※死体描写 木の根が大きく隆起し、木肌も凹凸が多く、3メートルと少しの高さにある木の枝は太い。 木の根元には腐って溶けた花の死骸と、それを包む色あせたセロファンが見える。 枝にぶら下がる土気色の男のため、と言うには少し時が経ち過ぎている。 「死んでるな」 ローが言葉を漏らした。目の前には死体があるというのに、その声は恐怖も興奮もしていない。 「…」 死体は死後3日というところだろう。死体はすっかり変色し、腐敗臭も漂っている。 (キッドの母親の男は、やばい組織に関わったこの男の死をすぐに耳に入れられるような職業ということか…) ローは興味なさげに死体を眺め、つらつらとそんなことを考えながらキッドを盗み見た。木を見上げていたローの視界の端で、キッドが震える気配を感じたからだ。 キッドは、この物言わぬ肉の塊が怖いのだろうか。 「…クソッ」 キッドは、確かに震えていた。だが恐怖によってではない。死体を見た興奮でもない。悔しさで、悲しみで、怒りで、色んな感情をない交ぜにして体を震わせていた。 ローはゆっくりとキッドを視線の正面に置いた。 こんな薄汚いオヤジの死体よりも、キッドから漏れる複雑な感情を残らず見ていたかった。 「クソクソクソ…!」 キッドはローなどそこに存在しないように死体だけを睨み上げ、表情と同様複雑な感情のない混じった言葉を吐き続ける。 空腹な野良犬の眼に、うっすらと、涙が浮かんでいる。 ―――なんにも 「変わんねぇじゃないかよ」 腹の底から込み上げる感情で締めあげられた喉から、絞り出すように声が零れる。 「死体なんて、見つけたって、何にも、何にも」 ―――変わらない 「クソッ…!なんだよ、クソ、なんだよ!」 (ユースタス屋) ローにはキッドが何を求めているのか、何を変えたいのか、分からない。キッド自身もきっとよく分かっていない。 (ユースタス屋ユースタス屋) だが、訳も分からず、胸中の複雑な感情に振り回されるキッドがローにはとても愛おしく感じた。 両親に支配され続けたローにとって、目の前の、手の届く場所にある、自分だけが唯一愛することができ、抱きしめてやれる存在に、歪んだ母性に似たものを抱いた。 (ユースタス屋…!) ◆ 荒っぽい性格で喧嘩でよく怪我をしていた。しかも片親の女は水商売をしているので、小さいころから虐待を疑われ、教師やなんとかという団体のおっさんやおばさんによく心配された。 だけどキッドが虐待を受けたことはただの一度もなかった。それどころか何をやらかしても、しつけのための拳骨一つもらったこともなかった。 ―――関心がないんだ 無視したり、育児を放棄することも虐待の一種らしいが、それとも違う。 必要なものは言えば買い与えてくれる。仕事がなく家にいるときは食事も出てくる。仕事がある時は冷蔵庫にコンビニの弁当やスーパーの総菜が詰め込まれている。 自分が欲しい服やバッグを買って、残った給料は惜しげもなく小遣いとしてキッドに渡された。月によって少ない時もあれば、中学生の小遣いには多すぎるほど与えられる時もあった。 (ただあのひとは) ―――少しも俺に興味がないだけなんだ 同じアパートに住む、全身に薄く膜を張った赤毛の美しい女。それがユースタス・キッドの母親だった。 女は自分が張った半透明の膜の内から出ることはない。その膜は、キッドが女に干渉することも、女がキッドに関心を持つことも妨げていた。 女と合わせた事のない女と同じキッドの赤い瞳は、渇きと空腹をいつでもそこに滲ませた。 女と寄せ合ったことのないキッドの心は、渇き、毛羽立ち、ゆっくり枯れていった。 人を殴っても、傷つけても、物を壊しまくっても、何をやっても埋まらない、ひどく暗くて深い空洞がキッドにできていた。 ◆ 「ぅぐ…クソ…ちくしょう、クソ」 キッドの目にもう力はない。あれだけ探した死体を見ることももうなく、うなだれたまま誰に・何に対して向けられたものか分からない呪詛を呟き続けている。 ―――やっぱりそうなんだろう。 ローは思った。初めてその目を見たときから思っていた。分かっていた。だけどここに来てさらに確信を深めた。お互いのことなどほとんど知らないというのに。 (同じなんだろう?キッド、俺たち。同じような空っぽの胸をすり寄せるために出会ったんだろう?) 「キッド」 それまで黙ってキッドの背中を見つめていたローが、キッドの両頬に手を置き、顔を上げさせた。 「キッド」 キッドの濡れた瞳を見つめる淀んだ眼も、初めて呼ぶキッドのファーストネームの響きにも、愛おしさが目一杯詰められている。 「キッド」 「…ト、ラファルガー」「俺がいる」 ローの親指がキッドの目尻を優しく拭った。 「俺とずっと一緒にいよう。俺は中学出たら東京の高校に行く。親と離れて一人暮らしする。キッドも一緒に来い。俺と同じ高校は無理だろうが、東京には他にいくらでも高校ある。大学もそのまま東京だ。お前もそのまま東京にいろ。ずっとずっと一緒にいるんだ、二人で。なぁ、そうしよう、キッド。親の言いなりで医者になんのなんて嫌だったけど、お前と一緒にいられるなら俺は医者になる。医者になるためって言えば東京の高校にも行かせてもらえる。一人暮らしもさせてもらえる。キッド、なぁキッド、全部捨てていいんだ。俺と一緒にいよう」 ―――愛してる (お前の胸に愛だらけの唾液を流し込んでやる。だから、代わりに俺の胸にお前の涙を擦り込んで、血を流れさせてくれ!) 「……っ」 キッドはローの眼を見つめた。ローの濁って蕩ける愛だらけの瞳。キッドだけをひたすらにまっすぐ見つめる瞳。生まれたときから今日まで、渇いて飢えて求めていた、それ。 「…ロー」 キッドの目からとうとう水が零れ出た。 「くそっ…!ロー、クソやろう、ぅん、ロー、ロー」 すがるようにキッドはローの袖を握りしめた。自分の頬に添えられた両手を離すなと言うように。 皺の寄る自分の袖を見て、ローは殊更幸せそうに顔を歪め、キッドの赤く濡れる唇に顔を寄せた。だが、自分たちを見下ろす視線に気づき、わざとらしく眉根を寄せた。 「…おい、神父さん。あっち向いてな。誓いのキスなんて見飽きてるだろ」 |