Drip Coffee



―――馴染みのコーヒーショップに、新しいバイトが入った。


赤毛に赤目、抜けるような白い肌の、ローよりいくつか年下の青年だ。
「おはようございます。はい、ドリップコーヒーをお一つですね」
青年は、まだぎこちない手つきでレジを扱い、ローにレシートを渡す。
「あちらのランプの下のカウンターよりお渡しします」
ぎこちないマニュアル通りの案内が初々しかった。
大学に入ってから二年、くつろげる空間とうまいコーヒーが揃っているこの店に、週三回は通っていた。店の人間全ての顔を把握しているが、だからと言って取り立てて会話をしたこともない。この青年も例外ではなく、ローは特に声を発することなく、黙ってレシートを受け取り、レジを離れた。

「ドリップコーヒーでお待ちのお客様、お待たせしました」

女性店員が、カウンターの上にカップを置いた。ローはそれを受け取り、店の奥の仄明るいソファー席に移った。
レポート用のノートパソコンと、医学雑誌を何冊か、それと先ほど受け取ったコーヒーをテーブルに置く。席につき、コーヒーを手にしたとき、「それ」に気づいた。
「……」
ドリップコーヒーを意味する「DC」の「C」の字の書き終わりが延び、ハートマークを描いていた。
よく、「C」の字の中に顔が書かれたり、「Thank you」等のメッセージが書かれたりしている時がある。ハートは初めて見たが、ローは深く考えることなく、コーヒーに口をつけた。



それから、いくつもの季節が過ぎた。
ローが大学に通いだして四年、赤い髪の青年がバイトを始めてから二年経とうとしていた。
ローは相変わらず馴染みのコーヒーショップに通っていた。店員の顔は何度か入れ替わったが、あの赤い髪の店員は変わらずバイトを続けていた。
ぎこちなかった接客は手慣れたものになり、新人店員を指導する姿も見るようになった。レジだけでなくコーヒーも淹れるようになり、赤いランプの下のカウンター越しに、コーヒーを渡されることも多くなった。自分のコーヒーがカップに注がれるのを待つ間ローは、肘まで捲られた黒いワイシャツから覗く、しっかりと筋肉のついた白い腕が暖かい色のランプに照らされているのに、思わず見入ることがあった。そんな自分に気づき、慌てて目を逸らすのだが、そんな時に限って、カップにスマイルマークや、「fight」やら「Thank you」やらメッセージがカップのホルダーに書かれていて、ばつが悪い思いをした。
その青年とローが言葉を交わしたことはほとんどない。レジで注文の際、必要最低限の会話があるだけで、挨拶や雑談をしたことはない。二年も顔を合わせているというのに。

「おはようございます」

木曜日の午前十時―――オープンしたての店内に、客の姿はない。
レジには、ローが大学に入学した頃からこの店で働いているベテランの女性店員がいる。小慣れた接客スマイルでメニューを広げてローを待っている。その横の、コーヒー豆とシロップが並ぶカウンターには見慣れた赤毛があった。
「ドリップコーヒー、マグカップで」
ローは差し出されたメニューも見ずに注文し、財布から代金を出す。いつもは、好きな時に席を立てるよう紙のカップにするのだが、今日は、卒論のための資料読み込みのため、長居する気満々だった。
「熱めで」
普段ローは飲み物のカスタマイズはほとんどしないのだが、外は雪がちらつき、冷え込んでいた。それに、長居するならコーヒーは冷めるのは遅い方がいい。そう思い、滅多にしない注文をつけた。
「赤いランプの下でお待ちください」
いつものように案内され、ローはカウンター前に移動する。カウンター前の通路を挟んで、すぐ後ろはソファー席の背となっている。背もたれに寄りかかり、コーヒーが落ちるのを待った。
「……」
赤い髪の青年の手元に、真っ白なコップが用意され、黒いコーヒーが注がれる。青年の白すぎる腕は、マグカップに溶けてしまいそうだった。白い湯気が立ち上がる。青年のシャープな横顔が、湯気で揺らいでいた。
外に降る雪も白い。マグカップも白い。湯気も白い。青年の肌も白い。
だからどう、と言うこともないはずだが、その白さに夢でも見ているような気分になり、意識しないまま口を開いていた。
「バイト長いな」

それが自分の口から出た言葉だと、ローはすぐには気付かなかった。こちらを驚いた目で見る青年に気づき、ローは慌てて言葉を続けた。
「いや、二年も続けてるから……楽しいのか?バイト」
言い訳でもしているように、ローは言い辛そうに口の中で言葉を転がす。
「楽しいっす」
カウンターに、湯気が立つマグカップが置かれた。
青年の目が、真っ直ぐにローに向いていた。目も、本当に曇りなく赤いのだな、とローは見惚れた。
「あんたが通ってくれるんで」
ローはカップの耳に指を通した。熱伝導でカップの耳もほんのりと温かい。
「そうか―――ありがと」
コップを持ち、店内の奥、いつもの薄暗いソファー席にローは向かう。
使い慣れた高さのテーブルにコーヒーを置き、トートバッグから医学雑誌を取りだし、席に並べる。そうして、ようやくソファーに腰を落ち着けた。
「ふぅ」
一息つき、ローはマグカップに手を伸ばす。飲み慣れた温度より、少し高めの温度だ。
一口飲む。
熱めだが、火傷するような温度ではない。冷えた体に、胃袋を通し熱が広がる。
二口目を飲む。
まだやはり熱めだ。それでも、火傷するような温度ではない。
三口目―――ローは喉仏を上下させ、カップの中のコーヒーを一気に飲み込んだ。喉が熱い。変な気まぐれを起こし、「熱めで」なんてカスタマイズするんじゃなかった、とローは後悔した。
それから、まだ温まりもしていないソファーから立ち上がり、カップを持って、カウンターに大股で戻った。
カッ
カウンターと、カップの底が音を立ててキスをする。
「ありがとうございましたー」
カウンターの向かいには、セルフで容器を捨てたり皿を片づけたりする棚があるが、わざわざカウンターに差し出された物を突き返したりはしない。青年は、カウンターの上のカップを引き取ろうと、掴んだ。
「……?」
掴んだカップが動かない。青年は戸惑いながら、何度かぐいぐいとカップを引く。カップの耳に指を通したままのローが、その指を放そうとしないからだ。
「二年……………………長くないか?」
ローは頭痛でも我慢しているように顔を顰め、カウンターに肘をつきキッドを見上げる。
「……いや、あっという間だった。言ったろ。『楽しかった』って」
マグカップを掴んだまま、青年は尖った犬歯をこぼして小さく笑った。
「……『た』?」
ローは、青年の言葉尻に、物言いたげに目を眇めた。
「過去形か?」
「……これ片づけたら、そうだろ」
青年は変わらず笑っていたが、冬の空のようにどこか曇りがかっている笑い顔だ。
これで、このカップを渡して、それで終わりだと言うのだろうか。ローは、カウンターでカップを掴んだまま、しばらく唸った。そうして、とうとうそのカップから指を放した。
「ありが―――」
青年は目を伏せたまま、冬の曇り空の小さな笑顔で、最後の言葉を紡ごうとした。
「お代わり」

「ありが」―――とうございました。
そう続くはずの言葉に、ローが言葉を被せた。
四年間、週三回通うコーヒーショップが、日常生活に組み込まれて久しい。この青年がバイトを始めてから二年。彼もまた、ローの日常生活に組み込まれて久しい。
毎日変わり映えしなかった日常が、ほんの数分で音をたてて変ってしまった。ひっくり返したおもちゃ箱から、宇宙が飛び出してきたようだ。

「すぐにお淹れします」

目を丸くしていた青年は、少年のように大きな口を開けて、目を細めて笑った。



「二年間、なんのモーションもなかったけど」
「アピールしてるつもりだったぜ」
「話し掛けてきたこともねぇだろ」
「カップに書いてたろ?お前がおれのこと、いやらしい目で見てた日はいつも書いてたぜ。スマイルマークとか、星とか」
「……!?」
「そんな顔すんなよ。お前がおれのこと気になってんの、どんな意味であれ嬉しかっただけだから」

カウンターに肘をつき、青年が淹れるコーヒーを待っているローは、恥ずかしさに顔を覆った。青年が笑っているのは見なくても分かった。


客の男の名は、トラファルガー・ロー
店員の青年の名は、ユースタス・キッド

出会ってから二年、ようやく互いの名を知る事になった。

「キッド―――コーヒーまだか?」
「もうちょいな―――ロー」

ローの前に、マグカップが差し出された。そのカップを見て、ローは難しい顔をする。
「店のコップだろ」
カップの側面に書かれた、ドリップコーヒーを示す頭文字と、「C」の書き終わりの延長線に書かれたハートがこそばゆい。
「記念にもらおうぜ」
そう言ってキッドが子どものように裏表なく笑うので、ローは淹れたてのコーヒーが香るマグカップで口元を隠し、一緒に小さく笑った。


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