図書室の天使



(おいトラファルガー、帰ろうぜ)
(ああ、ちょっと待て。図書室寄っていいか?)
(……ん、ああ)

俺は図書室へと向かうトラファルガーの後を追いながら、むずかゆい気分を引きずっていた。
図書室には、明るい沈黙が眠っていた。
その沈黙の中をトラファルガーについて泳いでいく。図書室に広がるお日さまのにおいと、本棚に近づくと鼻をくすぐる古い紙のにおいに、すぐに尻の座りの悪さが強まった。

(俺、図書室に入るの新入生オリエテーション以来だ)
(ああ、お前とは無縁な場所だろな)

俺は辺りをキョロキョロと見回しながら、居心地の悪さを誤魔化すように、本の背表紙をなぞるトラファルガーに話しかけた。

(悪かったな)
(悪くはねぇさ。むしろ図書室も感謝してるさ―――ユースタス屋が関わってこなくて)
(あ?)
(だってお前似合わなすぎ、図書室)
(ほっとけ!)


(そこの赤毛の君!)


本の隙間を通り抜けた柔らかなソプラノ。俺は驚いて振り返った。

(図書室ではお静かに!)

そこには、棚と棚の間に腰に手を当て立ち塞がる、女生徒がいた。水色の波打つ髪をハーフアップに纏め、一分の隙もなく制服を着こなす美しい少女だ。その美少女が、きゅっと綺麗に眉をしかめ、こちらを見上げている。俺は柄にもなくどぎまぎしと両手を胸の高さまで上げた。降参なポーズだ。
(あ、いや、その、これはトラファルガーが―――ってアイツ……!)
(お!し!ず!か!に!)
(は、はい!すみ、ま、せん……!)
振り返るととうに憎たらしい隈野郎はおらず、「しーっ!」と子どもを扱うようにジェスチャー付きで注意してくる美少女に俺は謝るしかなかった。
俺はペラペラの鞄を抱え直すと、裏切り者のトラファルガーのことなど気にもかけず、校門まで猛ダッシュで駆け抜けた。後ろから美少女の驚いた声や、生活指導のシャンクスの声が聞こえたが、俺は止まらなかった。
心臓がやけに煩く跳ねて、止まったら周りのやつらに聞き咎められるような気がした―――。


―――こうして、ヘドが出るほど可愛らしい俺の恋は始まった。




毎週水曜日の昼休みに、月曜日と金曜日の放課後―――特に今日、水曜日は時間との戦いだった。
「ユースタス屋ぁ、飯にしようぜ」
「んぐんぐ―――ごくん!悪ぃ、もう食った!俺ちょっと用事あっから」
水曜日―――昼休みを知らせるチャイムと同時に俺は弁当に食らいつく。
(弁当と言っても、水曜日だけは固形の栄養補助食品だが)
口の中の水分を奪うパサパサの物質に悪戦苦闘しつつ、一箱をお茶で流し込むようにして平らげると、すぐさま俺は教室を飛び出した。目指すは西館3Fワンフロア―――


「ネフェルタリ・ビビ―――」


「!!!!」
―――と、それはいつもなら、の話だった。俺は首から錆びた音をたてながら、聞き流せない言葉を吐いた隈野郎を振り返った。
「2年A組出席番号22番中間考査学年9位―――」
「おまッ、な、」
「ネフェルタリ財閥社長の一人娘、学校生活では3年のコーザってやつが番犬に付き、日常生活には常にプロのボディーガードが付く超が三つつく程のお嬢様―――」
「―――」
「あだ名は『王女』―――噂じゃどっかの王族の血が流れてるらしい」
「そ、れが、どうし」
「そんでもって図書委員会の副委員長。図書当番の日は月曜金曜の放課後」
「……」


「それと、水曜日の昼休み」


俺は誤魔化しの言葉も否定の言葉も思い付かず、唇を噛んで固まった。耳が、熱を持つ。顔が発熱したように赤くなっているだろうことは鏡を見ずとも分かる。
「……」
「……」
気分は死刑宣告を待つ被告人だ。
「はぁ……お嬢様とヤンキーって何十年前の少女漫画だよ」
時間にすると30秒。だが俺には永遠にも感じる沈黙は破られた。
「………………せめて十数年前だろ」
「……そこかよ」
俺は今日の昼休みを諦めて、のろのろとまだ温かい椅子に戻り、机に突っ伏した。
「……何で分かったんだよ」
「分かんねぇ方がおかしいだろ、普通。水曜の昼休みと月・金の放課後、実験室と技術室と図書室しかない西館にいそいそと急ぐやつ見ればな」
トラファルガーが前の席に座る気配がした。「で、どこまで進展したんだよ?お前の挙動不審が始まって一月は経つぜ。メアド……はとっくに聞いたか。デートは?」
俺は腕の中から目だけを覗かせ、恨めしげにトラファルガーを見上げた。
「……名字、初めて知った」
「お前……一月なにしてたんだよ」
いつものにやけ面したトラファルガーが、俺の言葉に目を丸くし呆れたように言ったので、俺はいたたまれずにまた腕の中にこもった。
「う〜〜〜!てめぇこそなんでそんなに詳しいんだよ!ストーカーか!?」
「一月姿見るためだけに図書室通ってたてめぇに言われたくねぇよ」
「ぐっ」
図星を刺され俺はさらに小さくなる。
「俺はクラスの図書委員に聞いただけだ」
「あ?このクラスにも図書委員いたのか?」
「当たり前だ」
「誰だ?」
「キャス―――学期始めにジャンケンで負けて押し付けられてたじゃねぇか」
「……寝てた、気がする」
「だろな―――ちなみにキャスはネフェルタリに熱烈アタック中だ」
「あいつ……今度絞める……!」
俺は、教室の後ろでペンギンの弁当をつまみ、アイアンクローをくらうキャスケットを睨んだ。しかし、情けない声でギブを叫ぶそいつに燃え盛ったジェラシーも一瞬で鎮火した。
「……今日は行かないのか?」
「―――」
俺は驚いてトラファルガーを見た。嫌味なくらい整った顔が頬杖をついて窓の外を眺めている。その目がチラリとだけこちらに寄越された。
「んだよ、小学生じゃないんだ、別にからかわねぇよ」
「……てめえのことだから、悪魔みてぇな顔でからかって邪魔してくると思った」「素直でかわいいユースタス君だな、こら」
「イデデデデ!」
トラファルガーは青筋の張った笑顔で頬を捻りあげると、急に真剣な顔になり言った。
「親友の恋だ。応援―――はしねぇが、ポップコーン片手に鑑賞くらいしてやる」
「一瞬でもてめぇを見直した俺がバカだった。人が真剣だってのに娯楽映画扱いかよ」
「阿呆。お前が主役の映画なんて三文オペラもいいとこだ―――とっとと行けよ。昼休み、あと20分もないぜ」
俺は時計を確認して急いで立ち上がった。
「い、行ってくる……!」
「はいはい」
「あ―――あのよ、……ありがとな」
去り際に、精一杯の感謝を込めて囁き、俺は教室を飛び出た。目指すは西館3Fワンフロア―――図書室だ。





「キモチワリィよ、ばーか」
トラファルガーは窓に映る弾んだ背中を泣きそうな気持ちで見た。
「……チッ」
全てを噛み殺した寂しい舌打ちを一つし、額を抑え踞るキャスケットの尻を八つ当たりで蹴り上げるため立ち上がった。





「……」
トラファルガーに背中を押された水曜日、彼女は書庫で作業だったらしく、一度も姿を見れないまま俺はすごすごと教室に戻った。なぜかキャスケットを踏みにじっていたトラファルガーは、同情するような、笑いだしそうな何とも言えない顔をした。
その日の放課後は珍しく、トラファルガーが肉まんを奢ってくれた。こいつが優しいなんて気色わりぃが、慰めてくれているのだ、と思い直し素直に礼を言うと、「気色わりぃ」とごきぶりを見るような目で見てきやがった。おかげで、制服はヨレヨレになり、互いに鼻血垂らす程度の軽いケンカになったが、元気は出た。トラファルガーなりの慰めだったのだろう。
そして今日―――金曜日の放課後、トラファルガーの慰めを無駄にしないべく、せめて一言でも声を交わそうと、気合いを入れて図書室に踏み込んだ。
「……」
彼女はカウンターの向こうに座って静かに本を読んでいた。
俺はカウンターから離れた本棚の影に急いで滑り込み、彼女の様子を伺う。
カウンターの影で何の本を読んでいるかは分からない。きっと、表紙のきれいな外国の童話や、滑らかな英語で書かれた詩集なんかに違いない。
時折聴こえるページをめくる音や、こぼれた髪を耳にかける指先に時間を忘れてしまいそうだ。
「……?」ふと、彼女が顔を上げた。
俺は慌てて棚と棚との死角に身をねじ込んだ。熱心に見つめ過ぎたようだ。
図書室の閉館は18時。邪魔な他の生徒が消えるまで時間を潰そうと、適当な本を手に陽当たりのよい机に腰を下ろした。





「……す」
肩がつつかれる感触に意識が浮上する。
「ん……」
「……んです」
少し身じろぐと、さらに強くつつかれた。
「う、るせぇ……」
俺はうざったいと不機嫌な唸り声をあげ、仕方なく顔を上げた。
本を広げたまま、机に突っ伏しいつの間にか眠っていたようだ。枕にしていた腕から顔を上げると、机の上に水色の糸の束が垂れていた。俺は覚醒しない頭を抱え、寝ぼけ眼でその糸の先を追った。
「……」
「……」
糸の先では、深い海の底のような瞳が間近で俺を覗き込んでいた。
糸はどうやら一房の髪だったらしい。
白い小作りな顔。薄めのピンクの唇。細い鼻筋。溌溂として意志の強そうな目。社長令嬢の肩書きに相応しい上品に整った顔は気品すら漂い、王族の噂はあながち嘘ではないかもしれない―――と、ぼんやりと思っていると
「閉館です!」

と間近で大きな声をたてられた。
「!!!!!!!」
一気に覚醒した俺は、派手な音をたてながら3Mほど飛びのいた。
「な、え、あ」
驚きすぎて言葉が出ない。あたりを見回すとすでに他の生徒は誰もおらず、強い西日が室内に濃い影を落としていた。
「もう閉館しますよ?」
「ははは、い、!」
「ふふ―――驚かせたかしら?」
俺の図書室の天使―――ネフェルタリ・ビビは、横から俺を覗き込んでいた姿勢から腰を伸ばし、垂れていた髪を手髪で耳に掛けた。
「あなた私が前注意した人よね?最近図書室によく来てるでしょ?目立つ髪色だし、顔、覚えちゃった」
天使はおかしそうに笑いながら、俺が広げたままだった本を手に取った。俺は、彼女の発した「顔、覚えちゃった」というワンフレーズを胸の中で反芻し、赤くなるのを止められない顔が西日で誤魔化されるのを必死に祈った。
「この本、借りる?」
彼女は小首を傾げながら、俺が適当に手に取った本を胸の前にかざして見せた。水色の柔らかそうな髪が頬を滑る。
「あの、その」
情けないほど言葉が出てこない。ガタイもいい強面の男が取り乱す様はひどく滑稽だろう―――そう思うが、何か口にしようと思うほど言葉は俺の元から離れていった。
「……キルケゴールの『不安の概念』―――随分難しい本を読んでるのね」
自分が掲げる本をチラリと見て、彼女は感心したようなため息をついてにこりと微笑んだ。
「―――」
天使が、微笑んだ。俺の目を見て、微笑んだ。
「いや、その―――本の探し方が分からなくて……。………………!!」
まさか自分の言葉に自分で驚くなんて間抜けな日が来るとは思わなかった。さっきまで散々探し回った言葉が、今は主人の意志を無視して口から飛び出した。
「や、ちがっ……!なんでも、ない、です!」
「そうだったの?それなら早く言ってくれたらよかったのに!一緒に探しましょう!手伝うわ!」
彼女は俺の言葉を華麗にスルーし、3Mの距離を一気に縮め、俺の手を取って微笑んだ。
「は、はい!」
もちろん俺に断わる術は―――なかった。
「どんな本を探してるの?」
「……さ、最近の面白い小説を……」
今まで本と無縁の生活だったのだ。どんな―――と聞かれても何も思い浮かばず、苦し紛れに答える。
「小説ね―――それじゃあこっちよ」
彼女はすいすいと本の海を泳ぎ、俺が適当に取った本を元あった壁際の棚に本を戻した。
「あの……なんで場所分かるんですか」
ひと月彼女の仕事を見ていて思った疑問だった。彼女は本当に羽があるように図書室をくるくると飛び回り、返却された本を次々に棚に戻していた。まさか全ての本の場所を把握しているのだろうか。
「ああ―――ほら、本の背表紙に貼ってあるシールをみてるのよ」
彼女はその棚を離れ、迷いなく歩きながら本棚に詰まった本をその白い指先でなぞっていく。
彼女の指が触れているのは、本の背表紙の下方に貼られた小さなシールだ。図書室にある本には全て張られている、訳のわからない数字やアルファベットが三段に並んだシールだ。
「このね、一番上の一番前の数字が大まかに本全体を分類してるの」
天使はカウンターに一番近い本棚の前に立つと、俺の腕を引いてシールを示した。この棚はあまりにカウンターに近いので、心音が彼女に届きそうで近づけなかった棚だ。
「これは最初が『9』―――小説は最初の数字が『9』なの」
「へー……」
「さっきのは哲学の本だから最初が『1』。『2』は歴史の本、『3』は社会科学について」
俺は素直に感心し、ふんふんと熱心に頷く。天上から棚の上にぶら下がっている数字の看板は、そういう意味だったのか、と。
「最初の数字に続く数字にも、真ん中や一番下の段の数字にも全て意味があるんだけど……そこまで覚える必要はないわ」
「へー、すごいんっすね……ですね。俺全然知らなかった、です」
俺は慣れない敬語でもごもごとくぐもった声で素直な気持ちを伝えた。すると彼女はおかしそうに笑い、俺の足の隣に自分の足をスッと並べてきた。
「敬語、使わなくていいよ。同級生でしょ?」
薄汚れ、履きつぶしたシューズの隣に、おろしたてのように真っ白で、俺の手で包んでしまえそうに小さなシューズが並んだ。
つま先の色はどちらも青―――第二学年のカラーだ。
「―――あぁ」
俺は並んだ二つのシューズを見下ろして、蚊の鳴くように返事した。彼女は満足したように頷くと、足は引っこめた。
紺のソックスに包まれた細い足首を名残惜しげに追いかけた、なんてことは決してない。
「それで、どんな本がいいかしら……好きな作家さんはいる?」
彼女は広い『9』の棚を見回して、困ったように眉根を寄せた。
昨日まで声も交わせなかったのに、いま、図書室の天使は俺のために真剣に悩んでくれている―――それだけで地面から足が浮いてしまいそうな喜びだ。だが俺は、腐れ縁の男の呆れた顔・馬鹿にした顔・にやけ顔を脳裡に描き、もう少し、もう少しだけ欲張ることにした。
「よかったら……」
何度も言葉を口の中で転がす。
「よかったら、おススメ聞いてもいいか……?」
「え?」
彼女は、本の背を睨んでいた目を丸くして俺を見た。それから黙ってまた本棚と向き合う。先ほどまでの真剣な目に、少しの戸惑いが混じっている。
「あ、いや、やっぱり―――」
「―――これ……」
その目を見て、ひどく後悔した俺は慌てて言葉を撤回しようとしたが、それより先に彼女は一冊の本を手に取り差し出してきた。
「笑わないでね」
彼女は恥ずかしげに頬を染め、視線を西日差す窓の外に投げたまま俺の手に本を押しつけた。そっぽ向く彼女の頬に落ちた、長い睫毛の影を呆けたように見ていた俺は、慌てて手中を確認した。
「『西の魔女が死んだ』―――」
「それ、児童書なの―――人に言うと子供っぽいって言われるから内緒なんだけど、私が大好きな本なの」
「……」
「〜〜〜〜〜やっぱりだめ!恥ずかしい!」
俺が何も言わなかったせいか、彼女は顔を真っ赤にして本を取り返そうとした。
「か、借りる!これ借りる!」
慌てて本を高く掲げ必死に言うと、目一杯背伸びしてパタパタと手を振り、本を取り返そうとしていた彼女は、赤い頬を照れをごまかすように掻いて離れた。
彼女が掴んでいた俺のシャツから、そっと小さな白い手が離れる。シャツには小さな皺が寄っていた。
「……感想、聞かせてね」
「……ああ」
シャツの皺を上からギュッと掴み、俺は彼女と同じようにつま先を見つめ頷いた。





貸し出し作業はとても簡単に済んだ。俺の生徒証のバーコードと、本のバーコードをスーパーのレジのように読み込むだけ。ほんの数秒の手間だった。
「はい、どうぞ」
「ん……ありがと」
「貸し出し期限は二週間よ」
「ああ」
彼女が差し出す本は俺の手に渡り、瞬きの間だけ二人を繋ぐと、彼女の手はカウンターの向こうに戻っていく。
「本探すの手伝ってくれて助かった―――俺本借りるの初めてで……」
「役に立ててよかった」
「あ……それじゃあ……」
俺は幸せな時間が終わることをまざまざと感じながら、カウンターに背を向けた。
さっきまで天にも昇る気持だったのに、ほんのちょっとの間にテンションはジェットコースターのように猛スピードで下降した。
「ええ、それじゃあ―――」


―――またね、‘ユースタス・キッド'君


俺は静かに図書室のドアを閉め、一歩、二歩、三歩、四歩廊下をゆっくり踏みしめた。そして、五歩目を力一杯踏み切ると、西日が走る金色の廊下をジェットコースターより速く駆け抜けた。
こうして―――


こうして、ヘドが出るほど可愛らしい俺の恋が始まったのだ―――


(顔が耳まで真っ赤なのは、見ての通り全力で走ってたからなんです、先生。もう廊下は走らないので見逃してください!)


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