Show must go on!


ナボコフの遺財
2013/10/23 21:12 (0)

荒々しく階段をかけ上る音、ドアノブを乱暴に回す音、手酷くドアを叩きつける音ーーーそれが終わると部屋には、午後三時三七分という中途半端な時間に流れる眠たい旅番組のリポーターの声しかしなくなった。
だけど、背中越しに感じる怒りの気配は、部屋中にうるさいくらい響き渡っていた。

「おかえり、ユースタス屋」

返事はない。代わりに、荒れた空気がさらにトゲを増した。
「おかえり」
寄りかかったソファーの背凭れ越しに背後を振り返ると、気配の通りの怒りを顔に浮かべたユースタス屋が腕組みし、仁王立ちでそこにいた。


「ロー!てめぇ、また俺の蝶に手出しやがったな!」


赤い唇がぱかりと開き、喉の奥から唸り声が上がりそうな剣幕でキッドは食ってかかった。
「……なんのことだ?」
ローは平然とした顔のまま、視線だけ天井に反らし嘯く。そのとぼけた横顔にキッドの鋭い視線が刺さる。

「隠す気もないなら嘘をつくな!」
「隠すつもりならいいのか?」
「嘘とわからないならそれはもう真実だ」
「真理だーーー蝶には触れちゃいない」
「嘘つくな!」

へらりとした顔を急に引き締め、「嘘じゃありません」と嘘くさく嘯くローを怒鳴りつけ、そのできはいい頭に拳を振りおろした。しかしキッドの拳は空を切る。
「なんで分かったんだ?」
ローは間近になったキッドの激昂した赤い目を見上げ、その切れ込みのような瞳孔を愉悦に歪めた。隠すつもりもなかった嘘をあっさりと認め、キッドの頬に指を伸ばす。ぺしりと叩き落とされる。
「俺のとこに逃げ込んで来た」
「あぁ、やっぱお前のとこだったか。全部捕まえたつもりだったんだが、ちょっと足んなかったもんな」
「俺の蝶に何したんだ」
「何もしてねぇさ。ただ、きれいだったから」
ーーーちょっと手を伸ばしただけだ、とそう言ってローは、一度叩き落とされた手を、またキッドの頬に伸ばした。
キッドはムスリとした顔のままだが、今度はその手を許した。
「蝶は、蛇がきらいだ」
「そうみたいだな」
「蛇は蝶を食っちまうからな」
ローの手首がキッドの頬を撫でる。ローの手首は、ブレスレットのように灰色の鱗がぐるりと覆っていた。
「食わねぇよ」
頬を撫でることを許しても、まだ怒りを瞳に湛えたままのキッドの両目を見上げ、気だるげに唇を開く。中指の第二関節の下に生える三枚の鱗の滑らかさを、キッドの唇に教えるように押し付ける。
「あんな粉っぽくて身のないもん二度と食わねぇ」
「て、てめっ……!」
鱗越しにローは、キッドの唇が震えるのを感じた。と同時に、声には出さないが「あ、やべぇ」と他人事のように呟く。
「てめぇ!やっぱり二年前減った蝶はお前が食ったんだな!」
キッドはソファーの背もたれを飛び越え、ローに飛びかかった。鱗の数はローの方が多いのに、ローはキッドの逆鱗を撫でるのが得意だった。
「時効だろ」
「抜かせこのバカ!」
「ごめん」
「許すか!吐け!」
「神経毒と胃液くらいしか出ねぇ」
「アホ!バカ!」
がたいのいい二人が暴れるせいで、狭いソファーはぎしぎしと不満の声を漏らす。蹴り落とされたクッションがフローリングを滑る。
揉み合ううち、器用に身を捻りキッドを組強いたローは、ローの顔面を狙う拳を押さえつけ、息をついた。
「なぁ、それより、お前のとこに逃げこんだ蝶はどこだ?」
そう言うなり、ローはキッドの服の裾に手を掛け、捲り上げた。
「ばっ、やめ」
「一匹いたな」
Tシャツの下の真っ白な腹。ヘソと浮いた腰骨の間に、鮮やかな青い蝶の彫り物があった。彫り物とは思えないほど、生を感じるほど艶かしく羽の光る蝶だ。ローの手のひらが蝶と下腹をなぜる。
「や、め」
キッドがみじろぐ。ローの手はわき腹を這い上がり、親指がわざとらしく乳首を掠める。捲り上がった服の下から、左胸に羽を広げる青い蝶が現れた。下腹の蝶とそっくり同じものだ。
「二匹目」
蝶の羽に口づける。羽を舌で舐めれば、キッドの五指が肩に食い込む。
「残りはどこだ?」
「も、いねぇ!」
「バレる嘘はつくもんじゃねーぜ、ユースタス屋」
朱の差した顔で睨むキッドの額に優しくキスし、自分のことを棚に上げた台詞を図々しく口にする。鼻梁にもキスを一つ、鼻先にも一つ、唇にも一つ。右手はあやすようにキッドの髪をすき、左手は探るようにキッドの肌を這い回る。
「ん、っん、」
「あぁ、ここにいたか」
背骨を指先でなぞり上げ、頸骨までたどり着くと、ローはキッドの耳元でそうささやく。キッドの顎を掴み、左を無理矢理向かせる。唇を耳朶から首筋におろし、浮き出た白い首筋に歯をたてた。キッドの体に力が入る。緊張が触れた肌から伝わってくる。
「大丈夫、俺は前歯には毒はねぇ」
首もとに吐息を吹き掛け笑うと、図星なのか、キッドが不貞腐れた気配を感じた。ローの長い指がなぞるキッドの首裏には、またあの青い蝶が一羽いた。
「三匹か……あと一匹足りねぇな」

逃げちまった蝶を捕まえて、数えたんだ。全部捕まえたかと思ったんだが、四匹足りなかった。お前のとこだろうとは思ったんだ。こいつらに、そう行き場はねぇ。さて、三匹か。あと一匹。あと一匹足りねぇな。

「どこにいる?」

耳朶に当たる熱く湿った吐息のせいか、背骨を這いおりる指先のせいか、キッドの閉じたまぶたが震えた。だけど頑強な唇は固く引き結ばれ、平然を取り繕う。
「平気なふりするなよーーー泣かすぞ」
「ーーー」
ローの歯が耳朶の下の柔らかな肉に食い込む。右手のひらがキッドの割れた腹筋を撫で、その下のベルトに手がかかる。その瞬間ーーー
「お」
黒いジーンズの下から、一匹の青い蝶が飛び出てきた。それは確かに羽を羽ばたかせ、軽やかに飛んでいた。だが、その蝶の羽ばたきは音もなく影もなく、ささやかな空気の流れさえ生み出さない。その蝶は、キッドの肌の中で羽ばたく厚みのない平面の蝶だった。
その蝶がキッドの上体を飛び回るせいで、驚いたのか他の蝶も一斉に羽ばたき、忙しなく飛び回りだした。
「自分から出てきやがった。主人思いだな」
ローは青い蝶が飛ぶキッドの上体を見下ろし、呆れたように呟いた。
しばらくキッドの中を飛び回り続けた蝶は、キッドの肩が触れるソファーに飛び移り、ソファーから床、床から壁、壁から天井にと自由気ままに四匹の蝶が飛び回る。蝶が家具の隙間や裏を通り抜けると、蝶の数は一気に増えた。何十匹もの同じような青い蝶が羽音もなく壁を飛び回る。壮大で壮麗な生きた壁紙を見回し、ローはため息をついた。
「増やしすぎだ」
捕まえるの大変だったんだぞ、と部屋の隅に転がった虫取網が語る。
「蛇も蝶はきらいか?」
「いや、好きさ。食べたいくらいには」
「さっきあんなもん二度と食わねぇって言ってただろうが」
「食べたいってのはものの例えだ」
一群れの蝶が、キッドの体を通りすぎた。キッドはまだ、捲れた服をなおさないまま、作り物のように白い腹や胸をローの眼下に晒している。光りに当たって色を変える青い羽は白い肌によく映えた。
キッドの心臓辺りを通りすぎる蝶の一匹にすばやく手のひらを押し付ける。そっと手のひらを離せば、また青い蝶がキッドの胸に、彫り物のように縫いとめられていた。

「お前のことも食べたいくらいには好き」

蝶の腹を人差し指でとんとんと小突き、その指を胸筋から鳩尾、腹筋の割れた溝に這わせていく。
「食べたいってのはものの例えだ」
分かるな?と、ローは小首を傾げて口端を吊り上げる。ローの首筋に灰色の鱗が浮かびだした。興奮すると鱗が増えるのは昔からの癖だ。
キッドは昼間から興奮した証拠をまざまざと見せつけられ、呆れと諦めまじりにため息をつく。


「……わかんねーよ」


キッドの投げやりな抵抗が聞きとめられることは、もちろんない。







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