─10─
明日にでも福岡に戻るつもりだと去り際に海に告げた。まるでそれは自分から彼女へ選択肢を与えたような、それとも諦めの境地なのか。そんなことを伝えてどうする?海を戸惑わせた挙句、誤解を解くためとは言え、あんな言い方で良かったのだろうか。もはや彼女に今更あの時出来なかった行動、胸の内に燻る思いを伝えたところで、クリスマスの奇跡など、起こるはずもなく、まさか海が今更自分の手を取るはずもないのに。
男が自分には全く関係の無い海の旧友を見送る気になるはずも無く、まして、海と自分との間では脇役でしかない。それに人相の悪い自分が見送ったところで怯えられ何も出来ないのだから。
男は1人バスルームから離れ二階に上がると階段の踊り場から通じるベランダに出てひんやりとした雪舞う冬の空気を吸い込んで先程の火照っていた身体を冷やした。
それに伴いさっきまで誤解を解くために多少熱くなっていた思考も冷えてゆくようだった。あの時、理性が崩壊する音が確かにしたのだ。あのまま父親が来なければなし崩しに海をその場で抱いていたかもしれない。
ちらちらと見えた下着の隙間に指を突っ込んで、そのままなし崩しに欲望に身を任せて……。
本当にそう思った。海に触れてしまったから、海の肌の温度を知っているからこそ、1度触れればせき止めていた欲望のダムが決壊したかのように。まさか酸いも甘いも既に知り尽くしているいい歳をした自分自身で3大欲求のひとつを制御できなくなる。
こんな事今まで無かった。やっぱり自分は海が好きなのだと、忘れる事なんか出来やしないのだと改めて痛感したのだ。
ずっと我慢していた電子タバコをポケットから手にし、男はぼんやりとベランダの下、駐車場に並んだ車で帰ってゆく旧友たちに声をかける海の小さな背中を見つめていた。
海は自分からの告白を受けてどう感じたのだろう。耳まで赤くした海の初な姿は変わらない。今にも溶けてしまいそうだった海の柔らかな頬、肢体も余すことなく触れたいと思えば思う程、更に強く望むだけなのに。
ふと、ベランダから眺めていた海の小さな背中は車に乗ろうとしていた背の高い馬面の男に駆け寄っていた。別れ際元カレと何を話すのか。普段冷静で心を乱したことの無い男はやけに心臓が早鐘を打つ気がしてたまらず胸を抑えた。
「ジャン、今日は来てくれてありがとうね。気を付けて帰ってね」
「海……脚、大丈夫だったか? さっきは悪かったな……」
「大丈夫だよ?気にしないで、それに、お酒は大してかからなかったし、すぐ冷やしたから大丈夫だよ。今日は、来てくれてありがとうね」
「なぁ、海」
「なぁに? どうしたの?」
ふと、静かな沈黙がエンジン音を裂いた。ジャンは海の小さな手を握り締めて静かに呟いた。
「久しぶりに見ねぇ間に海、なんか雰囲気変わったよな」
「そう、かな?」
「ああ、なんか付き合ってた時と全然違ぇよ。福岡に出向で行ってる間に何かあったのか?あんなに大事に伸ばしてた髪も切って、それに福岡から来たって言ってたミカサの親戚のリヴァイって人、オレが海にあん時酒ぶっかけた時、誰よりも早くお前のこと風呂場に連れてったよな、あの人って、お前の」
なんだかんだ言いながらジャンは海の事を気にかけ、この葬式の間も自分とのやり取りをよく見ていたのだろう。海への同じ思いを抱える男だからこそ男はジャンの気持ちがよく分かった。しかし、海をこのまま容易く色んな経験も給料も遥かに自分よりも格下で、年下の男に奪われる未来なんて簡単に招くような隙は与えない。
「ち、違うよ……。あれは、たまたまだし、私は別に、あの人の事は、何にも思ってないから……」
海が迷わず前の男へ告げた言葉。男は手にした電子タバコを思わず落としかける。ああ、理解している。海は自分のモノでは無いのだと。自分ではそうは思ったことなど一切無かったのだが、口下手で甘い言葉もろくに言えない自分は結局誤解されてしまった。海を欲望の対象として都合よく扱った良からぬ男だと、ミカサからは軽蔑され、海にはそういう風に思われているのに。取り繕う事も出来ないまま、自分は海にこっ酷く嫌われた。
「はぁ〜何だよ、それ聞いて安心したじゃねぇか……」
「え?」
わしゃわしゃと自分の頭に積もった雪を振り払いジャンは海の目を真っ直ぐに見つめていた。心無しかその頬は赤く染っているように見えた。
「久々に会って、どうしてもお前に言わなきゃなって、思ってよ。なぁ、もし良かったら……オレにまたやり直すチャンスくれねぇか??」
「え?」
「振られた立場でこんな事言うのもアレだけどよ、今も、どうしてもお前が忘れられなくて……お前を忘れようとして色んなヤツ紹介されたけどよ、どいつもこいつもワガママで甘ったれな女ばかりで……。いつも優しくてしっかりしてる海はダメなオレをなんでも許してくれて。母ちゃんも家に連れてきた彼女の中で桁違いに、お前が一番いい子だったって。なんで、別れたんだって延々と言い続けて。もう、お前に好きな奴がいるとか、お前がどうしても俺の事無理なら諦めるけどよ、せめて、友達として、また飯でも食いに行かねぇか?」
馬鹿か!友達だと?そのまま優しい海に漬け込んで強引にしけ込むつもりの癖に。魂胆が見え見えなんだと思わず男は喉から出そうになった言葉を飲み込んだ。しかし男には海を引き止める言葉など存在しない。ましてジャンは振られたにせよ海と付き合ったという自分よりもアドバンテージは上の男。
まして、泣かせることしか出来なかったそんな自分に今更何が出来る。自分が彼女に出来ることなどもうとっくに無い。そう、大人しくこのまま福岡にこの気持ちごと連れて帰るだけ。
分かっていた、理解して諦めていた。
海がどんな気持ちでいたのか、あの時の泣きそうな顔も、今も、忘れられないというのに。
返事を待たず男はベランダを後にした。ああ、あれでいい。こんな年老いた男よりもあの若い青年はきっと海を幸せにしてくれる。安心して海を任せて自分はこの地から居なくなろう。
▼
本当に芯まで冷える寒さで、西の地の温暖な気候暮しの防寒具などたかが知れてる。悪寒が止まらず男はろくに眠れぬまま翌朝を迎えた。
「おぅ、おはよう。リヴァイ」
「手伝います」
「いっつも悪ぃな、」
早く起きたというか。昨晩の事が気になって一睡も出来ずに男はリビングに向かうと海の父親がモコモコの防寒着に身を包み雪かきシャベルを手に庭で雪掻きをしている。この一晩でさらに雪は降り積もったのだろう。今日帰るのにこの悪天候では交通機関は機能しているのだろうか?
ふと、リビングの隣の閉じたままの部屋の引き戸が開いている。洋風な家に珍しい唯一の和室の部屋。
ふと見えた仏壇に見えた写真。黒髪の美しい凛とした空気を纏った女性がリヴァイを睨んでいるように見える。もしかして……父親似の彼女に全く似てはいないが、微かに海にも似ているような気さえするその女性は、紛れもなく海の亡くなった母親なのだろうか。
「なぁ、リヴァイ。お前、いつあっちに帰っちまうんだ?」
ザクザクと雪掻きをしながら父親は呑気にタバコをふかしながらリヴァイに問掛ける。今どき電子タバコではなく昔自分も愛煙していた赤いパッケージの紙タバコ。今日帰るつもりだと言おうとしたが、駅まで送る海のことを考えるとこの大雪の中送らせるのも申し訳なく感じた。
「どうせよぉ、帰っても暇なんだろ? アッカーマンの葬式も済んだしもう今日から俺はクリスマス商戦に向けてノンストップでケーキ作らねぇといけねぇし、泊まり込みで仕込むからよ。海もあんな感じで1人でぼんやりしてて心配だし、お前さえ良かったら年越しまでいてくれよ」
何故俺にそれを頼む?男は寝不足でクマの出来た死んだような三白眼を更に歪めて目の前の父親を見た。しかし、父親はそんな男を見てもただ無愛想で目付きが人よりかなり悪いだけだと言う解釈なのか睨まれていると感じていない。
「もうさ、あいつも若くねぇ年齢だ。俺も孫の顔見たいし、お前みたいな年上の落ち着いた男の方が俺は安心して任せられるし、海がさっさと嫁に行ってくれればいいんだけどな。俺もそんなに長くねぇだろうし」
「……どういう、事だ?」
「いんや、そのままの意味、だぜ?」
意味深な男の言葉。男親でずっと誰にも頼らず、妻が死んでからも継母も必要とせずに海を育ててきた男の苦労が確かにその顔や髪からは感じられた。働きすぎて身体を酷使したのか、それとも。愛する者を失う男は女よりも耐久もなく、身体は確かにタフだが心はあまりにも脆い。
「ぬわぁんちゃってっ、ま、気にすんなよ。やっぱ今回のアッカーマンの葬式の件で思ったけどよ、人間いつ死ぬかわからねぇからな。心配事残して死ねねぇだろ?ただでさえ俺の娘は母親に似てシッカリしてるかと思えばとんでもない事やらかしたり、ドジだし、ぼんやりしてて心配なんだよ」
「確かにそうだな……それは否定しねぇが」
昨日も、あっちにいた時も、一人になんて心配でとてもして置けない。守ってやりたいと、心底男が思ったのは初めてだった。
しかし、それにしても今日はものすごく寒い。なのに思考は昨日の風呂場での出来事を思い出すかのように火照っているようだった。
▼
「で、仕事行ってくるから後はよろしくな。いいか、くれぐれも火事とか起こすなよ?」
靴を履きビシッとスーツを着ているが父親の職業はケーキ職人である。眠れる薬を飲んでいるためにそれの効果が切れるまで眠り続けていた起きてきたばかりの海と相変わらず無表情のリヴァイに見送られ父親は仕事場に向かった。
「海、」
「えっ!?お父さん!?」
ふと、海にだけ聞こえる声で呟いた父親の発言に寝ぼけ眼でぼんやりしていた海が突然真っ赤な顔で飛び上がる。
「いーや。海もな、いつまでも家にこもってないでたまにはリハビリがてらちょっくら街まで行ってきたらいいだろ?」
「で、でも……っ、」
「今夜は楽しいイヴにしろよ。そう言やあ、リヴァイ。お前明日誕生日なんだろ? ミカサから聞いたぞ? ケーキ持ってくから楽しみにしてろよっ」
「すまない」
クリスマスが誕生日。堂々と父親から言われると恥ずかしくもいい歳したアラフォーが悲しくなる。海が男の誕生日を聞いて少し何かを感じたのだろうか。父親の車が去った後、海は気まずそうに、しかし男に問い掛ける。
「あの……お父さんが、ホテルのブュッフェのバイキングの優待券やるから、たまには社会復帰のリハビリがてら出かけて来いってくれたんです」
そして、小さな手に握られてきた二人分の優待券。父親はそこの元チーフだったらしく、父親のスイーツも出店してるらしい。遠回しに誘ってくれたのか、それとも……ただの義理か。しかし、それでも良い、昨日のジャンの言葉は悪い夢だと忘れて、今目の前の海は自分の隣にいる。
「お前のリハビリも兼ねて案内してもらうか」
「えっ!」
「ついでにお前の市のイルミネーション、もうすぐ終わりなんだろ?」
「はい……そう、ですね」
このまま今日帰る予定が突然変更になった。父親が機転を利かせてくれたのか何なのか、海の父親の真意は分かり兼ねるが、この機会を逃したらもう二度と海とは分かり合えないだろう。自分から誘った訳では無い、けど、これが誕生日プレゼントの前の奇跡なら、それに一縷の望みをかけて縋り付いていたいと思うのは。
「私……着替えてきます」
ふい、と背中を向けた海。男は静かに頷き、寒さから来るのか、これから起こる出来事に歓喜から来る震えなのか分からないまま海の身支度を待った。
To be continue…2018.11.23
2020.01.08加筆修正
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