうぜ」
「……ん」
「ったく、ノートは貸さねぇからな」
嘘だ。ユースタス屋に頼まれて断わりきれたことはない。
「そういやあいつ見たぞ。また違うやつ連れてたぜ。お前もういい加減別れちまえよ」
「……た」
「は?」
「……別れた。もう、あいつとは、カンケー、ねぇ」
「は」

プツ

無機質な終話音が続く。携帯を握る手にじんわりと熱がこもる。俺の心臓はいつから左手に付いたんだ。耳元で鳴るどくどくとうるさい心音をかき分けて、ユースタス屋の声がリピートされる。別れた、別れた、別れた、別れた。
恋する男子として喜んでいいのか、友達として悲しむべきなのか。相反する二つの思いがぐちゃぐちゃとせめぎ合う。
すまん嘘だ。さっきから顔がにやけているのが分かる。俺はあと五分ほどで着く大学に背を向けて駆けだした。善は急げ、だ。
こうして今に至る。


ユースタス屋の部屋の前で息を整える。入って、なんと言おうか。慰めか、同情か、あの浮気者に対する怒りか、それとも愛の告白か。傷心につけ込む気は満々だ。卑怯?最低?好きなだけ言えばいい。そんなことどうでもいいくらい、なりふり構っていられないくらいあいつが好きなんだ。慰めて、抱きしめて、あいつの隣に座りたい。
ああ、でもあいつは平気な顔をしているかもしれない。俺の助言を鼻であしらい、不敵に笑うあいつの顔を思い出す。寝ぼけ眼でベッドに転がっているかも。気取ったポーズでソファにふんぞり返っているかも。そうなれば俺のすることがなくなってしまう。

「ユースタス屋、いるか?」

ともすれば弾みだしそうな声を抑え、一応そう声をかけてドアを開ける。あいつは、部屋にいるときはいつも鍵をかけない。不用心だからやめろと言うのだか、聞き入れられたことはない。それに俺はいつも歯痒い思いをしていた。あいつが鍵をかけないのは、いつもふらりと現われる恋人を迎え入れるためだと知っている。
同じように、ユースタス屋の部屋に入るのも嫌いだった。幽かに残る甘い香水の香り、見知らぬブレスレット、趣味の悪いトランクス、サイズのでかいシャツ、洗面所に並ぶ赤とピンクの歯ブラシ。あいつの部屋を犯す物たちに醜く嫉妬し、腹の底で黒い炎を燃やした。だが、それも今日で仕舞になるんだ。今日からは―――

「……てめぇ、何しに気やがった」
「―――ユースタス屋?」

俺は今、ものすごく間抜けな顔をしているだろう。自分から訪ねておきながら、ベッドの上で丸まるユースタス屋を前に、訳が分からないというように目を丸くして小首を傾げている。これは何だ?どういうことだ?全然、予想と違うじゃねぇか。
「…んだよ。笑いに来たのか?出てけよ、誰にも会いたくねぇ!」
俺は戸惑った。
違う。違うだろユースタス屋。
何だよその顔は。
いつもみたいに、気取って足を組んで、ふんぞり返って、不敵に笑って、「遊びだ」って言ってくれよ。
「出てけよ!」
涙でぐしゃぐしゃの顔で、充血した目で、震える声で凄まれたって全然怖くねぇよ。
そんな、本気で傷ついた姿で威嚇しても全然怖くねぇよ。それじゃあ、まるで本気で―――



俺は馬鹿だ。



大馬鹿野郎だ。どうしようもないクズで、サイテー野郎だ。人類の汚点だ。
純粋ぶるのが苦手なこいつが、本気で恋をして、傷ついて、それでも強がって見せていたことにも気付かなかった。俺は何を見てたんだ。嫉妬で濁った眼で、こいつにちらつく他人の影ばかりを探して羨んで、こいつのことは何一つ見ていなかった。

「…なんでてめぇが泣いてンだよ」
「、るせぇ馬鹿」

俺は乱暴にパーカーの袖で顔を拭った。馬鹿は俺だ。馬鹿って言った奴が馬鹿の法則は今日も正しく世界の内で働いている。
「あぁ?馬鹿はてめぇだ!」
正解。俺は心の中でユースタス屋に花丸をつけてやりながら、勝手にクローゼットを開けてスーツケースを引きずり出した。先月の頭にこのスーツケースを片づけていたこいつを思い出す。
「旅行に行って来た」―――そう言って趣味の悪いキーホルダーを押しつけてきたこいつが、どんなに嬉しそうに笑っていたかなんて、あの時の俺は気がつかなかった。
空のスーツケースを開け、とりあえず目に入った高そうな時計を放り込んだ。大学生が買える代物では到底ない時計だ。
「おい!何やってんだよ!」
ユースタス屋が被っていた布団を押しのけ慌てたように叫ぶが、無視する。あーあーあー何も聞こえません。

幽かに残る甘い香水の香り、見知らぬブレスレット、趣味の悪いトランクス、サイズのでかいシャツ、洗面所に並ぶ赤とピンクの歯ブラシ。

次々と口の開いたスーツケースに放り込まれていく。
ユースタス屋は最初に抗議の声を上げたきりで、戸惑った顔で黙って俺の行動を目で追っている。

バタン!

いっぱいになったスーツケースを閉め、しっかりと留め金を掛ける。そいつを引きずって、午後の気だるい空気に包まれた住宅街を映す窓に近づく。ユースタス屋はまだ戸惑い顔でこちらを見ている。濡れた瞳が子犬のようだ、なんて言ったら殴られるので黙っとく。
スーツケースの持ち手をしっかり両手で握りしめ、俺はそいつを力の限り窓に叩きつけた。


ガシャァァァァン!!


ド派手な音をたて、スーツケースは綺麗な放物線を描いて飛んで行った。
ばいばい過去の男。ばいばいユースタス屋の純情。ばいばい馬鹿な俺。
割れたガラスが日の光を受けてきらきらと舞い落ちていく。
「これで仕舞いだ」
穴の開いた窓ガラスに向かってそう呟き、振り返ってユースタス屋と向き合う。驚きで涙の止まったユースタス屋は、未だ割れた窓ガラスを見つめ鼓動を止めている。
俺は固まったユースタス屋の顔を両手で挟み、無理やりこちらを向かせる。

「―――ってぇ!」

遠慮のない頭突きを一つ。
「なにす―――っん!」
目の覚めたユースタス屋が喚きだす前に歯のぶつかるような、下手くそなキスを一つ。
「そんでこれが始まりだ」
唇を離して告げる。それからもう一度塩味の唇に噛みつく。
「ば、っかやろ」
大正解。止まっていた涙がまた零れだす。
一つも逃さぬようにそれを唇で受けとめながら、賢く愛しいあの子にご褒美のキスをもう一つ。

バイバイ過去の男。バイバイユースタス屋の純情。バイバイ馬鹿な俺。


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