まどろみに果てる



※取りようによっては死ネタ

この世界は嘘っぱちだ。
薄っぺらで嘘っぱちでどうしようもない。
全身全霊の愛を捧げても、無償の愛を捧げても返ってくるもんなんて一つもありゃしない。山のような善行を積み上げても、たった一度の瞋恚で塵のように吹き飛ばされる。九割の善人があくせく働いても、一割のどうしようもねぇやつらがそれを食い荒らす。
そのくせ全てのものが軽いから、どんなものでもこの手の中に吹き込んでくる。画面の中は選び放題。クリック一つで家まで宅配。食い物も、服も、女も、銃も、天国も。
必死に求めるものは指の隙間から漏れ落ちて、気づけばくだらないもので腕がいっぱいになっている。
そんなのってないだろ?誰もかれもが死んだ目をして、苛むような針の空気が世界を埋めている。誰も笑わねぇし、誰も幸せにならない。俺が喉を嗄らして叫んでも誰にも届かない。光は俺に当たらない。

昔はそうじゃなかった。光のような笑顔が俺に向けられていたし、囁くような声でも相手の耳に届き、同意や反論、時には容赦ないこぶしが降ってきていた。常に柔らかな空気に包まれて、馬鹿みたいに笑っていた。

だから俺はこう思うんだ。
俺はいつの間にか現実とそっくりな、だけど全く真逆な悪夢の世界に迷い込んじまったんだって。
目を覚まさなくちゃならねぇ。あっちに全て置いてきたんだ。目を覚まさなくちゃ。目を、目を、
目を、―――

ざあざあざあざあざあ

最初に感じたのは水の音だった。それからタイルを跳ねる水が目に入った。そうしてやっとローは、背や頬を伝う冷たい水の存在に気がついた。

「気がついたか?」

水音と共にシャワーヘッドから降ってきた声にローはのろのろと視線をさ迷わせた。
冷たいタイルに片頬を付けた体勢から、重たい頭を浮かせ天井を見上げると、まだ夢現な虚ろな顔に容赦なく冷水を吐きだすシャワーヘッドが突き付けられた。
「…ユ、スタス屋…」
キッドは息の止まったシャワーヘッドを壁に戻すと、未だ冷たい浴室のタイルに体を預ける痩せた半裸の男の片腕を掴んだ。
一切の気づかいなく男をずるずると引きずり、脱衣場に投げ出した。
「…いってー」
全身ぐっしょりと濡れ、手荒く扱われたというのに、ローは無表情のまま仰向けに転がった。
「飯作ってやるから早く来い」
「置いてくなよユースタス屋」
キッドは脱衣場を出ようとしたが、足に絡みつく刺青だらけの腕がそれを妨げた。
「ユースタス屋さみい。暖めてくれよ」
「言ってろクソジャンキー」
キッドはぞんざいに足を振り、友愛を込めてローを一蹴りし脱衣場の扉を閉じた。

―――いつからだ

いつからだったろうか。夢を現実に、現実を夢に、男がなしたのは。夢と現実の入れかわった暗く明るく醜く美しく歪んだ世界の、ほわほわとした境界線上で、男は覚束ない足取りでステップを踏み続けている。
アチラにも行けずコチラにも行けず、細い糸の様な線の上が男の居場所だった。座ることも横たわることも倒れることも許されず、地獄の所業に身を委ね続けるしかない。
しかしそれは男が望んだこと。望んであの真白の甘い地獄の雪を口に含んだのだ。現実に耐えきれなかった男は、アチラをコチラと嘯いて、自らそこに降り立った。

―――あいつは弱かったんだ。

キッドはそう一人ごちて、ベーコンを刻む手を止めた。
熱した中華鍋に油を引き、まな板の上の物を一息に流し込む。火が通りやすいものも通りにくいものも気にしない男の料理だ。
手早く炒めながら目分量と勘で味付けをしていると、中華鍋の唸り声の合間に覇気のない男の足音が混じった。雑多に散らばる衣類や本をかき分けてテーブルにつく音と、背中に注がれる力ない視線とを無視し、レトルトのご飯を鍋に突っ込み、仕上げの味付けをする。
できたての料理を皿に盛り、レンゲを突き刺してからやっとこちらを眺め続けていた男を振り返った。
テーブルにもたれかかり、だらけきった格好の男の目に、山のあなたのそのまた向こうにあると噂の'幸福'の影を見て、キッドは目元が自然と柔らかくなるのを感じた。
ローの向かいに座りできたての炒飯を差し出すと、やっと身を起こしレンゲを手にとった。
「こんなに食えねえぞ」
「食うまで許さねえ」
「にんじん火通ってない」
「男の料理だ」
「それで納得するかよ」
「文句言うんじゃねえ」
口では争っているが、二人の目元と口元は穏やかさしか見て取れない。

「―――ゴチソウサマデシタ」
「オソマツサマデシタ」

ローはレンゲを皿に投げ出し、腹をさすりながらミネラルウォーターの入ったグラスに手を伸ばした。これはローが味の濃い山盛りの炒飯に悪戦苦闘している内にキッドが入れたものだ。
キッドは空になった皿に満足気に頷き、皿とグラスを受け取り台所に向かった。
使った食器と道具を洗い、ついでにシンク回りを片付け、そのまたついでに台所に散らばるペットボトルやサプリの包みをゴミ袋に詰め込む。最後に冷たい水で手を洗っていると、頭の芯がすうっと冷めてくる。
―――こんな時間が永遠になればいい。
そう思う反面、ここにまどろむのはできないし、してはいけないことだとも考える。
分かってる。分かってはいるがやはり思ってしまう。まどろみの中で果てたいと。
キッドは、指先が冷たさに痛みを訴え出した頃やっと水を止めた。背後の不気味な静けさに首を傾げながら見てみると、先ほど山盛りの炒飯を平らげたばかりのローがベッドに転がっていた。
右半身を下にし、右手は顔の前に置かれ、左手は心臓を守るようにして眠っている。
キッドは足音を殺しローのそばに寄ると、床に膝をつき屈みこんで顔を覗く。痩せた頬、濃い隈、落ち窪んだ眼窩、荒れた唇。一つ一つ視線で触れる。
「―――」
キッドはせりあがってきた言葉にならない思いに耐えきれず、ローの手を取り額を押し付けた。
限界まで冷やされたキッドの手は、急激に発熱し燃えるように熱い。いつでも気だるげで低血圧で低体温だったローの手に、少しずつ熱が移っていく。傷ついた獣の様に大柄な体躯を丸め、音もなく慟哭した。

―――弱いのは俺だ。

どちらも失いたくなかった。伸ばされた手を取らなかったくせに、未練がましくこいつの手を見つめ続けた。餓鬼が自分のおもちゃで遊びながら他人の手にあるおもちゃを羨ましがるように。
だからこいつはアチラにも行けず、コチラで別の生き方もできず、境界線の上でふらつくふりをして今でも手を振り続けている。
いつか俺がその手を取ってくれると期待して、いつでも俺がその手を取れるように。

「行くんなら、俺もさらっていけ」

とぐろを巻く暗灰色の胸中から、それだけが言葉になった。キッドの吐く熱い息がローの冷えた手を熱く湿らせる。

お前の手を取って、コチラに引き下ろすことはできない。
お前の手を取って、アチラに飛び込むこともできない。
だけど、お前が俺の手を取って、アチラに行こうと言うのなら、俺は黙ってついて行く。お前に与えることはできないが、お前が与えるものはなんでも受け入れる。お前が欲しいものなら、なんでも奪わせてやる。
だから―――

「死ぬんなら、俺を殺してゆけ」キッドは激情に熱を孕んだ赤い唇をローのそれに押し当てると、振り切るように部屋を出た。それは一陣の風が吹き抜ける様に似ていた。素早く、無駄な音もないくせに、激しく世界を揺らすのだ。
「………」
あとに残されたローは、ドアの閉まる音を別の世界のことのように聞くと、閉じていた目を開け、熱を孕み少し湿った右手を見つめた。
それで十分だ。
右手の熱が愛おしい。不器用な男がいま、精一杯の愛を囁いてくれた。殺せ、奪え、連れ去れと。全てを許すと。
口もとが綻び、目が細まる。穏やかだ。
戻ったのだ。
ひっくり返っていた世界にやっと気付いた神様が、正しく世界を戻したんだ。
ひっくり返ったコンタクトを戻すようにごく当たり前なことだ。裏表逆のコンタクトなんて違和感だらけで着けていられないのは当然!それを正しく戻すのも当然!
カーテンの隙間から漏れた光に包まれる。暖かい。両の手にもしっかとその熱を抱きとめる。
ああ、なんと穏やかなんだ。きっと世界の終わりはこのような心地が全てを包むんだ。
しかし何とも名残惜しい。この正しさと温もりの故に、俺はここには居られない。行かなくては。「愛してるぜ、ユースタス屋」
だから俺は行く───
「愛してるぜ、キッド」
だから───
「だからてめえは連れて行かねえ」



『―――今日未明、青海市北区のマンションの一室で男性の遺体が発見されました。部屋からは大量の違法薬物が見つかっており、警察は中毒死ではないかとみて捜査を進めています―――』


「キッド?」
キッドは流れる人波の中で立ち止まり、大画面の街頭テレビを見上げていた。
「行くぞ、キッド」
上の空だったキッドは突然引かれた腕に慌て、急いで流れの中に身を戻した。
はぐれないよう視界の端に長い金髪を留めながら、もう一度だけすかした顔のキャスターを振り返り、すぐに身を反す。視界の下方に繋がれた手が揺れている。
今度こそ、キッドは繋いだ手を強く掴んだ。

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