人払いを徹底して行われた巨人化エレンの硬質化実験。しかし、希望は無残にも打ち砕かれた。
実験場は3度の巨人化で疲弊し、精神を暴走させたエレンによってすっかり荒らされ、休憩を挟みながらの実験によりとうとうエレンは大きな音を立て地面に倒れ込んだ。
「どうしたエレン!! もうおしまいか!? 立てぇえ!! 人類の明日が君に懸かっているんだ!! 立ってくれぇえ!!」
「おい、メガネ。今度は様子が違うようだが? もうヤツは10mもねぇしところどころの肉も足りてねぇ。そしてエレンのケツが出ている」
「わかってるよ!! エレン!! まだ動かせそうか!? 何かしらの合図を送ってくれ!!」
「エレン!!」
「ミカサ!」
まだエレンからの合図が無い。全員が固唾を呑んで倒れ込んだエレンを見守っていたのだが、それより先にエレンの身を案じたミカサが独断で彼の元へとジャンの静止も聞かずに馬で駆け出して行った。
相変わらずミカサはエレンが絡むと上官だろうとお構い無しに無我夢中で駆け出す。
「オイハンジ。また独断行動だぞあの根暗野郎は。処分を検討しとくか?」
「イヤ、合図が無い……!ここまでだ!!エレーン!」
急いでエレンを巨人化した身体から引き剥がさなければ……。ハンジも崖下へ飛び下り駆け寄る。
ウミも慌てて近付こうとするが、先程リヴァイの助けがなければ危うくエレンによって押し潰されて死んでいたかもしれない前科の中で迂闊に動けずタヴァサの上で様子を伺っていた。
今度こそ本当に勝手な真似をしたら彼の言う「躾」が行われ、自分は審議所でのエレンのようになるに違いない。
彼は冗談を言ったりもするが先ほどのその目は本気躾すると言わんばかりの態度だった。
「熱っつ!! エレン、熱っついな君本当に!!」
ブチブチブチっと言う嫌な音が出ているのにそれに構わずハンジがエレンを巨人から引き剥がそうとグイグイと勢いよく引っ張っていた。
「ハンジさん待って! エレンから血がでいます!」
「ひやあああぁ――!! こりゃああすごい! さっきより強力にくっついてるぞ!!」
「ハンジさん!?」
「巨人の体との融合が深くなって一つになりかけているんだ! もし放っといたら普通に巨人になっちゃうんじゃないかこれは!! 試しちゃダメか!? 人としてダメか!? うおおぉ〜!! 見ろモブリット!! エレンの顔がぁ……早くスケッチしろぉおおぉ!!」
モブリットにそのエレンの表情をスケッチさせながらもハンジは興奮したように普段以上に、饒舌にエレンの様子を事細かに喋っており、筋肉組織でエレンの顔が原型が無くなるくらいに崩れて大変なことになっているのに後ろからエレンを引きずり上げている。
ブチッ、と巨人化したエレンの肉体の残骸から項に埋め込まれた本体を引きずり出そうとするもがりがりに肉の削げた上半身裸のエレンの顔からは血が出ており、ミカサが悲痛な声を上げた。
「あぁ!!」
「急げ!! モブリットぉぉお!! 早くこの顔をスケッチしろ!! これ元の顔に戻るのか!?後で見比べるためにいるだろ早くしろ!!」
「分隊長!! あなたに人の心はありますか!?」
普段母親に似て可愛らしい少年であるエレンの顔がとんでもないことになっていると言うのに、ハンジはその醜く原形を崩壊させた顔をスケッチしろと副官に指示する、そのあまりの非道さに副官のモブリットは暴走する上官に言われるがままに、画用紙にスケッチしながらも自身の上官へと叫んでいた。
その凄絶な光景を見て恐る恐るウミがタヴァサと共に駆け付けた時には、エレンのその両目は、ぽっかり空洞化しており、唇は無く剥き出しの歯そしてその口からは舌がだらんと垂れ下がっている。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
タヴァサもそんなエレンの様子に怯えているようだった。
震える毛並みを撫でながらウミは抜剣して静かに歩み寄る。
またリヴァイが余計な事をするんじゃねぇと飛び込んで来やしないかちらりとうかがうとちょうど視線が交わり、慌てて目を伏せる。
この形状でエレンは元に戻るのだろうかと不安になるほどその原型をとどめていない。
ハンジが無理やりエレンを引っ張りあげながらエレン本体の顔の皮膚が巨人化した筋組織と繋がったままどんどん伸びていく。
いい加減ふざけてる場合じゃない。普段は優秀な頭脳を持つキレものなのに、相変わらず巨人が絡むと正気を無くして暴走してしまう。
さすがに一日に三回も巨人化したのはエレンの身体に負荷がかかるのか。
興奮して口早にまくしたてるようにしゃべり続けるハンジの姿にエレンをいいようにされてミカサがいつキレるかわからない。エレン本体が巨人化した肉体と今にも結合して離れなくなる前に。
「もう我慢できない……早く!」
エレンの姿を見かねてその部分を刃で断ち切ったのはウミだった。
これでまた勝手な行動をしたとまたリヴァイに叱られてもそれでもエレンがこのままだったらと思う不安が勝った。
エレンは家族同然なのだ。幼い頃から彼の面倒を見てきた。
リヴァイに骨が軋むまで掴まれ彼の爪のくい込んだ両肩は今もヒリヒリとやけどしたように痛んだ。
「ウミ!」
「ハンジ落ち着いて、エレンが死んじゃったら誰がマリアの壁を塞ぐの??それに、ここで実験してることを知られる訳にはいかないんだよね?」
先程リヴァイにこっぴどく叱られ未だ落ち込んでいるウミが接近してきてその超硬質スチールで出来た剣で勢いよくエレンと本体を繋いでいた部分を切断した事によってそのままエレンを抱えたハンジが尻餅ついた。
普段の優しい声から感情のない冷たく抑揚のないウミの声でハンジはようやく落ち着きを取り戻すのだった。
「ごめんね、ミカサ、待てなくて……先に手を出した。でもお願いだから切らないで。」
「ウミ、私は平気……大丈夫」
突然自分より先にウミの刃がエレンを切り離したことに驚きながらも呆然とエレンを見つめるミカサを見つめながらウミはミカサに小さく謝罪すると、静かにため息をつき、刃を返して付着した血液を振り払うと鞘に収めた。
「ごめん……また取り乱した……」
「ううん大丈夫。だけど、見つかる前に……行かなきゃ」
「実験終了!! 総員、直ちに撤収せよ!!」
ハンジの声にすかさず見張りに当たっていたケイジが叫び、同じく見張りに当たっていたジャン達へ避難を促していた。
「了解! 目撃者がいないか確認!!」
「ハイ!(…やっぱダメだったか)」
周囲を警戒するジャンはこうして夕暮れまで続いたエレンの実験が失敗に終わったことを知りつつ、心の中ではどこかでそう簡単に上手くは行かないだろうと感じていたのか諦めたようにブッフバルトで駆けていった。
「お前はエレンと同じ馬車に乗れ。こっちはハンジ達と……トロスト区に戻る」
「はい……!」
全身マントとコートで姿を隠したヒストリアが静かに実験の様子を見ていたが、リヴァイの指示に従い、返事をしてエレンが乗せられた荷台に乗った。
「エレン!! しっかりして!!」
「だ……大丈夫だよ多分、ちゃんと元の男前に戻るって多分!!」
ミカサが心配そうにエレンに何度も呼び掛ける中でリヴァイは歩き出した未だに心ここに在らずのヒストリアの小さな背中を見つめてニック司祭の言葉を思い返していた。
――「とにかく彼女を連れてこい。彼女なら我々の知り得ない真相さえ知ることができるだろう」
巨人化したエレンが蒸発していくのを見届けながらリヴァイは一人佇んでいた。
その背中には何倍もの重圧を抱えて、負傷した盟友の代わりに今自分が先頭に立って行かねばならない。
それなのに自分は。走り去る馬車の中で冷静さを取り戻したハンジが静かに立ち上る狼煙を見上げて独り言ちた。
「(やはり穏やかには済まなかったか……! エレンが巨人になればどうしても狼煙が上がってしまう……こんな山奥でも、ヤツらにどこかで見られていることは覚悟しないと )」
ハンジが思案する通りだった。もう「ヤツ」は静かに、人知れずに足音を忍ばせるように生き残りの少ないギリギリの崖っぷち状態の調査兵団に音もなく静かに迫っていた。
遠くの山からうつ伏せのままで望遠鏡から覗き込むように何者かがエレンが巨人化から解除された時にどうしても立ちのぼってしまう狼煙が辿るその根源を確認していた。
「ウミ、念の為周囲に警戒しててくれ、何があってもすぐ戦い……いや、備えられるようにね」
「ハンジ?」
「私はリヴァイとトロスト区に戻るよ。エルヴィンに報告しなきゃならないし、ニック司祭の様子も気になるからね……今はエレンをゆっくり休ませて……こまめに様子を見ててほしい。新兵達は頼んだよ」
「うん……」
「大丈夫……かい? リヴァイに怒られて落ち込んでる?」
先程のようにエレンに潰されかけている場合じゃない。
何のために精鋭・リヴァイ班に配属されたのか。リヴァイが公私混同して自分をこの班に率いたわけじゃないのだと実力を持って証明しなければ。
今の自分は「兵士」彼の「女」ではない。与えられた任務を行使し、託された彼らを導き、そして守るのだ。
「ううん……平気。だよ。私がいけないの。すっかり休みすぎて身体がなまっちゃったかな。リヴァイ班として、旧リヴァイ班のみんなの為にもちゃんとしないといけないのに。これじゃあ104期のみんなに示しがつかないもの。リヴァイは……ううん、兵長は悪くないよ」
「ウミ……」
そう言ってリヴァイに握りつぶされそうな力で掴まれた自身の肩に触れるウミの姿にハンジは静かにそっと呟いた。
「確かにやりにくいかもね。婚約者と同じ班って…ねぇ、ウミ。もし、リヴァイの班が大変ならさ、……私のところにおいでよ」
「うん、ありがとう、ハンジ」
「本当?無理しないでね。心なしか顔色も悪いよ?」
「そうかな?気のせいだよ」
元々色白のウミの顔色がいつもより悪い気がしていた。
ハンジは自身で問答した。それはウミの良き友人としてか、それとも。
しかし、口から零れた本心はハンジ自身も分からない。
調査兵団は他の兵団よりもいつ死ぬか明日も知れぬ身で、その中でこうして様々な困難や苦悩の中で何とか這いつくばって生き残ってきた自分達の絆は何よりも強固なのだ。
それは友人や恋愛感情を超えている。リヴァイのウミを心配し、心配するがゆえに辛らつになってしまう程、誰よりも失いたくないと、まして五年間離れていたのだから気持ちも分かる。
しかし、彼の力はあまりにも人間離れしていて強大である。その彼自身が自身の力を支配するように強靭な理性で抑え込んでいることがよく分かる。
しかし、その理性のタガが外れたら??
そのカギを握るのは、その矛先が向かうのはきっと目の前の小さなウミ。
私は平気だと、それでも健気に彼を庇うウミ。それは当たり前のように。ウミとリヴァイに行き交うそれは愛なのか、それともただ彼に依存しているだけなのか……。
両親を失い、腹心の部下を失い、古くからの仲間を失い、残された今のウミには彼しかもういないのだ。
入団当初から彼を庇っていたウミ。人は簡単には壊れたりはしないと言うけれど。本当は簡単に壊れてしまう程、人は誰もがそんなに強くはない。今まで経験してきたじゃないか。人は簡単に巨人に殺される。昨日まで傍にいた人間が突然いなくなってしまう。あまりにも脆いもの。
「(頼むから……君までミケやクライスみたいに突然消えたりしないでくれよ。ウミ)」
ハンジの願いは誰に聞かれる事もなく、リヴァイとハンジ班は急いで馬車と馬に乗り、撤収していく。
ウミはそのままエレンとヒストリアの荷馬車と共に山小屋へと戻った。
ウミは何度も何度も心配そうに振り返りながらトロスト区に向け走り去るハンジたちの馬車を見ていた。肩上まで切りそろえられた柔らかな髪を揺らしながら見つめていた。
どうして、ここは壁内なのに。何が自分たちを狙うのか?
戦う相手はずっと巨人だけだと、今までそう教えられ、そして、そう信じて疑わずに今の今まで生きて来たのに。
――……トロスト区
「そうか……今回も失敗か。うまくいけば、一日足らずでシガンシナ区に空いた穴を塞げると言う事だったが」
「何しろ情報が無い。硬質化の方法についても、教科書でもあれば別だが……後はクリスタ……いや、ヒストリア・レイス。あいつから壁についての情報を辿るか」
「彼女が話した生い立ちについての報告は読んだ。貴族・レイス卿の隠し子。だが、クライスと同じただの地方貴族が何故壁の秘密を知る事が出来るのかが、謎だ」
エルヴィンは浮かんだひとつの疑問を口にしていた。
リヴァイは遠くを見つめながら静かにその疑惑に耳を傾けるのだった。
「そうだ、リヴァイ。ウミは元気か」
「ああ……」
「まだ病み上がりだ。あまり働かせすぎるなよ」
「は、やけに心配性だな」
「当たり前だろう。大事な上官の大事な娘だ、簡単に死んでもらわれては間違いなく俺は地獄行きだ」
あれから回復して歩けるようになったエルヴィンは静かにリヴァイに願い出た。
生えかけていた無精ひげも剃られ、団服ではなく私服姿で静かに時を過ごしているようだった。
しかし、右腕を失いすっかり精神的にも弱り切っているようにも見えた。
自分では成し遂げられそうもない夢をリヴァイへ託すように。
「あの子をよろしく頼む」
「このごたついた件がすぐにでも片付くなら迷わずあいつを安全な場所に囲いてぇがな」
「そうだな。リヴァイには俺の分まで負担をかけてすまない。だが、この件が片付いたら、少しウミと共に休暇を与えよう。だから……もし、落ち着きたければ、もう少し辛抱してくれ、」
「ああ、そりゃあありがてぇな。俺はまだあいつを独占し足りねぇ。少しでも張り合いがねぇとこのクソみたいな現状もいくらかマシになるかもな」
突然の団長である彼からの気遣いを受け、リヴァイはリヴァイなりに考えていた。
しかし、先程のウミは本当に危なかった。
もしエレンにあのまま原形もとどめない形で潰されていたら自分はどうなっていただろう。もう二度と、失いたくはない。
クライスの無念を語る遺体は今も脳裏にこびりついて消えないのだから。
しかし、今も山小屋への帰りの馬車を拾う中で暗闇に紛れてひたひたと忍び寄る足音に耳を傾ける。
この平穏が音もなく崩れていくようだ。
▼
その日の晩の事。ウミはハンジとともにエルヴィンに報告の為にトロスト区へ一時帰還したリヴァイの帰りを1人寝静まった誰もいない食堂で待っていた。
「(まだかな……リヴァイ……)」
どうしても、今日のことが気になって、何となく眠れずにいたのだ。
あれから彼と言葉を交わしていない。どうしても一言伝えてから眠りたいと思った。
その隠れ家の外ではサシャとジャンが見張りについており、ウミはエレンの目覚めとリヴァイの帰還を待ちわびていたが、久しぶりの任務に疲れたのかそのまま眠りに落ちてしまった。
それから数時間後、リヴァイがトロスト区から追手を付けられないように慎重に気を遣いながら山小屋に帰ってきた。
「チッ、何でこんなところで寝てやがる……」
背後に気を配りながらの帰還は精神的にもリヴァイをますます疲れさせた。
そうして気が抜けない状態のままのリヴァイがドアを開けるなり視界に飛び込んで来たのはテーブルに突っ伏すウミの姿だった。自分を待っていたのは言うまでもない。
実験で汚れたから入浴を済ませたのか、ウミからは自分とは違う石鹸の香りがした。
無言で、自分が切り落とし短くなった髪に触れる。
ウミは小さな寝息を浮かべてすやすやと眠っていて。
「さっさと寝ろ、」
そっと触れた柔らかな髪はさらりと揺れて、張りつめた心を解きほぐすように、リヴァイを癒した。
「ん……」
「おい、さっさと自分の足で歩けよ」
「……んん……」
無理矢理立たせると、何でいきなり立たせるんだと不服そうにそのままふにゃりと崩れ落ちそうな、すっかり筋肉の落ちた柔らかな肢体をリヴァイはうんざりしながらも当たり前のように抱きかかえて向かった先はの部自分の部屋だった。
公私混同はどうしたんだ。自ら課したはずなのに。
しかし、5年間一人きりで眠れないほどに睡眠に全く興味を抱かなくなった彼に今のウミは精神的にも肉体的にも休ませてくれる存在だった。
ペトラに毎回椅子で寝ないでくださいと言われたものだ。体痛くないんですか?それに、オルオが真似をするからと。
懐かしい声が聞こえる。あいつらは、もうどこにも居ないのに。
「なぁ、ウミ。起きろよ、寝たフリしてんじゃねぇぞ……。まだお前が足りねぇ。寝てるならこのまま寝込み襲ってもいいって、事で同意するぞ」
失う温もりを手放さないようにリヴァイは眠る彼女を抱いた。交代の時間になりジャンが部屋に来る時まで、夢中で気付かない程自分はもうどうしようもなく疲れていた。
▼
「そんな……丸一日寝てたなんて……」
翌朝、ミカサが誰よりも心配していたエレンの醜く変形していた顔はすっかり元に戻り、年相応のあどけない寝顔がウミの視界に映る。
安堵したようにその髪に触れれば、エレンはようやく目を覚ますのだった。
ベッドの上でほかほかと湯気を立ち昇らせながらお湯で温め硬く絞った布で顔を拭きながらエレンは実験を始めてからの記憶が全くない事に驚愕していた。
「よかった、元に戻って」
「え?」
「ミカサに削がれずに済みそうだ」
「え?」
モブリットが描いた似顔絵と見比べながら安心するハンジをミカサは無言で睨みつけていた。
「それよりどんな実験をやったか覚えてる?」
「いいえ……それが……実験が始まった時から記憶がありません。オレの「硬質化」は……どうでしたか?」
「残念ながら……巨人化したエレンにそれらしい現象は何も起きなかったよ」
はっきり告げたハンジのその言葉にエレンは酷く落胆したようだった。
エレンの傍らではベッドに腰かけたリヴァイが黙り込んだままで、ヒストリアも居て。彼女がお湯につけた布を持ってきてくれたようだった。目覚めた時に一番にエレンの視界に飛び込んで来たのはミカサとウミだった。エレンは尚も問いかける。
「本当に何も無かったんですか?」
「あぁ……実験が終わった後も巨人化した体に何か残ってないか調べたけど、残念ながら何も残ってなかった。実験の流れはこうだ……「ウォール・マリアを模した巨大な洞窟を……硬質化した体で埋めることを目的にエレンは巨人化した。
しかし、何も起きなかったからその場合の予定通りに耐久テストと知能テストをやることになったんだ」
「実験の計画は覚えています…しかしその結果の方は何も……」
「そうだよね。それで……1回目の巨人は15m級だった。君が過去に出現させた巨人と同じ大きさのね。まず簡単な命令を聞いてもらった。片足で立ってもらったり腕を振ってもらったり 誰の命令でもすべて応えた。エレンの意識がはっきりしていたからだ。喋ってもらおうとしたけどこれは上手くいかなかった。恐らくは口の構造が発音に向いてないんだ。そして、ロープや丸太を使った作業をしてもらった。かなり細かいことまでできたんだ 巨人化した君なら簡単に城を建てることができるだろう。そして、1時間が経過したあたりで変化が表れた。喋れない代わりに地面に文字を書いてもらってた時だ、それまでは「どうやったら硬質化できるかわからない」といったことを書いていた。そしたら突然 君は脈絡なく「父さんが」「オレを」と書き出したんだ」
「え!?」
「それ以降は何を書いているか読み取れないほど乱れたんだ……苦しそうにしてね……。何か思い出さないかい?」
ハンジから次々と発せられる言葉に目覚めたばかりのエレンはどんどんその顔路を青くしていく。
ウミはそんなエレンに追い打ちをかけるようにエレン巨人が自分を潰そうとしたことだけは言わないでくれと目で訴えていた。
しかし、エレンを庇い続けてもこの現状が全く変化していないことも知るべきである。愛する者を潰されて覚えていませんでしたなんて、それこそエレンは余計にショックを受けるだろう。
「覚えていません。それでは、少なくとも…直ちにウォール・マリア奪還作戦をやることは無理になったわけですねりオレが、硬質化できなかったばかりに」
「あぁその通りだ。俺達はそりゃあガッカリしたぜ…おかげで今日も空気がドブのように不味いな。このまま時間が経っていいことなんて一つもねぇ、次は何だろうな?巨人が地面から現れるかもしれねぇし空から降ってくるかもしれん……。人類は依然牙の生えねぇ捕食対象のままだ。とにかくクソな状況だぜこりゃ」
「エレンは全力を尽くしました」
「知っている。だからどうした?頑張ったかどうかが何かに関係するのか?こいつは今穴を塞げねぇ」
「それで……エレンを責めても……」
さっきまでベッドの上で黙り込んでいたリヴァイが静かに振り向き、エレンに語り掛ける中で、彼自身がエレンを責めているような口ぶりに反発したミカサだったが、それを制止したのはリヴァイの事をよく知るウミハンジだった。
彼は口は悪いが、エレンを責めているわけではない。
彼なりに硬質化実験で何の成果も得られなかったエレンを励まそうと、しているのだ。
「ミカサ、エレンは確かに硬質化出来なかった。でも、リヴァイは責めてるんじゃないよ、ね、」
「俺は元々こういう話し言葉なだけだ。不足を確認して現状を嘆くのは大事な儀式だ。いいか?この壁の中は常にドブの臭いがする空気で満たされている。それも100年以上ずっとだ。この壁の中はずっとクソなんだよ、それが現状だ。俺がそれに気付いたのは数年前からだ……なんせ生まれた時からずっとこの臭ぇ空気を吸ってたからな。俺にとってはこれが普通だと思っていた。だが――……初めての壁外調査、初めての外の壁で吸った空気は違った。巨人が散歩する地獄のような世界だが、そこにはこの壁の中には無い自由があった。俺はそこで初めて自分が何を知らないかを知ることができたんだ」
「リヴァイはこう言いたいんだよ。「今回我々はエレンが硬質化できないことを知ることに成功した。もちろんそれだけじゃない!連続して巨人になれる時間やその汎用性と限界値の目安も知ることができた! 今回の実験のすべてを有益な情報にできる!」派手にあんなところで狼煙を上げた代償を払うのはこれからだろうけど、実験の結果を活かせるかどうかもこれからだ」
「つまり……「これからも頑張ろう!」ってエレンに向けてリヴァイは言ってるんだよ。ね? そうでしょう?」
「……あぁ。助かる……」
「リヴァイはね、ちょっと人より言葉が足りないだけだから、怖い顔してるけど別にエレンを責めてるつもりは全くないのよ。ミカサもそんなに警戒しないで。リヴァイはエレンを助けるために自ら悪役を買って出たの、本当は分かっているでしょう?」
「分かっている、だけど」
「私が保証するよ。リヴァイはエレンを絶対にひどい目に合わせたり傷つけたりしたりはしない」
「(審議所の件を忘れてる??)」
相変わらず不器用で、育ての親の口調でしか話せないリヴァイの言葉を代弁した二人にリヴァイは心底感謝していた。
そしてウミの言葉にミカサはただ何も言えず、しかし、あの審議所での件は許すことは出来ない、納得は出来ないが、今ここで上官でもある彼に意見に費やしても全く意味の無い行為。
リヴァイ自身はただこの実験の結果を観て今後どうしようか思案しているだけでエレンを責めているわけじゃない。
彼は確かに感情表現も乏しいし、言葉も丁寧ではない為にその外見も含め彼の事を未だよく知らない新兵には畏怖の対象として見られているし、審議所での一件でリヴァイを非情で怖い人間だと多くの誤解を与えてしまっていたようだ。
リヴァイは確かに言葉は悪いが、決してエレンを責めているわけではないのだ。彼なりにエレンを励まそうとしているし、現状を理解して今後の作戦を考えるのは上官として至極当たり前の事。
落ち込むエレンに気の利いた言葉が見つからない。本当は誰よりも人の痛みに敏感で、自身の化け物じみた力をうまく使いこなせなくて苦悩するエレンと同じようにかつてのリヴァイも自身の身体に流れるその得体の知れない力を支配できずに苦しんだ時期があったのだろうか。
だからこそ彼なりにエレンに対して優しい言葉を駆けようとするのに粗暴な言動がどうしても誤解を与えてしまう、誰よりも不器用なそんな彼がなんだか無性に愛しく思えた。
審議所での一件もあり、リヴァイに対して今もいい印象を抱けないミカサ、きっと脳内ではまだ「然るべき報いを」の算段をつけているだろうし、この前のウミに関するやり取りの件もあり、リヴァイに結局あまりいい印象を抱けないまま彼の班の一員に加えられてしまったミカサはまだ彼の事を目の敵にしている。
その中で余計にエレンは自分がウォール・マリア奪還に関しての作戦で役に立てないことを悔やむのだった。上官に不器用な優しい言葉を掛けられ、ますますエレンはその罪悪感の中で、自身の巨人化能力をうまく発揮できないまま応えられない自身の無力さを呪い、思いつめる。
「(いっそ、思いきり責めてくれりゃあいいのに……こんな重大な役目を握ってんのが何でオレなんだろうな……このままじゃオレは…人類を救うこともハンネスさん達に報いることも――……できないだろう。でも……それを知るところから始まるのか?オレは今無知で無力……今は……でも……何で実験中に父さんのことを思い出した?それが無きゃもっと長く巨人を操れたんじゃないのか?父さん……今頃どこに…どこかで生きているのか……?それとも……)」
グッと力強く拳を握り締めるエレンの脳内の中で突然バッとヒストリアによく似た面影をした黒髪の女性が鏡越しに輝く長く美しい髪をとかしている姿が浮かんできたのだ。
突然浮上したヒストリアによく似た美しい髪の女、見た事もない、記憶にもない知らない女の登場にエレンの心臓がゴトリと音を立てて激しく揺さぶられた。
「(ヒストリア? イヤ違う……これは記憶? ……いつの? あ……だめだ……また、これ以上は……)」
これは、一体誰の記憶なのか。今後の話を続けるリヴァイ達の輪の中でエレンは呆然とした。
自身の記憶に存在しないその女性の姿、未だ目覚めて間もない混濁する思考の中、エレンの沈んだ記憶がどんどん浮かび上がっていく。それは…思い出せないまま、エレンはただその鏡越しに見えた黒髪の女性があまりにもヒストリアに酷似していた。
しかし、次にはその記憶はまた奪われる事になる。
「う……」
「エレン! まだ体が弱ってる。無理しないで」
「あ……あぁ……」
「(あれ……? 何だっけ?)」
ミカサに支えられながらエレンは意識を落ち着ける。記憶の最後に見えた。鏡に向かって櫛で長い髪を梳く黒髪の女性を思い出しながらエレンの記憶は再び沈弱する。エレンが回復したのを確認し、ハンジは青ざめた顔色のまま静かに全員を居間に集めるように告げる。
その表情は普段のハンジではない、何か重要な問題でも起きたのだろうか。ウミはエレンから布を受け取るとそれを片付けるために下に向かおうとした時、昨日変貌したエレンの顔のスケッチを持っていたハンジが言葉を続け今後の方針をリヴァイに打診する。
「さて……これからだが硬質化出来ないってことがわかった今、進むべき道は定まった。次はウォール教とその周辺の追及だ。彼らは硬質化した巨人で作られた壁の起源を何か知ってるらしいからね。あの壁の作り方…すなわち「硬質化」の情報を知ってるのかもしれない。また……その謎を知ることができるのが、人類の最高権力者である王様でなくてなぜレイス家なのか…きっと……王都に行ったエルヴィンが何か掴んでくるはずだ」
「エルヴィンが王都に? 一人で?」
「どうしたのウミ?」
ウミは今もエルヴィンの右腕を切り落とした感触に支配されていた。
その顔色はよくないし、昨晩も眠れずにいたのをリヴァイの添い寝でようやく落ち着けたようなものだ。
肉体的には回復したが、巨人を殺す道具で人間の肉を断つ経験などしたことが無いウミの心の傷は今もトラウマとして残る。
「その……一人で大丈夫なの?」
「オイ、お前はいつまで引きずってやがる。責任感じてお守がしてぇと?お前は俺の班だろうが、勤めもロクに果たさねぇで自分勝手な行動をするならお前の処遇を考えさせてもらうが」
「でも、エルヴィンは右腕が不自由なのよ?誰かが補助してあげないと」
「ウミ、エルヴィンなら大丈夫だよ。リハビリも兼ねて日常生活を通常通り行えるようにしてるだけだから。それに、もうだいぶいい大人だよ?私たちが介助しなくても一人で行動できるし、」
ウミはもうこれ以上幼い頃から可愛がってくれて来た人たちが居なくなるのは耐えられなかった。
今まで何人死んだ?自分が戻って来たこの数カ月の間に……エルヴィンまでも失うなんて想像したくなかった。
「ウミ、いい加減にしろ。いつまでエルヴィンの事を引きずってやがる。今のお前の現状の方を考えろ、」
「ごめん……なさい」
「尚のこと後悔するならもうしくじるなよ、」
それは他の男の傍を行くな、俺の傍に居ろ、勝手に俺の傍を離れる事は許さんと、訴えているようにも見えた。
言葉数の少ない男はボキャブラリーの少ない脳内で考えた拙い言葉でしか愛を、愛しいという感情を伝えることが出来ない。
まして、自分にとっての初恋がウミであるようにウミにとってエルヴィンが初恋の相手だから尚更エルヴィンが大事なのかと微かに燃えるような嫉妬心が顔を覗かせる。
この胸の中を支配する醜い感情。それは酷く醜いものに見えた。リヴァイにとっての初めて淡い思いを寄せたのは目の前のウミなのに。
そのウミを今度はいつ殺されるのかもわからない状況で離れていこうとすることを咎めながら強くその腕を掴む。その光景を眺めながらヒストリアは長い睫毛を伏せる。
ユミルと離れ、そして何も言わず心ここにあらずといった面持ちで傍観していた。自分のその忌まわしき生い立ちが今こうして自分を責めるのだ。
かつて対面したあの男が。
2020.01.03
2021.02.16加筆修正
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