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【八月の夜、あなたと私】

激しい雨の街角での以降の話

 シングルの女性にとって仕事は生きていくためには絶対に必要なもの。独り身で社会とのつながりは欠かせない。私はそう思う。だけど、毎日職場と家の往復の日々だけじゃ楽しみが見つからない。家にいる時間よりも長く身を置く会社という場所で毎日の小さなオアシスは誰だって必要だと思う。そうじゃなければ自分の気持ちを置き去りに忙しなく動き続けるこの現代社会で精神的に疲弊して、参ってしまう。

 それはほんの少しの癒しでも良い。オフィスビルの近くにあるお気に入りのカフェ。大好きで信頼できるセクハラもアルハラもスメハラもしない、年上で独身で紳士な上司。若々しさが全開のフレッシュな年下の新卒社員。お給料日の後のお買い物もそう。

 就職して働き出してから毎日仕事と家の往復ばかりの生活を繰り返して、気づいた時にはもう私は結婚適齢期という年代にいつの間にか突入していて、いい男はどんどん結婚していくという風潮通りに女の人たちは急いで婚活や合コンを始めたりしている。先に若くして結婚したママたちは家を建てたり子供の成長に合わせて簡単なお仕事を始めてとても楽しそうだなと感じる。会う度に早く海もこっち側においでというけれど、そのこっちと私の居る境界線ってなんなんだろう…。好きな人と結婚して、赤ちゃんを授かって、それで幸せなら、今こうして頑張って働いている私たちは幸せじゃないの?

 焦って好きな人を探したり、婚活パーティとか、お友達に手当たり次第に誰か良い人を紹介して!と鼻息を荒くして怖い顔で手当り次第に求めるような恋じゃない。もういい年したアラサー女子が何をドラマみたいなことを、と笑われるかもしれないけれど…これだけは譲れない。ふらっと立ち寄ったお店や、取引先の人とか、運送会社のお兄さんとか、好きだけど別れるしかなかった初めての人、みたいに突然運命の人が私の目の前に現れる日を夢見てる。そう、私は私の心から本当に心から好きになった人と恋がしたい、愛されるよりも愛したい、その人だけのお嫁さんになりたい。

 毎日仕事に忙殺される中で少しお気に入りの上司を見つける事。それが今の楽しみ。これは本当に意味があると思う。好きになるまでいかなくていい、ちょっとあこがれの人、そんな憧れの上司からの呼び出しにうきうきとしていた私に突然告げられたのは…まさかのここではないはるか遠くの五大都市のひとつである大都会のオフィスに設立された班への出向だった。

 夏も海風が涼しい雪国育ちの私にとって、突然の出向に慣れない温暖な地域で働くことはとても、とっても、ストレスでしかなかった。まして、出向先の会社での慣れない人間関係や、家族や隣近所の幼馴染、知り合いの居ない土地での生活は確実に私の心を蝕んでいた…。

 夏は太陽が登るのがとても早い。車が要らない大都会ではみんな公共交通機関を使うのがお決まり。昼間のコンクリートジャングルの暑さで何度か体調を悪くして班の人に迷惑をかけているので、最近は暑さ対策も兼ねて一時間早く出社して近くのカフェでモーニングを楽しむのが日課になっていた。

 それでも朝のじわじわと上昇する外気温に流れる汗は止まらない、タオルハンカチを流れる汗を吸わせるように押しても止まらない汗を垂らして都会の街を歩く、お気に入りのパンプスもこのコンクリートの照り返しの暑さで踵から溶けてしまうのではないかと思うほど暑くて。他の人は皆汗もかいていないのに…意識すれば意識する程に汗が止まらなくて、それが一番のストレスだった。

「おはようございます、」

 勿論返事をする人はいない。朝、モーニングを終えて出勤すると、暗いオフィス内で返事をする人はいない。昔ながらのお堅い企業じゃないからいちいち朝早く来なくていいと言われるけれど定時通りに出勤したら暑さでやられてしまうから、太陽が顔を出す前に、出勤しているんだとも言えなくて…そう、会社で楽しく働くためにはお気に入りのものを用意する。だけど…。

「だ・れ・も・い・な・い・わたし・だけの・オフィス〜」

 朝の静かで埃ひとつないオフィス程気持ちいい物は無い。思わず鼻歌交じりに歌を歌いながら誰も居ないのをいいことに腰も振りつつ、ノリノリで出向先の私のオフィス通称「リヴァイ班」の精鋭メンバーのデスクのパソコンを起動しつつ除菌用のウェットシートで拭いていく。ついでに皆が好きに飲めるように備え付けのコーヒーメーカーにコーヒをセットし、準備完了と思い先に自分のデスクのパソコンを起動してネットサーフィンでも楽しもうかと思った時、

「オイ、俺のデスクは無視かてめぇ」
「へ?」

 頭の上に置かれたマイカップには並々に注がれた、さっき淹れたばかりのコーヒーがある。振り向けばそこに居たのは泣く子も黙る恐ろしい我らが上司が私をじろりと睨んでいる。嘘、この人はいつから居たの?、だって、ついさっきドアを開けた時は暗かったし…それに…。

「しゅっ、主任…どうして…」

 もしかして最初から居たの?嘘!?さっきの即興ソングを聞かれてたと思うと恥ずかしさと気まずさからその場に居ても立っても居られず、慌てて立ち上がって逃げ出そうとする私の前を通せんぼするように今現在出向中の私の上司であるリヴァイ主任の厚い胸板に鼻をぶつけてしまう。この人の身体は全身鉄で出来てるのかってくらい硬い。

「あ?どうしてだ?徹夜で残って作業してたんだよ…俺より先にオフィスを荒らしやがって。随分ご機嫌に歌っていたな。でけぇケツまで振って」
「え、っと…、それは…」

 でけぇケツと言われて思わずパンツスーツのお尻を抑えて真っ赤な顔で俯く。そうだ、忘れてた。この人は誰も来ないのをいいことにオフィスの屋上へ続く踊り場にテントを張って占拠して最終のバスを逃した時は会社で寝泊まりしている事を…。お世辞にもスーツ姿で堅気には見えない外見の彼に自作の即興ソングを聞かれてたのが恥ずかしくて、やっと引いた汗がまたドッと吹き出した気がしてハンカチを出す。汗だくでハンカチじゃ足りないからもうタオルの方がいいかもしれない。だけど、今更恥ずかしがってももう遅い。それにリヴァイ主任は私を無言で見つめているから余計にその眼差しにあの夜のことを思い出してしまう。
 そう、あの夜、雨のにおい、肌を伝う雫。

 「しゅ、主任、・・・んんっ、」
「違うだろ。」
「リヴァイ・・・さん、」
「そうだ」

「オイ、そんなに汗だくで恥ずかしがるんじゃねぇよ、俺がいじめてるみてぇじゃねぇか」
「っ…」

 大きな独り言や自作の歌を聞かれるよりも主任にはそれ以上のあられもない私の姿を見せているのに。あんなところもこんなところも余すことなくすべて、ダウンライトの光の下で…。今更あの晩のことが生々しくよみがえる。今更恥じらうのも…でも、それとこれと別で…。だって、あんなにも…。ふと、目が覚めたら主任の姿は無いし、服もちゃんと着てて。今でもあれはただの夢なんじゃないかって思っている。あの雨の日にまさか目の前の上司である彼と自分の出向先で用意された部屋で身体の関係を持つなんて…自分でもまだ信じられないのに。今、私の顔は汗だくで情けないくらい赤くなってると思う。でも、汗をかいてると自分以外の人に指摘されると余計に汗が止まらなくなってどうすることも出来ない。多汗症なんじゃないかってくらいにこんなに汗をかくなんて…。

「てめぇ、上司が呼んでるのにさっきから無視か?」
「へ、あ、ああっ、私ですか?」
「何ボケてやがる、この部屋にお前以外いねぇだろ」
「あっ、はい、」
 「なぁ、歓迎会の時、男とまともに付き合ったことがないと言ってたよな?じゃあ、これは何だ?」
「恋愛はご無沙汰と言っていたが、身体は正直だな、ヤる事は、ヤってたんじゃねぇのか?」


 映画みたいにあの雨の晩のことが一瞬にして頭を過ぎり、面と向かってリヴァイさんと上手に話せなくなる。俯く私に対してリヴァイさんは平常運転で私を不思議そうに見ている。この人には表情筋が無いのかな。戸惑いながらも小さく返事をした私に、無言で取材のお礼用のタオルを差し出しながら目の前の彼は告げる。

「汗だくになんのも仕方ねぇな。お前が住んでた県に比べりゃこっちは熱帯雨林か?どうだ、たまには気晴らしに涼しい避暑地でもどうだ」
「へ?」
「冬ならまだしも夏に日本列島の南で暮らすとはお前も辛いだろ」

 リヴァイ主任が私の事をどう思って、そしてどう考えてあの晩、私を抱いてくれたのかはわからないままだし、臆病な私は会社で気まずくなるのが怖くてあの後も普通に部下と上司のままでいる。だって、今まで仕事と恋愛は別だと思ってきたから…。会社の上司と身体だけの関係を持ってしまった経験がないから、この先どうしたらいいのかわからない、私だけの勘違いなら恥ずかしい…。でも、リヴァイさんは既婚者じゃないから、特別な人が居ないのならその先の未来を想像したりしてもいいの?私は期間限定の人だから関係を持っても後腐れが無いから利用しただけ?

 上司から突然告げられた言葉を私は理解できないまま曖昧な返事をしてしまったのだった。人相は悪いかもしれないけど、主任としてこうして部下から慕われている本当は部下思いで汗だくの私にタオルをくれたり、誰よりも優しい上司は、最近行ってきたばかりの日本の都心の本社に再度報告も兼ねてまた呼び出されたということを知る。その同行者としていつも彼の手足のようにきびきび動くペトラさんじゃなくて私を選んだと言う事だった。確かに、私が住んでいる県より暑いことに変わりはないけれど、それでも出向先の温暖な地域のここよりはまだ涼しい筈。

 私の避暑地の出張という名の旅行は一週間後すぐだった。
 忙しいリヴァイさんの代わりに新幹線のチケットの手配やホテルの予約は向こうの本社持ちなので都会のホテルはきっといいものなんだろうなぁと色々妄想したりして、キャリーバッグに一泊二日分の着替えを用意した。もしかしたら…まだあの日の余韻が消えないソファに腰かけ脳内を張り巡らせてしまう期待に身体が熱く、下半身が痺れるように切なく疼いた気がして。

 正直、私は今まで抱かれるのはあまり好きじゃなくて…むしろ嫌いだった。だって、ただ痛いだけで全然気持ちいいと思ったこともないし、男の人は自分が満足すればそれでいいんだと思ってた。お母さんは私が小さい頃に亡くなってしまった。お父さんやミカサにそんなこと言えないし、私の身体の仕組みが変なのかな、不感症なのかなと思ったりもした、それなのに…。

 たった一度だけのあの日の夜。たった一度だけ。リヴァイさんに抱かれた。あの夜の事が今も鮮明に焼き付いて離れない。主任と部下として振る舞わなきゃいけないのに、リヴァイさんのことを男の人として強く意識してしまうもう1人の私が居た。

 もちろん、ホテルは別室だろうし、あの晩の事は夢だと思ってる。もう起こるとは思ってない…だけど、せめて最大限の身だしなみだけは…。そう思って一応下着はいつも仕事用に響かないベージュか白だけど、あの夜と同じ普段は履かない総レースの黒い下着に手を伸ばした。あの雨の日夜は…きっと夏が見せた夢で、幻だと言い聞かせるのに期待に身体は勝手に熱を帯びる。前に付き合っていた人と別れてからもう何年も誰にも触れられていない、身体を持て余して一人で触ったことはあるけれど、誰かと肌を重ねる事は殆んど無くて。そうして確かめるように触られた部分は今も甘く、切なく疼いて…ああもう、駄目、堪らない…。

「リヴァイ…さ、ん…」

 喉が痛くなるくらい、引き結んだ唇から勝手に溢れた甘い声、自分でも聞いたことがない…リヴァイさんの事を肩書ではなく名前で呼ぶと、まるであの夜の生々しい記憶が脳裏に浮かぶ。下半身が別の生きものみたいに熱を帯びたように切なく疼いた。

――「ああっ、はぁっ、んああっ、リヴァイ、さ、リヴァイ…ああんっ!」
「っ…くっ…!おい、馬鹿野郎が、急に呼ぶな…」
「あっ!あぁっ!?だめ、だめです、っ!苦しいっ!ああっ!」
「お前のが、狭すぎんだよ…っ、」

「んっ…ンン…あ、ん…」

 瞳を閉じてソファに顔を埋めて突っ伏すようにあの夜の記憶をなぞる。今もまだ生々しく残るリヴァイさんの苦しげな声も、血管が浮いた太い腕、逞しい胸板、簡単に私を包むように抱き締めて、いつも冷たく見えた眼差しが快楽と夏の暑さで熱に浮かぶようにとろんと蕩けて、潔癖な人がこんなにぐちゃぐちゃで雄々しさを前面に出したような激しい行為をするなんて私は知らない…。耳元で私に囁く低い声、全部、そう、全部…あの夜の出来事をただ夢で終わらせるには生々しすぎる。

「あっ…リヴァイさん…んっ、ああっ…!」

 ルームウェアの隙間から手を突っ込んで…私は中途半端な状態のままリヴァイさんの手つきを思い出して果ててしまった。今までにない位下半身が濡れて…とろとろしたそれにうんざりとしたため息をついた。ああ、早く夏なんか終わって欲しい。主任に抱かれたあの夜から、忘れられなくて、余計に意識してパニックになって汗だくになる夏じゃ恋も出来ない。涼しい秋や雪の降り積もる故郷が恋しい。



 新幹線での移動は快適だった。グリーン席だし、近くに喫煙所もあるのでお互いに交代で煙草を吸いながら私は気付いたらそのまま寝てしまっていた。そうして到着したのは日本の経済の全てが集まる大都会、日本の首都で中心地。ヒートアイランド現象と言われているコンクリート照り返しの太陽の日差しとその暑さでホットサンド状態にされ、一瞬にして快適な新幹線の旅を終えた私の全身から汗が噴き出した。

「おい、汗すげぇ事になってんじゃねぇか」
「っ…言わないでください…!」
「こっちに来るのは初めてじゃねぇだろ」
「そ、そうですけどこんな真夏にオフィスカジュアルの服装で来たことないですもん…いつももっと薄着ですし…」

 白のノースリーブのフリルブラウス。髪は緩く巻いたハーフアップ、下は黒のヒールでストッキングを履いた足にはパンツスーツを履いたいつもの服装だけど都会に行くから少しだけいつもよりはおしゃれにしたつもり…田舎娘ってバカにされたくないから…。

「そうか、」
「主任は暑くないですか?」
「全然暑くねぇな、」

 体脂肪が一桁の人に暑いか聞いたのがそもそもの間違いだった。遠回しに汗っかきなのは脂肪が多いと自分で墓穴を掘る様なものだ。主任は確か出張の話をした時はこっちの方が涼しいと言った筈だ。避暑地代わりに少しでも北へ来た筈なのに…。タオルハンカチどころかライブ用のマフラータオルを持ってくればよかったと後悔するくらい止めどなく溢れる汗が恥ずかしくて指摘されて余計に意識してしまう。それにしてもどうして都会はこんなに暑いのだろう。田舎なら何処へ移動するにも車移動で快適だし、外の暑さに触れることなくお出かけできる。駅もない蝉の声がけたたましく響く私の故郷へ帰りたい気持ちになる。とにかくこの人並みから抜け出したい、主任も暑いらしくさも、うんざりしたかのように普段以上に機嫌の悪そうな目つきが迷路のような首都の駅内から抜け出す道を探し、軽々とキャリーバッグを転がしながらエスカレーターに乗ると、どんどん上空の田舎人でも知ってる有名な路線の乗り換え口へ向かう。

「あれ、主任?」
「オイ、俺はこっちだ。どっち行くつもりだてめぇは」

 まさか日本列島の南のよりも都心の方が暑いとは知らなかったとぼんやりしていたら、主任はいつの間にか姿を消していた。探しにきょろきょろと歩くと、後ろから低い声が聞こえて、私のぶよぶよの二の腕を逞しい手ががっしり掴んで引き寄せられた。

「あっ、ちょっ…と…」
「あ?」
「(もぅ、いきなり女子の二の腕を掴むなんて…っ)」

 夏の露出が増える季節に二の腕を気にしない女子なんてこの世にいないと思う。二の腕のたるんだお肉は胸から流れたお肉です。とテレビで前に話していたのを聞いたことがある。そんな脂肪で出来た二の腕をいきなり意識している男性に掴まれ、恥ずかしくなり余計に汗が滲み出そうになる。宿泊先の高級ビジネスホテルに着いたら即シャワー行きはもう避けられない案件だと思う。コンクリートジャングルの暑さに置いて行かれそうになっていた私の二の腕を掴んだまま、主任は私の恥ずかしさも二の腕の感触もお構いなしにずんずん人波をかき分け進む。私よりは大きいけれど男性からしたら小柄な主任。それなのに自分より何倍もある体躯の人にぶつかっても全然ブレない。むしろその小柄な体躯のどこにそんな力があるのかわからないけど人を胸板で押しのけてどんどん進んでいく。

 ただでさえこんな暑い日にさらに熱い電車に乗るなんて冗談じゃないと、主任は会社の経費で請求するからとタクシーを呼んだ。

「ふぅ〜涼しいですね」
「タクシーの方がいいだろ」

 もしかして暑さで参ってる私の為にタクシーにしてくれたの?口にはしない主任の遠回しな優しさが嬉しくて、恥ずかしくて、さっきの新幹線の時よりも近い腕と腕が振れそうなその距離に顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

「今度は赤いな、熱中症になるなよ」
「はい、」

 さりげなく手渡されたのはいつの買ってたのか分からないけどそれはいつも私が会社の冷蔵庫で冷やして飲んでいた経口補水液だった。ひんやりとした感触のペットボトルのキャップを外して勢いよく乾いた喉を潤すように、流れた汗を補うようにとぐびぐびと喉に流し込んでいく。

「きゃっ!」

 口が小さくて飲み切れなかった経口補水液がまた口元から零れてしまいシャツに落ちて染みになってしまった。慌ててハンカチで取り出すも染み込んだ部分は濡れてどんどん広がっていく。

「ったく…汚ねぇな、何こぼしてんだよ。ガキみてぇに」
「っ、すみません…」

 舌打ちをしながら主任も無糖の紅茶を一口飲むと、私が着てたノースリーブのフリルブラウスの染みをハンカチで拭ってくれた。結局この状態で本社に顔出すのは駄目だと、ホテルに着いたらシャワーで汗を流す序に着替えろと言われてしょんぼりと肩を落としてタクシーにまた揺られるのだった。

 用意されたホテルはとてもおしゃれで、喫煙室のスタンダードダブルの私一人で寝るには十分な広さのベッドが置かれたモダンな部屋だった。しかもビジネスホテルなのにトイレとお風呂が別、これには驚いた。私が泊まったことがあるホテルはただ寝られればいいような簡素なベッドに狭いユニットバスのお部屋だったから。このホテルで主任がどれだけ本社にとっても優秀な人なのか、宛がわれたホテルが物語っている。

 期待してたわけじゃないけれど、主任とは部屋も階ももちろん別。当たり前だけど主任の方が平社員の私よりも役職は上だから当たり前だし、そもそもここはビジネスホテル。主任とは仕事の上司と部下なだけであれは夢だと言い聞かせた。そうでもしなきゃ昨晩からずっとドキドキして汗ばんだ肌が余計に汗ばんでしまう…。

 時間もあるし、ユニットバスじゃないのをいいことに湯船にお湯をためてゆっくりお風呂に浸かる事にした。さっぱり汗を洗い流して、汗で濡れた下着や吸水性のさらさらインナーも全て着替えて、ビジネスマンらしくしないと。と、ネイビーのブラウスに下はパンツスーツで髪の毛をくるくるとシニヨンに纏めた。

「遅ぇな、」
「す、すみません…」
「ったく、これだから女は準備がめんどくせぇな。風呂とトイレ別でゆっくり風呂でも楽しんだか?」
「うっ…そ、そうです…」

 ホテルのロビーのソファで待っていた綺麗な刈り上げの黒髪に声を掛けると、ノーネクタイのシャツをビシッとキメた主任が待ちくたびれたと言わんばかりに振り返り、ぎろりと鋭い目つきで私を睨んで来た。その鋭い目つき、私はまさに蛇に睨まれた蛙。気まずさに私はただ俯くしかなかった…。ペコペコと頭を下げる私に主任のトドメのゲンコツが落ちるかと思ったけど、さすがに人前だからか主任はそれ以上私の事をねちねちと責めてくることは無かった。

「まぁ、いい。汗も引いたな。またお前が滝汗かく前に行くぞ」
「はい、」

 私=汗かきのレッテルを張られたけど否定できない。そうして、主任が呼んでホテル前で待機していたタクシーに乗り込むと、入社式のオリエンテーション以来である各県の本社をさらに束ねる総本山へと向かった。

 背の高いビルの山に圧倒されながら、タクシーが大都会を走る。人気ゲームの首都のモデルになった政府機関の建物を通り過ぎ、その実物に感動して思わず大声で「インソ〇ニア…!?」と叫んで主任越しにその景色の写メを撮ろうとした私に恥ずかしいから今すぐスマホをしまえこの田舎野郎と散々ディスられながらもこっそり収めた。

 本社に到着し、いろんな偉い人たちに主任は普段の口の悪さを押し込め、はきはきと挨拶をし、名刺を渡していた。挨拶もそこそこに案内された想像以上に大規模な会議室では多くの人が集まっていて、その人の多さに私は開いた口が塞がらない。この中で発表するの!?それなら冷房をもっと強くしてくれないとまた余計な緊張で滝汗が止まらなくなりそうだよ…。

「あの、主任…」
「いいか。お前は気を抜くと訛るから一言も喋らずニコニコしてろ、それだけでいい。お前は緊張すると笑って誤魔化す癖がある。歯も見せんなよ。このソフトを再生するだけでいいからさっきみてぇにだらだら汗もかかねぇように汗止めるツボでも押しとけ」
「酷い! 主任! ちゃっかり今私の田舎の事を馬鹿にしましたね? それに、汗を止めるツボなんて私、知りません、それなら主任が押してくださいよっ」
「…馬鹿かてめぇ、俺が押したら捕まる」
「え?」

 汗を止めろと言われると余計に意識してしまい、不安になり慌てふためく私に主任は相変わらずの怖い顔のまま、結局その汗を止めるツボも教えてくれないまま壇上へと向かってしまった。結局どの部分なのかわからないまま今日の発表は主任が全部喋ってくれるので、私は主任から色々言われるがままに作成したプレゼンテーションソフトウェアを起動するだけでいいと安堵して、壇上脇のパソコンの前にスタンバイした。

 予定時間より早めに報告会が始まった。今回の報告について。主任の蛇みたいに切れ長な三白眼の目つきが映し出されたスクリーンを見る。いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せている彼の低い声は、会議や自分より目上の人や取引先相手になるとまるで別人のように若干トーンが上がる。はきはきと難しいビジネス用語を噛まず、台本もなく堂々と話すリヴァイ主任の姿、真剣な表情、眼差し、見た目は細いのに、武骨で男らしいその手、太い腕、シャツ越しでもわかる逞しい胸板。彼に抱かれたあの雨の夜の生々しい出来事を嫌でも記憶から思い出してしまう。鮮明に、脳髄にまで染みる主任の声、五感が余すことなく拾い上げ、あれは夏の夜が見せた夢、幻だと言い聞かせていた私に主任の声があれは紛れもなく現実なのだと、囁く。

 ふと、説明していた主任と目が合い思わず目が反らせなくなる。あの夜の感触に包まれたように動けなくなる。ふと、主任が訝し気に眉を寄せ、口パクで何かを伝えている。慌てて夏の微睡の中の白昼夢に包まれ飛んでいた思考を引き戻し正気に戻ると発表は既に終わっていたのだと知り、慌ててスライドショーの電源を切り私も何かアナウンスしようかと思ったけど「喋るな」命令が出ているので黙り込んだまま頭を下げるだけにして、会議室の重たいドアを開けて、退場する人たち1人1人に静かに頭を下げた。ブラインドから見えた都会の街はもうすっかり夏の夕暮れのオレンジに包まれていた。夜になれば八月の夜、少しは涼しさを感じられるのかな。

To be continue…
2020.04.02
【八月の夜、あなたと私】

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